瑠璃宮の囚われ人

石田彗

第1話 夜の罠

 深夜、鳥も眠る時刻。

 燦国さんこく律国りつこく、そして両国に接する楷国かいこく、その三国が国境を交える深い森の中で、燦国の皇子、加羅からと腹心の瑪瑙めのうは、九つの陰にぐるりと周囲を取り囲まれていた。

 武装した影は一部の隙もない連携で、じわりと距離を詰めてくる。

 加羅は夏にも関わらず、頭の先から指の先まで、覆面や手袋で全身を一部の隙もなく覆い隠した異様な姿。唯一、覆面の細く開いた目元から、月下でも分かる鮮やかな新緑色の大きな瞳が鋭く辺りを一瞥する。

 二人を取り囲むのは、開戦中の律国、もしくは一月ほど前に突如として二国の諍いに参戦してきた、新興の大国、煌国こうこくのどちらかの影、隠密だろう。

 特徴のない揃いの装束からは判別できないが、情勢から見て、綺羅は煌国の筋と当たりをつけた。斥候によれば煌国軍の勢いは凄まじく、すでに律国は落城間近という。

 円の中央で加羅と瑪瑙は背中合わせに立ち、加羅は腰の長剣に手をかけた。いつでも応戦できるように身をかがめる。

 瑪瑙はといえば、いつもと同様の全く緊張感のない様子で、ふらりと綺羅の背後に立っている。適当に束ねたぼさほざの髪が夜風にそよぎ、これもいつもと同様に顔のほとんどを覆い隠す。

 より正確に言えば、取り囲まれているのは、皇子の加羅に扮した一つ違いの姉、綺羅だった。


 綺羅と弟との加羅の入れ替わりは、よくある子供の戯れがはじまりだ。

 しかしある日、兄で第一王子の九羅が突然失踪したことで、綺羅の運命は一変する。

 生まれつき体の弱かった弟の加羅が、皇太子として立たなければならなくなった時、二人の戯れは仕事になった。綺羅が五つの時だった。

 二人の父である斎羅王さいらおうは悩み、娘を憐れんだが、代わりとなる術はすぐには見つからず、民の動揺が収まるまでのその場しのぎの策として、父は渋々二人の入れ替わりを受け入れた。

 しかし、いつの日にか娘が皇女として華々しく嫁ぐ日を夢見て、彼は身代わり中の綺羅が決して素顔を晒さないようにと細心の注意を払った。霊薬の副作用という最もらしい言い訳も考えて、加羅の身代わりを務める綺羅に覆面を纏わせたのである。

 だから綺羅は五つの時から今のこの場に至るまで、いついかなる時も覆面を纏い、決して人前で素顔を晒さしたことがなかった。例外は二人の腹心、瑪瑙と翡翠だけである。

 だが、斎羅王の夢は叶わなかった。

 綺羅が十の年に、叔父の我羅がらが父の斎羅王を弑し、王位を簒奪したからだ。

 妬みや嫉妬といった、ありふれた理由だったのかもしれない。だが叔父がなぜ突然、兄を弑するような蛮行に走ったのか、今となってはもう誰にも分からない。なぜならば彼は王位を簒奪してから次第に狂気じみ、もはや正気ではないからだ。

 今では、我羅王は少しでも気に食わぬことがあれば見境なく戦を引き起こし、気に入らない者がいれば容赦なく首をはねるようになった。

 見識のある者はいち早く国を捨て、諫める者は既に死に絶え、小国ながら千年の歴史を有した荘厳華麗な文化大国の燦は、もはや見る影のなく荒廃してしまった。

 あれほど豊かだった山々の恵みも、叔父の果てしのない欲望によって蹂躙され、枯れ果てようとしていた。

 綺羅はといえば、怒涛の日々に翻弄され、本来の姿に戻る時期を完全に逸したままだった。いや、意図して戻ろうとしなかったのかもしれない。

 叔父は先王の子である綺羅と加羅をことのほか疎んだ。常に無理難題を押しつけて、隙あらば命を奪おうとしてきた。

 しかし決して、自ら手を下そうとすることはなかった。

 なぜなら二人は非常に強力な加護を持つ、精霊の稀子まれごだったからである。もしも稀子殺しを行えば、精霊の怒りは末代までの恐ろしい祟りとなって我が身に返ることとなる。


 加護とは、国を守護し万物を形造るために、神より使わされた精霊から、この大陸に生まれる全ての人々に与えられる祝福のことである。

 加護の属性は水、地、風、火、光、闇の六つを源とし、そこから生み出される草木や鉱物、生物、大気、現象、道具と、万物に及ぶ。

 だが加護は魔力とは違う。魔力のように自分の意思で自在に操れるようなものではない。

 加護とは守護や護符、もしくは才能に近いものである。加護は受けた人々に寄り添って、生活をささえてくれる。ふとした瞬間に運に恵まれたり、ある道に人よりも優れた才を表し、必ずしも災難を避けられるというわけではないが、限られた場面でなんとなく幸運に恵まれているような感じがする、そういうものである。

 ほとんどの人々が得る加護は、至極ささやかで、運や才能のように生活に寄り添って、そっと暮らしを支えている。あまりにもささやかなため、どのような加護が与えられているか知らぬままに、一生を終えるものも少なくない。

 しかし、ごく稀に非常に強い加護を持つ者がいる。それを人々は「精霊の愛子」や「精霊の稀子」などと呼ぶ。綺羅と加羅はその稀子であった。

 叔父は二人の入れ替わりを知ってか知らずか、体の弱い弟を人質にとり、綺羅に無理難題を押しつけた。その過程で綺羅が死ぬことを願っていた。綺羅は入れ替わりを続けたまま、弟を守るために叔父の傀儡と成り果てた。

 十四の年に初陣を踏んで以来、綺羅は丸二年近く戦場を渡り歩き続けていた。例え宮城に帰ることができなくとも、綺羅は加羅への文を欠かしたことがない。綺羅の他愛のない話に、加羅はいつも丁寧な返事をくれた。だがここ半年ほど、そんな弟からの頼りも絶えて久しい。何度使いを出しても返事がないどころか、何の音沙汰もない。何度目かの使いに返事が来なかった時わ綺羅は弟がこの世を去ったことを悟った。先の厳冬の朝のことである。

 だか、そのことに安堵してもいた。

 生まれつき虚弱な体質で、一日の大半を寝て過ごさなくては生きては行けぬ繊細な弟には、この先、綺羅が、燦国が辿るであろう過酷な運命を受け入れることはとてもできないと思うからだ。

 最後に側に居てやれなかったことは悔やまれるが、悲惨な結末を知らぬままに逝った方が、弟にとってはどれほど安らかな最後であっただろうか。

 母は弟を生み亡くなった。

 兄は十二の年に行方不明となり、以来消息が分からない。

 父は六年前に叔父に弑され、弟は先の冬を越せずにこの世を去った。

 唯一、残された綺羅の身も、この戦に敗れれば、考えうる限りの悲惨な最後を遂げることになるだろう。

 そして煌国軍が快進撃を続け、隣国の律の落城も間もない今、それはすでに避けられぬ未来として綺羅の眼前に迫っていた。

 民にも、兵にも罪はない。

 綺羅は息つく暇もなく、様々な戦場に追い立てられながら、何とかして一人でも多くの民を救い、一人でも多くの敵を倒したくないと祈った。だが家族も民も兵も敵も、みな綺羅の目の前で死んでいった。見せつけられるのは、いつも自分の無力さのみ。

 

 綺羅が前の足に体重を移し、より一層身を低く構えた時、不意に二人を取り囲む円の一部が途切れ、闇の中から一人の影が歩み出てきた。

 体格で男と分かる。

 他の影と同じ黒装束に半顔の覆面、だが明らかに気配が違う。男は他の影よりも一歩下がった位置に立ち、腕を組んで真っ直ぐに綺羅を見る。

 その瞬間に、綺羅の全身が鳥肌立った。

 頭皮が引きつって、締め付けられるような酷い頭痛に変わる。先ほどまで汗ばんでいた皮膚を、今は冷や汗が伝い落ちていた。

 綺羅の動揺につられたかのように、木々が激しく揺れ、ざわざわと大きな音を立てた。

 綺羅には男の正体がすぐに分かった。

 ごく遠目からであったが、斥候に紛れた偵察の折に、戦場で目にしたことがあるのだ。その時と同じ目だった。

 他の影よりも一回り大きい、鍛えられた長身。闇に溶け込む黒い髪。半顔の覆面から覗く、研ぎ澄まされた刃のように鋭い切長の瞳。纏うのは厳冬の凍てついた湖面のように冷たい気配。

 闇から現れたのは、燦国と律国の丸二年に及ぶ諍いに突然割込んで、すでに律国の半分を下した新興の大国、煌国軍を率いる、煌国第三皇子の煌紫条だった。

 「翡翠を返せ」

 綺羅が低い声で告げた。告げながら、綺羅の腹の底にぞわりと嫌な震えが走った。

 今夜、綺羅は罠と分かってあえておびき出された。

 綺羅には瑪瑙めのう翡翠ひすいという二人の腹心がいる。その翡翠が三日前から行方知れずとなっていた。

 瑪瑙と翡翠は、綺羅が五つの時から側に仕え、加羅の亡き今、綺羅にとって唯一の家族と言える存在だ。

 瑪瑙の捜索で、すぐに翡翠の手掛かりを得たが、開戦中の緊迫した状況の中では、いくら腹心といえど、安易に大規模な捜索隊を出すことはできなかった。さらに、翡翠は仲間を見捨てて、敵前で逃亡したのだと謗る者もいて、尚更、捜索はむずかしくなった。

 というのも翡翠は綺羅の腹心であり、医者でもあった。それも恐ろしく腕の立つ医者だ。医者はとても貴重なため、例え戦場の真っ只中にあっても不殺生の不文律がある。その不文律は大陸中で遵守され、医者殺しは大罪の一つとなっている。

 医者は投降すれば賓客として扱われるため、仲間を捨てて逃げたと謗るものがいたのである。

 すぐに手掛かりの知れた時点で、これは自分を誘き出すための罠だと予想がついた。また医師である翡翠は、戦場のど真ん中にあっても医師不殺生の不文律に守られて、命の危険がないことも分かっていた。

 だが翡翠を人質にとられては、流石の綺羅も無茶をせずにはいられない。罠だと分かっていたとしても、翡翠を見捨てることは、綺羅には決してできないことだった。それが軍を率いる大将として、どんなに身勝手で、愚かで、危険な行為だとしても、綺羅には翡翠を探しに行かないという選択肢はなかった。

 だから真夜中に、瑪瑙たった一人を連れて、与えられた手掛かりに導かれるまま、この国境の森に来たのである。

 もちろん勝算はあった。たった一人とはいえ瑪瑙がいれば、敵の数や強さは問題ではない。こう見えて瑪瑙は彼らの元同僚、かつては大陸中の影一族の頭領を務めた男だからである。彼より強い者を綺羅は知らない。

 そして何より、綺羅には稀子と言われる強い加護がある。加護は自分の意思で操れるようなものではないが、もし相手が悪意を持って命に関わるような害をなそうとすれば、きっと精霊達が助けてくれるに違いない。

 だが誤算もあった。罠だとしても、まさか敵軍の大将自らが捕物に来るとは思わなかったのである。

 確かに綺羅を捉えようとするのは大捕物だが、敵にとっても危険は大きい。ましてや律国を今まさに落城させようとしているこの状況で、落城を放っておいて、成功するかどうかもわからない捕物の方に来るなど、全く予想外だった。

 そもそも、煌国軍がこのような遠くまでわざわざ遠征し、燦国や律国のような小国の諍いに横槍を入れることからして普通ではない。

 どうしても欲しいというならば、二国の諍いに決着がついてから、ゆっくりと残った方を攻めればいいだけだからだ。

 

 綺羅はあまりにも嫌な予感がして、気分が悪くなった。無意識のうちに柄を握る手に力が入り、指先が痺れるように冷たくなる。

 必死に頭を回転させて、目の前に現れた男の意味を考える。

 なぜか小国の諍いに横槍を入れてきた煌国。律国の落城を目前にして、成功するか分からない燦国軍大将の捕物の方にやってきた煌国軍大将。そして唯一の弱みを突かれ、まんまと誘き出された自分。

 これらの状況が示すのは只一つ。彼らの目的はどちらの国でもなく、綺羅だということだ。

 「ようやく、気づいたか」

 紫条が言い終わらぬうちに、綺羅は身を翻した。

 だが、すでに遅かった。

 綺羅は首筋に軽い衝撃を感じると、膝から崩れ落ちた。

 「瑪瑙っ、お前……!」

 背後に立っていた瑪瑙が綺羅の急所を打ったのだ。地面に叩きつけられる前に、瑪瑙が腕を伸ばして綺羅を抱き寄せた。

 「大丈夫、絶対に綺羅を守る。僕も翡翠も、何があっても綺羅の味方だから」

 綺羅の耳元でほとんど唇だけを動かして瑪瑙は囁くと、ぼさぼさの髪の向こうで片目を瞑った。

 「ああ……、な、んで……」閉じかけた綺羅の瞳から、ぽろりと真珠のような涙が一粒溢れる。

 手掛かりを見つけてきたのは瑪瑙だった。そして綺羅の弱みを一番分かっているのは翡翠である。つまり二人が、翡翠と瑪瑙が煌国軍の紫条と通じ、綺羅を罠にはめたのだ。

 意識を失った綺羅を抱き上げると、瑪瑙は懐から取り出した薄布で綺羅の全身を丁寧に包んだ。

 影の一人が瑪瑙に歩み寄る。

 「それ以上近づけば、殺す」

 瑪瑙の声からは一切の感情が抜け落ちていた。

 近づいた影が反射的に倍の距離を飛びのく。

 「よい、行くぞ」かけた紫条の声が消えぬ間に、人影は全て消えていた。

 残ったのは、細い月に照らされた暗く深い森と、はざわざわと木々の騒ぐ音のみ。


 闇夜を音もなく走りつつ、紫条は先程捕らえた皇子の様子を思い出していた。

 戦場では、燦国の第二皇子の加羅はかなり腕が立つと評判だった。紫条自身も遠くからだが、加羅が戦う様子を見たことがある。決して力は強くないが、身軽さを生かした臨機応変な戦いぶりは堂に入ったものだった。

 しかし近くで見た燦国の第二皇子加羅は、せいぜい十五、六の年。ほっそりとした立ち姿は、同じ年ごろの少年よりもひと回り小さく華奢に見える。

 全身の肌が爛れた二目と見られぬ姿という噂に違わず、顔には覆面、手には手袋、足元には革の編み上げ靴というように、全身の肌を一分の隙もなく覆い隠す異様な姿。

 しかし、加羅のわずかに開いた覆面の隙間から覗く大きな瞳は、黒く長い睫毛がふさりと縁取る、夜目にも分かる鮮やかな新緑色。かつての麗しい姿が偲ばれる目元だった。

 だが見た目など、紫条にとってはどうでもいいことだ。

 重要なのは、国を救うために必要な、加羅の持つ強い加護の力であり、それさえあれば本人など付属物に過ぎないのだから。

 紫条は影たちと、そして加羅を抱いた瑪瑙と、暗い森の中を、わずかに白みはじめた空に向かって駆け抜けていった。

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