第02話 魔王召喚 #2

――暗闇。

唯一の光源は、足元の魔法陣から放たれる鈍い紫の光だけ。


突如として、ルナは放課後の華道部部室から、見知らぬ暗闇の中へと移動していた。

まるで――【召喚】されたかのように。


手の中には、ハンカチに包まれた木の枝が握られていた。その感触は先程まで部室で感じていたものと寸分違わない。

これは夢なんかじゃない、現実なのだと、枝の手触りが確かに告げていた。


(……ここ、どこ……?)


ルナは、その暗闇が広大な室内であるように感じた。

窓を全て密閉した体育館のように広く、明かりのまったくない空間である。

静まり返った暗闇に、ルナが唾液を飲み込む音だけが響く。暑くも寒くもないのに、やけに喉が渇くような気がした。


魔法陣の鈍い紫色が、自らの姿をうっすらと照らす。それがかろうじて、恐怖と混乱に飲み込まれる直前で、ルナの理性を踏み留まらせていた。


緊張を張り巡らせる、ルナのすぐそばで。

暗闇の中から、静かに女の声が上がった。


「――

「――っ!?」


息を呑む。

声すら上げることができず、ルナは、声の出処に視線を向けた。


そこには、頭を垂れてひざまずく女の姿があった。

確かに人型である「それ」はしかし、人間にはない特徴を備えていた。

頭部から突き出る二本の角。

尻尾。

背には、暗闇に溶け込むような黒い羽根。

ルナは荒唐無稽さを認めながらも、脳裏に浮かぶその呼称を反芻した。


――


その「悪魔」は顔を伏せたまま、感極まったように、


「五百年……五百年ものあいだ、オシリスは……この日を待ちわびておりました」


と、震える声を吐き出した。


ルナは「悪魔」から視線を外さずに、じり、と後退する。

その退路を塞ぐように、ルナの背後から、もうひとつの声が響いた。


「――我らが王の降臨、お慶び申し上げます。……魔王様」


深淵の底から響く男の声。

ルナはゆっくりと首を回して、その姿を視界に収めた。


正面の「悪魔」と同様、ルナに向かって跪いている。身に纏うのは、学校で幾度も目にしてきた神父服カソックであった。

女の方とは異なり、外見は普通の人間と変わりない。だが不思議なことにルナの本能は、その男から、角の女とまったく同じものを感じ取る。


すなわち――悪魔、と。


「強制的な召喚、お許しください。私の名は、ハデス」


神父――ハデスは、ゆっくりと顔を上げた。

精悍な顔の中、光の消え失せた真っ黒な瞳がルナを見据えている。

ハデスは片手を上げ、ルナの正面にいる「悪魔」女を指し示した。


「そして、そちらがオシリス。――我々は、あなた様の直系眷属けんぞくです」


オシリスと呼ばれた悪魔女は伏せていた顔を上げる。ネコ科の猛獣を思わせる真紅の瞳を潤ませて、オシリスは、ルナを見上げていた。


「ああ、そのお身体……まるで人間のよう。さぞあちらで苦労なさったのでしょう……!」


と、オシリスはルナに向かって手を伸ばした。

その白い手が顔に触れる直前。ルナは耐え切れない恐怖に襲われ、拒絶の叫びを上げる。


「――い、いやだっ!」


ルナのとび色の瞳が、強く、紫に輝いた。

――瞬間。

虚空から出現した深紫色の「渦」が、またたく間にオシリスの片腕を爆散させた。

びしゃり、と、ルナの顔に肉片と体液が降りかかる。


「……?」ルナは呆然として、どろりと頬をつたう暖かな液体に触れた。

「……っ、ま、魔王様……!?」と、戸惑いの声を上げるオシリス。


オシリスは立ち上がり、ルナから離れるようによろめいた。

ところがその行動に逆らうかの如く、乱暴に焼き千切られたオシリスの腕の傷口から、肉の触手が幾本も飛び出して来る。触手は破壊する物体を求めるように暴れ、手近な獲物であるルナに襲いかかった。


(――ッ!)


ルナは恐怖に顔をひきつらせる。

――が、触手たちはルナの身体に辿り着く前に、ルナの背後から放たれた業火に焼き払われた。

瞬時に炭化した触手は嫌な匂いを漂わせながら、ぼろぼろと崩れ落ちる。


ハデスは炎を放った手をかざしたまま、鋭い口調でオシリスをとがめた。


「……オシリス。魔王様は混乱しておられる。事を焦るな」

「も、申し訳ございません、魔王様……」


焼かれたところで何でもない、とでも言うように、オシリスの傷口から再び触手が生える。

だが今回は、獲物を求めて肉の触手が暴れ回ることはなかった。

ぐねぐねとうごめきながら何本もの触手が合体して、オシリスの腕を、手のひらを、指の一本一本を形作ってゆく。最後に表面をつるりとした皮膚が覆ってしまうと、傷一つないオシリスの白い細腕が再生された。


(……)


どくん、どくん、と血液を循環させる心臓の音を聞きながら、ルナはオシリスの身体が修復される光景を凝視していた。

人ならざる存在が、悪魔が、繰り広げる光景を。


魔なるものを、ルナはその瞳に映している。


(……


魔王。


先程から繰り返されるその単語が、ようやくルナの思考に浸透する。


……誰が? あたしが?

オシリスの腕を破壊した、深紫の「渦」。

あたしが……あれを、やったの?


それを理解したとき。ルナは、無意識にしっかりと握りしめていた木の枝を、それを包むハンカチごと、ぽろりと取り落した。

まるで、現実との架け橋を見失ったかのように。


足元には、鈍く輝く魔法陣。

魔法陣の上に転がった枝は、劇的な変貌を遂げた。


大地から切り離されたはずの木の枝は、まるで魔法陣から無理矢理に生命力を注ぎ込まれたかのように、あるいは早回しフィルムのように――爆発的な速度で成長する。


「え、え、えええええ……!?」


呆気にとられるルナが見守る中、枝は逞しい根を床に張りわたらせ、大人が数人がかりで手を伸ばしても一周できないほどの、太い幹を形成する。ぐんぐんと葉を生い茂らせながら伸びる大樹は、凄まじい力と速度で、ついに高い天井を突き破った。


――暗闇が、晴れる。


「……素晴らしい」


ハデスは軽く首を振りながら、心底感心した様子で大樹を見上げる。

オシリスは「ぽかん」と口を開けて、やはり突如現れた大樹に圧倒されているようだった。


破壊された天井から差し込む日光が、広い部屋を照らし出している。


ルナは明るい光のもとで、恐る恐る、オシリスとハデスの姿を観察する。

彼らに対して、暗所で感じた恐怖は薄れていた。


二人に釣られるように大樹を見上げ、その目を細める。

慣れ親しんだ故郷の山々を、そして、そこに生きる逞しい緑を思い出す。


「――あの」


と、ルナは声を上げた。

オシリスとハデスは「はっ」としてその場に片膝を突き、ルナの次の言葉を待つ。


ルナは二人を見回してひとつ深呼吸すると、苦笑交じりのお願いを口にした。


「最初から説明してくれない?」

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