29、まっすぐな言葉

「そんなこと気にしてたの?」

 俺が謝罪を述べた時、木立は呆れたように笑って、カップに軽く口を当てた。

 俺は適当なパーカーとジーンズ、木立は小綺麗なワンピース。全く釣り合いがないことを意識しながら、当たりさわりのない会話を食いつぶした後のこと。

「……人間ってね、大切にされた経験に生かされると思うんだ」

 カップの上に手をすべらせながら、木立が語る。艶やかな色の爪。伏せた瞼がかすかに光を返す。

 絵を描き続けなさい、という言葉があれほど深く刻みつけられたのも、あれが人から大切にされた記憶だからか。

「あれから大変なことはたくさんあったけど、私はあの時の思い出に何度も生かされたよ」

 まともに顔を見ていられずに、俺はストローを噛みながら顔を伏せる。アイスコーヒーを啜ると濁った音が鳴った。薄くてまずい。


 

「どう、うまくいきそう?」

「わかんねー」

 タカトの隣に座って、俺はカウンターに突っ伏す。今日は酒がよく進みそうだった。よく言うところの、まずは友達から、という奴だったが、そこからどうやって健全に距離を詰めて行けばいいのか、俺にはまるでわからない。

 よしよしがんばったなと言って、タカトが頭をまぜてくる。俺はされるがままに突っ伏しながら、顔の熱を冷まそうとしている。

「愛は執着の美化語だっけ。執着してる?」

「……してる」

 タカトが口笛を吹いた。「そっちはどうなんだよ」強引に話をふる。

「だめだな、相手にされない」

 立川幸の主演する映画『福音』で、タカトはみごと主題歌の座を勝ち取った。カトリック信徒であることをあけっぴろげにしていたのも一役買ったのだろう。先日のクランクアップの立食パーティーで、彼は立川幸と話をすることに成功したらしい。……が。

「今日も素敵ですねって言ったら、『まあ、それが仕事だからね』って打ち返されるし」

「だろうな」あの手の人間は、そんな賛辞など飽きるほど聞いているだろう。

「一番キツかったのはさ、『今度私と寝る?』って訊かれたことだよ」

「寝ればよかったのに」

「あのな」と、苦笑。

 タカトの理論は俺みたいな低俗なのとは違って、どこか繊細で高潔だ。だからこそ、この相手には厄介だろうと思われた。

 女優・立川幸は圧倒的な存在感と演技の実力でのしあがった。万人受けするとっつきやすい美人ではないが、怜悧な顔立ちには見る者を黙らせるような美しさがある。意志の強い女の代名詞。同時に、週刊誌やワイドショーで熱愛疑惑が立て続けにかけられる、恋と敵の多い人間でもある。性的な奔放さはよく批判の的となり、枕営業についても「ありふれたことでしょう。他の女優だってアイドルだってみんなやってますよ」と言って、一時ひどくバッシングを受けていた。割り切った態度は生意気さと表裏一体だ。彼女は媚びないから好かれ、同時に嫌われる。

「難儀な人間を好きになったもんだな」

「本当になあ……」

 タカトは他人事のようにしみじみと言った。

「高校時代からあんなだったのか」

「本質は変わってないよ。彼女はいつでも美しいしかっこいい」

 曰く、高校時代から女優業に足をかけていた幸は、当時から図抜けた存在感があり、それゆえ周囲から浮きがちだった。警戒心と緊張感を絶えず纏っていた彼女は、タカト曰く、いつも人を殺しそうな目をしていたらしい。

「だけどね、ある日、幸さんが出た映画を見たんだ。そうしたら、スクリーンの向こうには、すごく優しそうな女の子の彼女がいた。普段はあんなに凛々しい人なのに、ちゃんと役の通り内気そうで控えめにしか見えない。痺れたよね」

 タカトはどこか夢見心地に語る。彼の感情は恋慕というよりは崇拝に近い。タカトの好意はこれほど純然としてまっすぐなのに、彼はどこまでも報われなかった。

 彼と会って話してから数日後、立川幸が人生最大のスキャンダルに襲われた。

 これまでの枕営業だの熱愛だのは可愛いものだった。発端はある映像と顧客リストの流出。流出したのは、品のない言い方をすれば、いわゆるハメ撮りという奴で、しかも児童ポルノだった。ローティーンの立川幸がその映像の中にいた、らしい。リストの中には有名プロデューサーや政治家の名前もあったとかで、下衆な人々の好奇心は留まるところを知らなかった。

 最初は事務所も黙殺を決め込んでいたが、次第にことを抑えきれなくなり、記者会見になった。幸はそこではっきりと宣言した。「私は父から強制されて男たちと寝ていました。あのビデオは本物です」と。

 彼女はそれから、自身が父親から受けていた性虐待を告白する。記者の意地悪な質問を真っ向から切り伏せるように、必要以上に強い言葉を使いながら。「では処女はお父さんに?」という質問にも、つまらなそうに「そうですね」と答えていた。

 この告発へのお茶の間の反応は、後味の悪いものを突き付けられた人間の、咄嗟の拒否反応に近かった。本当に被害に遭った人があんなことを言えるわけがないとか、性虐待なんてでっち上げだとか、本当は自分が誘ったんだろうとか、親をあんな風に言うなんて鬼畜だとか、色んな人が色んな言葉で幸に石を投げた。

 そんな矢先、立川幸が何者かに頭部を殴られ重傷を負った。犯人はすぐに捕まった。元熱狂的なファンによる犯行。自業自得だという声は大きく、彼女が被害届を出したことにさえ非難があがった。

 タカトはどうするのだろう。最初にニュースを聞いた時、真っ先に浮かんだのがそれだった。今の立川幸はまさしく針のむしろの上にいる。

 タカトの出した回答は、間もなく出されたひとつの曲だった。

『パンセ』

 この曲は立川幸をモデルにしたものだと、タカトはあるラジオで語る。僕は彼女をとても尊敬しています。夢見心地な調子などつゆとない声音。人間の強さと弱さを正面から暴く、呆れるほど彼らしい、まっすぐな曲だった。

 間もなく俺にも絵の依頼が回ってきた。強さと弱さの両面性の表現が、ベタなだけに難しい仕事だった。

 ダシにするなって怒られちゃった、としばらくしてタカトが報告してきた。声色はあまり暗くなかったから、心配の必要はなさそうだった。


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