マムシの娘になりまして~悪役令嬢帰蝶は本能寺の変を回避したい~

犬井ぬい

第一部(幼少編)

プロローグ 炎の中で誰かの手を握って

 燃え盛る炎の中で、手を伸ばす。

 どうか、どうか、救ってくださいと。


 救えなかったたくさんの者たちを。助けられなかった数多あまたの命を。この手が伸ばせたはずの、大切な人を。

 どうか。


 神でも仏でもないものに、ただ祈る。

 それは読経や念仏にも似た、

 聖歌や神への祈りにも似た、

 けれどもっと単純に、母を呼ぶ幼い子供の泣き声にも似ていた。


 焦げたにおい。すすと火の粉が飛び散り、視界を覆う。白と黒の煙が混ざってその人はもう、見えない。

 服が、髪が、自身が燃える中でそれらに構うことなく祈りを。


 痛みと熱に喘ぎながら、ただひたすらに伸ばされた手を、私は握った。





 *******



 パタパタと軽い足音を立て、長い木造りの廊下を少女が駆けていく。

 漆黒の髪は軽やかに風を切って揺れ、陽光に照らされて眩しいほどの光りを放つ。

 はつらつとした表情の中で、特にまっすぐな切れ長の瞳が印象的な少女だ。


「お待ちください、姫様!」


 後方からの叫ぶような静止も聞かず、草履も履かずに庭へ飛び出すと、少女は見える中で一番大きな柿の木へ手足をかけた。

 そんな所処ところを登るよりも、すぐそばにある門から出て外へ逃げた方が、追っ手を撒くにしても安全性の面でも良いに決まっている。

 だが今回に限っては、彼女は利便性よりも抗議性の効果を求めていた。木に登るこれで正解だ。


「嫌よ!絶対、結婚なんてしないんだから……!」


 抗議に叫ぶ声はまだ幼い。

 その甲高い声が、追ってきた侍女に届くか届かないかの瞬間に、ずるっ、と、かけたばかりの木の枝から足が滑る。ちいさな手足では、バランスを崩した少女自身の体を支えられない。


 落ちる。



 ゴンッ!!



 真っ青になって声をあげる侍女と、慌てた近衛このえが見守る中、頭を打つ鈍い音が、澄みきった空に響いた。

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