第27話 特級悪魔

 夜の闇に包まれた森。そこは静かな場所の代名詞とされるが、今ザック達のいる夜の森はあまりにも静かすぎた。風は止み、虫達は合唱をやめ、フクロウはそっと目を閉じ、森は完全に生気を失った。


 その原因はあまりにも明確だった。ザックの目の前にいる黒いツノの生えた人間らしき「何か」から放たれる凄まじいプレッシャー。生命としての本能が目の前のそれを危険だと告げている。


「ブルーはどこだ」


 若々しいが威厳のある声が二人に重くのしかかる。そして、そいつが言ったことと、溢れんばかりの殺気が二人にそいつの目的を悟らせた。


「お前は誰だ!」


 そう聞かずにはいられなかった。張り詰めた恐怖に煽られて、正体不明の脅威の正体を知ろうとした。しかし、それがいけなかった。


 ペキャリ


 ドロリとしたものが弾け、硬いものが砕けた音。サリスがその音を認識した次の瞬間に目の当たりにした光景は、少年を恐怖のどん底に突き落とした。


「あ……あぁ……ザッ…ク……さん……」


 恐怖で悲鳴すら出なかった。体の震えが止まらず、逃げ出したいのに足は動かない。今、彼の目の前には顔面を破壊され、痙攣して地面に倒れ伏すザックがあった。


「おいおい、こっちが質問してんのに何で答えないんだよ。ついムカッときて殴っちまったじゃねぇか」


 そいつは手にこびりついた肉片と血を払いながらため息をついた。圧倒的な力と奪った命への無関心。それを見て、こいつにとって人間の命は虫以下の価値しかないのだと理解した。


「あぁ、そういやブルーは孤児院やってるんだった。なら、このガキの死体でも吊るしときゃ寄ってくるか」


 そいつはサリスの方を向き、ゆっくりと近づいてくる。逃げろ、逃げろと何度も自分の体に命令しても体は動こうとしない。奴が拳を構えて振り下ろそうとしたその刹那、ザックが飛び起きてそいつに殴りかかった。バシッと完璧に受け止められたが、ザックはこう叫んだ。


「逃げろ!」


 片目が潰れ、頭からどくどくと血を流しながらも力を振り絞ってサリスを逃がそうとした。その覚悟を受け取ったサリスは、恩人を残して逃げるのを躊躇いながらも走り出した。一方、問題のそいつは不気味なくらい静かだった。サリスを追うでも、ザックに反撃するでもなく、ザックの拳を握ったまま立ち尽くしていた。


 ザックはその先を見逃さず追撃の蹴りを放ったが、それに合わせてそいつが軽く拳を振った。メキリ。骨がへし折れた音がはっきりと聞こえ、ザックの脛に関節が一つ増えた。凄まじい痛みと蹴りを跳ね返された反動で体制を崩し、今にも地面に転がりそうだ。しかし、ザックもタダでやられる気はなかった。


「サンダァボルトォ!」


 空中に発生した魔法陣から雷が落ち、敵に襲いかかる。ザックを歯を食いしばって痛みに耐え、なけなしの魔力を全て使った上級魔法。まともにくらえば上級悪魔もタダではすまないだろう。だが、そいつはまるで羽虫を払うかのように軽く手を振って雷をかき消した。


「うそ……だろ……」


 ザックはそのままドサリと地面に落ちた。砕かれた頭蓋とへし折られた脛骨、止まらない出血、意識は朦朧として立つこともできない。


(俺は……このまま死ぬのか。訳もわからないまま、仇も討てず、何も成せないまま……)


『ザックは嘘だって思ってるだろうけどさ、僕はザックの優しいところ、本当に大好きなんだよ?』


(あぁクソ。なんで今思い出すんだ)


 ザックは自分の弱さも、あの学園の中で敵討ちなんてことを考えてる自分も嫌いだった。だから、アルトの言葉も何度も否定した。だが、そのたびにアルトは「ザックの優しいところが好き」と言い続けた。ザックはそれでほんの少しは自分を好きになれた。


(俺が死んだら、アルトは悲しんでくれるかな)


 奴隷としてこき使われて、国への復讐を誓った時点で自分の幸せは潰えたと思っていた。しかし、今になって学園での日々が幸せだったと気づいた。自分の居場所はあそこだったのだと。


(もっと、アルト達といっしょに居たかったな)


 もう遅いと分かりきっている。それでも、後悔せずにはいられなかった。目頭が熱くなり、ほろりと涙が流れた。


「ほいっと」


 そんな言葉が聞こえた次の瞬間、予想外の事態が起こった。視界ははっきりとしていて、さっきまで自分を蝕んでいた痛みも綺麗さっぱり消えていた。そして、目の前にはニコニコと笑う黒いツノのあいつがいた。頭の中で整理がつかない。何故さっきまで自分を襲っていたあいつが自分の傷を治したのか、何故笑っているのか、そもそもこいつは何故ブルーを狙っているのか。いや、ザックにとって今重要なのはそんなことではない。


「ウラァ!」


 今、目の前にいる敵に対処することだ。ザックの放った蹴りをひらりと避けたそいつはピョンピョンと跳ねて距離をとり、満足そうにニヤリと笑った。


「なかなかいい反応だな。そう、最初にすべきことは混乱ではなく対処だ」

「……なんのつもりだ」

「ブルーが来るまでの暇つぶしだ。久々のシャバなもんでな」

「随分と余裕だな。お前はこの後ブルーさんと戦うことになるんだぞ」

「お前が何万人いようが俺には傷一つつけられねぇよ。ちょっと褒めただけで自惚れんな」


 頭を掻きながらそいつはそう吐き捨てた。確かにそいつの言ってることは正しい。さっきの戦いの中であいつは魔法も使っていないどころか、軽く手を振った程度のことしかしていない。ザックが蚊を潰そうとする時の方がよっぽど動いている。


「あぁそうだ。お前がさっきした質問に答えてやるよ。俺の名はナックル。地獄変の生き残りと言えばわかりやすいか?」


 その発言でザックは総毛立った。ナックルという名の悪魔は、魔法使いであれば知らないものはいないほどの有名な悪魔だ。というのも、ナックルは四十年前の悪魔の大侵攻「地獄変」の際に現れた十体の特級悪魔の唯一の生き残りなのだ。どうりで全く歯が立たないわけだ。しかし、ザックは躊躇わず一歩を踏み出した。一瞬で間合いを詰め、ラッシュを繰り出すがナックルはそれを全て見切ってひらりと避ける。


「ほう、全く萎縮しないとはな。恐怖になれているのか、それともただの蛮勇か」


 ザックの素早いラッシュを避けながらそう呟いた。すると、突然ナックルの体は銅像になったかのように動かなくなった。さらに何故かザックはこのチャンスを見逃してバックステップで距離を取った。そして次の瞬間、横から巨大な火球が襲い掛かりナックルを火だるまにした。


「おせぇよお前ら」

「助けてもらったのにその言い草はないんじゃないかな」

「仕方ないよ。一人で相手してたんだから」


 森の中から二つの影が出てきて、燃え盛る火に照らされる。そこには、アルトとシアンが立っていた。アルトからの念話を受け取っていたザックは、近づいてくる二人から気を逸らすため無謀とも思える攻撃を仕掛けたのだ。見事作戦は成功し、アルトのマスターフレアがナックルに直撃した。


「ブルーさんは今どうしてるんだ」

「子供達を守るための結界を張ってる。僕らはそれが終わるまでの時間稼ぎだ」

「特級相手に時間稼ぎねぇ。兄さんも酷なことを言うよ」


 ごうごうと燃える大火の中からナックルが体についた煤を払いながら出てきた。しかし、見たところ体に傷と言えるものはなかった。


「バケモンかよ……」

「あれが直撃してピンピンしてるなんて……」

「まさに"特級"」


 青色の目を光らせてシアンはそう呟いた。三人は近づいてくるナックルに対して身構えた。火から完全に逃れて煤を払い終わると、ナックルは深いため息をついた。


「あんな不意打ちにやられるなんて、やっぱ鈍ってやがる」


 パンと両手で頬を叩き、ぶんぶんと頭を振ってからナックルも構えた。ナックルの黒いツノは天をつくように伸び、炎で服が燃えて露わになった肉体には禍々しい呪印が刻まれていた。


「少しやる気が出た。来い、ガキども」


 その言葉を合図に、三人は動き出した

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