第4話 晴れて乾燥して風の心地よい秋の縁側

 向日葵は悩んでいた。


 秋晴れの空は日差しが痛いほど明るい。朝干した椿の着物はあっと言う間に乾いてしまった。


 着替えたら彼を駅まで送らなければならない。


 本当にそうなのだろうか。両親の言うとおり彼をここにとどめ置いてはいけないのだろうか。あんな母親のいるところに返したくない。それに向日葵に『今カレ』はいないのだ。顔を見てしまったせいで捨てたはずの想いがふたたび芽吹こうとしている。こんなに愛しいのに別れてしまうのは寂しい。死が二人を分かつまでこの家でのんびり暮らしてはどうか。


 いずれにしても兄のぶかぶかのジャージのままではなんとなく可哀想だ。普段着の着物に着替えさせてやろう。


 着物を抱えて家の中をうろうろする。客間にも居間にもいなかった。玄関のたたきに草履があったので外には出ていないようだが、家の中を探検しているのだろうか。池谷家はそれなりに広い。


 廊下を行くと、縁側で寝ているのを発見した。


 暖かく乾燥した晴れの日、縁側で寝るのはさぞかし気持ちがいいだろう。


 向日葵は音を立てぬよう静かに椿に歩み寄ると、彼の頭のそばに腰を下ろした。


 ふと見ると、椿の手の近くにスマホが転がっていた。椿のスマホだ。この半年で機種変していなかったようである。骨董品みたいなiPhoneを後生大事に五年くらい使っていることになる。SNSも動画視聴もしない彼のスマホは長生きするのかもしれない。

 誰かとやり取りしていたのだろうか。あの母親だろうか。虫唾が走る。取り上げてどこかにしまってしまおうか。

 いや――ひとりで首を横に振る。今時中学生でもスマホはプライバシーだというのに、成人した椿のスマホに触るのは人権侵害みたいなものだ。


 空を見上げる。雲ひとつない。風は乾いていて心地よい。


 永遠にこのままでいられればいいのに。


「……ん」


 椿が目を開けた。


「僕寝てた?」

「寝てた。起こしちゃった?」

「ちょっとうたた寝のつもりやったし、声かけてくれたらよかったのに」


 そしてぽつりと付け足す。


「ひいさんと一秒でも長くしゃべってたいのに」


 胸の奥がぎゅっとつかまれた。


「やっぱりここにいなよ。昨日お父さんもお母さんも言ってたじゃん、うちにいればって」

「あかん」


 椿は本当に頑固だ。一回決めたら融通は利かない。向日葵は溜息をついた。


 彼が上半身を起こした。空を見つめる。


「南国の空やな。リゾートに来た気分や」

「いつもこんな感じだけどね。特にこの季節は」

「ええなあ。なんだかんだ言うて京都の秋はあっと言う間や、ほとんど夏か冬」


 だから、来年も再来年もここで暮らせば――ぐっと呑み込む。


「今何時?」

「十一時過ぎたとこ」


 少しの間、黙って見つめ合う。


 椿がふと笑った。気の抜けた、優しい笑みだった。


「平日の昼間やのに、ひいさん働いてへんの?」

「失礼な、家の手伝いしてますよ。っても、三番茶のシーズンが終わったから最近はお父さんが一人で畑に行ってて、店番はおばあちゃんがしてるから、わたしがすることはないんだけど」


 もっと言うと、昨日の午後テンションが上がった父がいろんな人間に娘の旦那が来たと言いふらしたため、みんな今日の向日葵は男と過ごしていると思っているはずである。


「あとわたしも一応企業勤めもしてないわけじゃないさ。高校の時の先輩が起こしたベンチャー企業の契約社員になっててさ。市役所と協力しながら地元の特産品とか観光地とかをアピールする仕事。でもこれは日給で気が向いた時にやってる感じ。社員はみんなそう、わたしみたいに本業農家とかだからさ」

「それは向いてるやろうな。ひいさんひとと喋るのが得意やし営業とかな。僕はだめ、僕も不労所得とはいえ家の管理があるからお客さんとやり取りせなあかんのやけど、僕基本的に人間嫌いやもん」


 向日葵に対してだけは素直な、半年前と何にも変わらないいつもの椿だった。可愛い。向日葵は「ふふ」と声を漏らして笑った。


「お母さんもスイミングしにジムのプール行っちゃったし、今家にはわたしと椿くんしかいないよ」

「そう」


 また少し、沈黙だ。


 話したいことはいくらでもあるのに、いざこうして向き合うと何にも出てこない。ただこの優しい時間を共有していたいとだけ思う。


「――着物、準備できたよ」


 本当はもっと違うことを言いたいのに、そろそろタイムアップだ。


「アイロンもかけといたから」

「ありがとう」


 腕にかけた着物を渡すため、手を差し出した。

 その手を椿がつかんだ。

 その細い腕からは想像もつかないほど強い力で椿のほうに引きずられた。


 強引に唇を唇でふさがれた。


「んっ」


 最初の一回目は突然だったのでうまく対応できなかった。向日葵が息苦しさに小さく声を漏らすと、椿は一度離れた。だがすぐに二回目を求めてきた。今度は察していたので鼻で息を吸いながら薄く口を開いて待つ。

 深い口づけをする。互いの舌を絡み合わせる。呼吸を感じる。ちゅ、と音が鳴る。

 熱い。

 こんなにも、いとしくてきもちいい。


 唇が離れても、椿は向日葵を離さなかった。二人の胸と胸の間に挟まれて着物がしわになる。


「ひいさん」


 熱っぽい声で名を呼ばれる。


「……ひいさん」


 床に押し倒されたが、向日葵は抵抗しなかった。身も心ももっとと叫んでいた。彼と深くつながりたい。半年前にそうしていたように睦み合いたい。あの頃の幸福を取り戻したい。


 そう思っていたところに、声が降ってきた。


「やるんならひまの部屋に行きな」


 はっとして顔を上げると、祖母が二人を見下ろしていた。


「縁側は誰が見てるかわかんないからやめときな」


 椿が急いで体を起こした。向日葵も家族に現場を目撃された恥ずかしさで頬を染めながら起き上がった。祖母の言うとおりだ。これでは実質的に青姦だ。いつ両親が帰ってくるともしれないし近所の人に声が聞こえるかもしれないのに何をやっているのだろう。


「着物乾いた? 私ゃそれだけ確認しに来ただよ、邪魔してごめんね」

「あ、うん、乾いた乾いた。今取り込んでわたしが持ってる」


 昨夜は一応椿がこれから別の女性と結婚する身だということで寝所を分けたのに台無しである。色白の椿が耳まで赤くして「ごめんなさい」と呟く。


「着替えさせるよ。客間でね」


「いいだよひまの部屋に行っても。お父さんとお母さんには黙っててあげるよ」

「だめです、何の準備もしてへんので」

「縁側で盛ってたくせによく言うわ」


 口ではそう言いつつも、祖母はいたずらを共有する悪ガキのような顔で笑った。


「これでできちゃっても私がひ孫を育ててやるから気にすんじゃない」


 椿が少し強い語調で「だめです」と主張した。


「でもあとちょっとしたら広樹ひろき桂子けいこちゃんも帰ってくるよ。そしたらみんなで港に海鮮丼食べ行こう。地元のいいもん食べさせてやるからね」

「あ……、ありがとうございます、いただきます」

「じゃあ、着替えといで」


 そこまで言うと、祖母は踵を返して奥に引っ込んでいった。向日葵も椿も大きく息を吐いた。


「着替えてくる」


 向日葵はほんのちょっとの期待を込めて「わたしの部屋行く?」と尋ねたが、椿は少し怒った様子で立ち上がり、「一人で客間使わせてもらうわ」と言ってのしのし縁側を歩いていこうとした。


「ちぇー、がっかりだぜ」

「すみませんね甲斐性なしで」


 溜息をつきながら何気なく視線を床に落として「あ」と呟く。


「椿くん、スマホ」


 椿が振り返って嫌そうな顔をした。


「あげる」

「えっ」

「うそ。ちょうだい」


 拾って投げると、彼は見事にキャッチした。


「誰かと連絡取ってた?」

「電源切ってる」

「なんで? 充電切れそう?」

「昨日お夕飯の後くらいから母さんから鬼電かかってきててん。今一瞬電源入れて着信履歴確認したんやけど僕病気になりそうやわ」


 鳥肌が立った。

 椿はそれ以上何も言わずに歩いていった。












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