第04話 帰る家 #1

ルナの目に飛び込んできたのは、太陽が、その一日を終える時の色だった。

華道部の畳の上を滑る赤色は、いまにも夕闇に支配されようとしている。


「……桜花おうかちゃん?」


ルナは足元の魔法陣から歩み出て、部屋の中を見渡した。

誰も居ない。

紫の光を放つ魔法陣がゆっくりと消え去ってしまうと、そこには、夕闇と静寂だけが取り残される。


(……)


ほんとうに――元の世界に戻ってきたのだろうか? あれだけ異常な世界を覗き見ておいて、果たして、そんなに都合よく、何もかも元通りになるものだろうか?


言い様のない感情に襲われたルナが、不安ではち切れそうになったとき――

がら、と、部室の扉が勢いよく開いた。


そこに立っていたのは、切羽詰まった表情をいっぱいに浮かべた、百合ヶ峰ゆりがみね桜花おうかであった。


「――い、いいい……岩崎さん!」と、脚をもつれさせながら、桜花は、ルナのもとに駆け寄る。「だ、大丈夫ですの? いったい何が……?」

「……よ」

「よ?」

「よかったあああ……」と、ルナはへなへなと畳に座り込んだ。「戻って、きてる……」





ルナにとって、異世界で過ごした時間はずいぶんと長かった。

召喚されて、悪魔に恐怖して、陽の光が差し込んで――恐怖が薄れて。ハデスとオシリス――ふたりの【魔族】から、あちらの世界の五百年に渡る歴史を聞かされた。そして、週イチで【魔力】を与えることを約束して帰還するまで。

帰る頃には破れた天井から差し込む光がとっぷりと暮れていたことから、ルナの体感では、六、七時間は経過したように思われた。

ところが元の世界に戻ってみると、ルナが部室から消えたのは、ほんの十分程度らしかった。


……。本当、なんだ)


ルナはいま、車窓に流れる風景を眺めている。


「……」


こうしてルナが車に揺られているのは、桜花が、ルナを家まで送ると主張したためだ。

魔法陣に吸い込まれたルナへの心配が半分、好奇心が半分……と、いったところだろうか。

それはいい。送ってもらえることはありがたいと、素直に思う。


(でも……)


座席に浅く腰掛けたまま、ルナは落ち着きなくグラスに入った氷をカラカラと混ぜた。


「――ねえ、桜花ちゃん」

「何でしょう?」と、隣で紅茶を傾けていた桜花が応える。

「車って、バーカウンターがあるものだっけ……?」

「あら、付いていない車もありますの?」


黒塗りの百合ヶ峰家の車は異様に縦に長かった。

ルナたちの座る後部座席はまるで個室のレストランで、ソファは羽毛布団のようにルナの身体をふんわりと受け止めた。リムジン、という奴だろうか。冷蔵庫の奥にワインボトルが見えた時は思わず笑ってしまった。


「お嬢様。備え付けられていない車のほうが、一般的でございます」


と、運転席から老齢の紳士の声が上がる。

白い髭を上品に整えた彼は、名を笠村かさむらといい、桜花の「お付き」であるという。


「まあ。では、喉が渇いた時はどうしているのかしら」


心底不思議そうな口調でそう呟くと、桜花は、ふと思い出したように話題を変えた。


「そうそう、岩崎さん。明日の朝も迎えに来ますから、一緒に行きましょう」

「え、ほんと? さすがに悪いよ」

「だって、いつも自転車でしょう? 今日は学校に置いて来ましたから、困るのではないかと。電車も苦手とおっしゃっていましたし」


桜花の言う通り、ルナは電車が苦手だった。乗ると気分が悪くなるのだ。

実家は元より車社会だから何も困らなかったけど、都会に出てくるとちょっと不便だ。


「んむ……。ありがと」


ルナが素直にそう応えると、桜花は笑みを浮かべた。

彼女の「心配」の方は、これで解消されたらしい。


次は「好奇心」の番だった。


「――」と、桜花は呟く。

「え?」ルナは桜花に視線を向けた。

「それで、」と、桜花は冗談交じりの、しかし、その奥底から抑え切れないワクワクを覗かせる口調で、問う。「異世界に召喚されて【勇者】になったのかしら? ……岩崎さんは」

「……だとしたら、どう?」

「とっても素敵じゃありませんか!」


と、桜花は胸の前で両手を「ぐっ」と握りしめて、目を輝かせた。


「……」


――勇者。


ルナは反芻する。

召喚されたあたしは、決して【勇者】なんかじゃなかった――と。

ルナは、自身が無意識に放った深紫の【渦】を思い出した。オシリスの腕が風船のように弾け飛ぶ光景と、頬をつたう生暖かい肉片を。

純然たる破壊の力。

世界を終わらせるという、【終焉の魔王】。

あれは……素敵なものとは、とても思えない。


「岩崎さん?」桜花の怪訝そうな声。

「……あ、うん。ごめん」と、思わずルナは謝る。そして、「よく――わかんないかな。気が付いたら、戻ってたから」


――嘘をついた。


「……ふぅん?」


桜花は不満そうな様子で、ぷぅ、と頬を膨らませてソファに背中を預ける。

そしてハンドルを握る老紳士に、不機嫌の色を消し切らないまま、その話題を放り投げた。


「笠村。あなたはどう考えるかしら?」

「そうですね……。お話をお伺いしますと、まるで【神隠し】のようですな」

「……神隠し?」


想定外の、でもそれはそれで別のワクワクを持ち込んでくれそうな単語に、桜花は好奇心に満ちた瞳を光らせた。

既に、桜花に不機嫌な空気はない。どこまでもこの「お嬢様」の扱いを心得ている笠村の手腕に、ルナは苦笑を噛み殺した。


「ええ。私が百合ヶ峰ゆりがみねにお仕えする以前、とある自称民俗学者から聞いた話です」


と怪しげな前置きをする笠村の語りに、桜花は興味津々だ。民俗学者を自称する肩書きの時点で不安が募るが、桜花は、ちょっと怪しいくらいの夢物語が好きなのかも知れない。


「世界には、こちらとあちら――現実世界と、また別の世界を区切る境界がある、と」

「別の世界?」聞き返す桜花に、笠村はルームミラー越しの視線だけで頷いて見せる。

「――魔なるもののうごめく世界、だそうです。我が国では近代まで、その魔なる世界が現実と重なり合って存在していた、と。だからこそ稀に、あちら側に迷い込んでしまう。古くは【神隠し】と呼ばれていたその現象が、現代風に申し上げれば、お嬢様の好まれる【異世界召喚】なのかも知れません」

「ふふ……素敵すぎますわ、岩崎さん!」

「いやその、あたしは別に」

「少なくとも」


と、笠村は続けて、車の速度を落とした。


「岩崎様には帰るお家がございます。それが、何より素晴らしい事かと。――到着です」

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