14、悪意ない言葉


 水曜日は部活がない代わりに補修がある。補修がある日はクマと二人になる。

「昼休みごめんな、もしかしてずっと無理させてた?」

「いいや」

「オレたちのこと嫌いか?」

「別に」

 クマは見た目に反して気遣い屋で繊細だ。仲間内ではしゃいでいる時は、その繊細さを何重にもオブラートに包んで、がさつで男っぽい感じを出しているが。

 二人で話すときのクマは、集団の中にいるクマよりも少しだけ話しやすい。

「帰りラーメン食ってかね?」

 道着の入ったカバンを肩にかけ、クマはにっと笑う。笑顔には屈託も影もない。光の当たる場所だけで生きてきた人間、という感じ。

 バイトだから無理、というと、そっかーと残念そうに返される。じゃあこれやるよ、とクマは一袋だけ残ったカロリーメイトをこちらに投げてきた。「今度また野菜持ってくるから」善意。「母ちゃんがさ、よければ今度ご飯食べおいでって」善意。

 受け止められないのはたぶん、俺が歪んでいるからだ。

「ヒサってなんであんなに絵ぇ描くん? やっぱ画家になりたいとか?」

 思いもよらない角度からの質問。「さあ」と返事を濁した。

「まあでも普通に就職する方がいいよな結局」

 普通。

「まあ特別な才能あるなら別だけどさ。凡人的には普通に生きた方が幸せかなって思っちゃうよオレは」

「かもな」

 普通。

 普通の家には父親と母親がいる。普通の人間は生活保護を受けない。施設で育つことも母親や弟が自殺しようとすることもない。四六時中肌がぼろぼろと剥けたりしない。普通の人間には友達がいる。普通の高校生には養ってくれる人がいる。普通の人間は普通に進学して、普通に就職して、普通に結婚して、子どもを生む。それが普通の幸せだと言う。

 俺は普通のスタートラインにすら立てないのに、普通になれた人間は、普通を謙遜しながらありがたがる。普通イコールまとも、の世界。俺はずっとその外側にいる。

 じゃあな、と校門の前で別れて、歩きながらカロリーメイトを食べた。帰ったらどうせ大家がおかずを用意している。大家は俺がほとんど料理をしないことを知っている。だから「自分を大事にしなきゃだめよ」「成長期のごはんは大事なのよ」と食いきれないほど夕飯を用意する。これもたぶん、普通を歩いてこれた人間の善意。

 うんざりだ。



 酒の名前は長ったらしいカタカナばかりで、いつになっても名前と中身が一致しない。レシピを覚えられない俺を「モタモタすんなよ」と先輩がどつく。

 その日のバイトは客入りも少なく暇だった。清掃とレジと皿洗いすべてを終えると、すぐにやることがなくなった。

 強い洗剤のせいで手が荒れている。肘から先の皮膚が痒くて仕方ない。腕が無意識に掻いているのに、傷だらけになった腕を見て初めて気がつく。自分は思っているより参っているらしい。それに少し自分でも引いた。

 自分を大事にする方法なんて、みんなどこで覚えるのだろう。

 余計なことばかり考えてしまう日は、絵を描くか、文字で頭を埋める。バイト中にスケッチブックは一度やって怒られた。絵を描いていると周りが見えなくなりすぎて、電話を三度も取り逃したからだ。

 ズボンの後ろポケットから文庫本を取り出す。人間になり損なった男の話。きちんと本を読むのは久しぶりな気がする。食事の意味が分からなかった、と男の独白。腹がすく感覚がわからず、だけどいつも道化を演じて、空気を読んだ。普通がわからなくて、普通に迎合しようとして、泥濘に足をとられる。

「何お前太宰とか読むの? ジュンブンガク? どこ目指してんのぉ謎すぎー」

 自殺とかしないでよー。皿を下げてきた先輩が、冷やかしまじりに言った。清掃よろしく、という声を言い訳に、文庫本をポケットに突っ込んで、バックヤードから出た。モップを動かしながら、時間差でむくむくと怒りが湧いてきた。どうしてあんなことを言われなきゃいけない? 汚れたモップに苛立ちをぶつけて、がしがしと床に擦り付けた。

 何のために絵を描くのか。何を目指しているのか。何になりたいのか。どうしてみんなそんなことばかり訊きたがるのだろう。そんな目的意識なんてどうでもいい。将来なんてもっと。

 俺たちは何かにならなきゃいけないのか? 

 ぐちゃぐちゃした気持ちになると、思考が余計にまとまらなくなる。その日はバイトが終わるまでその調子で、客の前でグラスをひとつ落とした。すいません、と這いつくばって雑巾をかけながら、惨めさが喉からせりあがってきそうだった。

 帰りに吸う煙草の数はどんどん増えていく。

 絵を描くことをそれ以外の何かにしたくない。ちゃんと大人になった自分なんて想像もつかない。長生きなんてできればしたくない。嫌々仕事をしてまで生きていたくない。

 ――ねえ、一緒に死んじゃう?

 あの時木立の言葉に応えていたらどうなっていたのだろう。

 弟は地面に潰される瞬間、何を考えていたのだろう。

 寿命と一緒に短くなっていく煙草を、足で擦り消した。客室からくすねた煙草はもうあと二本しか残っていない。



 俺には尊敬できる人がいなかった。誰と一緒にいても、いつもひとりだった。文化祭の展示のために描いた大判の絵で、何度目かのなんとかという賞をとった。筒に入ったままの賞状が押し入れの奥に溜まっていく。評価を得られることは、周囲の眼差しから自分を守る盾にはなったが、感慨はそのたびに薄くなった。「やっぱヒサは普通とは違うんよなあ、美術の課題もひとりだけえげつなかったもんな」と、クマは相変わらず大袈裟な言い方で俺を持ち上げる。そうすることで俺が喜ぶと信じて疑わない。

「ひとつのことに熱中できる奴はすげーんだよな」

「……クマだって柔道やってるだろ」

「オレは親父も兄貴もやってたからやってるだけだよ。特別な才能とかないし」

 俺がしらけていくほど、周囲は俺を面白がってちやほやする。画伯だとか変人だとか、好き勝手にラベルを貼る。教師の中には「少し絵が描けるからってなんだ」「調子に乗るんじゃない」とやたら牽制してくる奴もいる。

 俺が絵を描くのは評価を得るためでもない。目的や目標があるわけでもない。なら俺はどうして絵を描いているのだろう。絵を描き続けなさい、と先生が言ったから? だとしたら俺の中味はほとんど空っぽだ。

 手が重い。意味なんて考えなくてもよかったはずなのに、言葉は澱のように胸の中に蓄積していく。

「らしくないですね。いつもはあんなに没頭して描いているのに」

 集中力の続かない俺を見て、顧問が小さく眉を寄せた。「何か悩んでいることでもあるの?」

 悩み、という言葉にされてしまうと大仰な気もした。言葉に迷って、結局うまく表に出てこない。ゆっくりを筆をおろす。

「そういう時は、一度外の世界に出てみるのも、良い刺激になるかもしれませんよ」

「……外?」

「そう。学校の外」

 顧問はそう言って美術予備校のパンフレットを差し出してくる。夏季の無料体験、一・二年生歓迎、との輝かしく大きな文字。

 美術部の三年生にも通っている人はいる。美大を受けるような人が行くところだ。自分には縁遠い存在だと思っていた。俺は首をひねる。

「……俺、大学行くかわかんないけど」

「わからないからこそ、行ってみるんですよ」

 顧問は真意のわからない笑みを浮かべた。俺はパンフレットを握りしめたまま、生徒たちの写真を眺めていた。じっとイーゼルを見ているいくつもの背中。

 タダより高いものはないというが、貧乏人はとかく無料という文字に弱い。無料体験、という言葉の誘惑に逆らえず、ものは試しで申し込んでみることにした。

 とはいえ、出費が全くないわけではない。予備校は東京にあった。電車で片道二時間近くかかる。交通費はバカにならないし、最低限の画材も自分で揃えなくてはならない。懐はあっという間に寒々しくなった。


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