第1部 19

 雨が降った、音の無い静かな雨。

 止んだ、晴れた。

 アスファルトをはうミミズ、曲がってきた車がゆっくりと、ミミズを踏んだ。

 体液を飛び散らして潰れてしまった。ミミズの声が聞こえたようだった。

「自分」がミミズを見殺しにした、そんな罪悪感から逃げるように、目を背け、その場を後にした……。


 花火が上がる。

 夕立があるという予報は外れていた、今のところ。

 今日は町の夏祭り。賑わいが、歓声が、聞こえるようだった。

 実際、この場を埋めるのは、キリギリスやスズムシたち、虫たちの声は澄んでいる。

 城山は本丸跡に立つ影五つ。夜空に華々しく花開くたびに半身が現れ、轟音の後の静寂とともに影が人を包み込んだ。

 花開く、轟音、影、朗々。

 五つの影は、リクとカイ、アユム、二人の仮面。三人と二人の間は一〇メートルほど。

「まさに決闘に相応しい夜だ」

 白い仮面がぼそっと呟いた。それを聞いたものは誰もいない、足元の虫たち以外。

 昨日、小林アユムから佐藤カイに決闘が申し込まれた。夏休みの夕方の城山で、トレーニング中の三人のもとを訪れる小林アユム。まるでそこにいるのを知っていたかのように。

 祭りの夜に決闘。祭りの夜にこそ、若者は決闘しなければならない。「龍」と「百鬼(なきり)」がそうしたように。

 ――わたしが「内藤高治」でないのが残念だ。

 小林アユムは陸上大会のリレーで佐藤カイに面目を潰された。それが転落のきっかけだった。

 父親の事件があって、アユムは学校にいけなくなった。

 野球部のエースというのは居心地がよかった。実際、エースに相応しい力もあった、と自負している。

 父親が社長だ。社長の息子という椅子は座り心地がよかった。学校中がアユムを大事にしてくれた。

 全てを失った。

 全ては、佐藤カイ、あいつのせいだ。

 あいつが全てを奪った。「犯罪者の息子」は、もともとあいつだった。

 今や学校の人気者だ。

「犯罪者の息子」というレッテルは今やはがされた。そのレッテルは、今や小林アユムのものとなっている。

 佐藤カイ、やつをぶっ飛ばせば、全部取り返せる、全部、全部……。

 ダーン!

 音の波が本丸を襲う、波が体を抜けた瞬間、動いた、小林アユム、早足に歩き出した。カイも振り返り、アユムに近寄っていった。

 アユムの拳をかわし、カイがアユムを掴んで素早く地面に投げた。

 アユムは立ち上がると、低い姿勢でカイに突進した、腰の辺りにタックルしたが、カイは倒れない、勢いで後ずさりしながら持ちこたえると、アユムをまた地面に転がした。

 アユム立ち上がる、突っ込む、明らかに勢いはなく、地面に転がる。

 起き上がったアユムが叫んだようだが花火が消していた、連続する爆音が音を喰った、五人にだけ静寂が襲う。

 時間の概念という歯車にできた隙間に五人ははまった、轟音と明滅は噛みあわない歯車の間で永久に止むことがない。

 アユムが立ち上がる、「立った」まではいかない、中腰で、膝に手をかけ、ズボンのポケットから取り出した小さなケース、伸びきらない膝、体をおっかくように胸を反らすとケースの中のものを一気に口の中に落とした。

「あ!」

「おい!」

 二人の仮面が声を上げた。

 歯車が噛み合う、時間を動かすために、ときに命を削る。

 本丸に波が走った。

 それは天空からではない。アユムから弾け出た、四人にはそう感じられた。

 アユムの体が、四人には光ったように感じた、あるいは爆発したかのように!

「うがぁぁぁ!」

 少年の、今度は男の叫びが音を喰った。夜空は暗いままだ。

 カイが腰を低くした、本能的だったかもしれない、体勢を作った、しかし!

「カイ!」

 リクの悲鳴に似た叫び。もちろんカイには聞こえていない。二人の仮面に言葉がない。

 みえなかったのだ、誰にも、アユムの動きが。宵闇とはいえ、灯りなどないとはいえ。

 カイが吹っ飛んだことで初めてアユムが動いたことがわかった。

 身震いするほど、鳥肌が全身を埋めていた白仮面、仮面の下の中島。

「いったいなにを飲ませたのだ!」


 仮面をかぶって、初めてアユムの前に立った夜。

 驚いた。恐怖さえ。自分が仮面をつけていることを忘れるほど。

 ――まさか、マークで。

 アユムに渡したのは確かにマークだった。しかし、それを口に含んだ瞬間、感じた、届いた風圧、のようなもの。

 ――マークでバックドラフト、所長もいってたが、これか……。

 クスリを飲んだときの、爆発的な力の上昇、開放によって、飲んだ人間の体が膨らむような、まるでその人の背後から風が吹き迫るような。

 それを「バックドラフト」と中島たちは呼んでいた。効果の小さいマークでバックドラフトを感じるなど、それほど肉体が活性化するなどデータにはないことだった。

「精神的な部分が大きいのだろうな」

 加藤からの報告を聞いて、中島は「やはり」と頷く。しかも、健全ではない精神状態が。

 自閉症やうつ病と腸内細菌の関連性は研究で実証されているものもある。

「かつての佐藤カイや小林アユムのように、処理できないほどの絶望感が腸のマイクロバイオームになんらかの影響を与え、それが本来は小さいマークの効果を劇的に増幅させた、そう考えたくもなる」

 バックドラフト級の効果をみせるのは最初の一回だけである。二回目以降は普通のマークである。

「マークの与える希望がマークの力を弱めるとは、皮肉だな」

 中島はいった、皮肉な結果を惜しむというより、皮肉っぽく笑うような顔で。

『初めの一回』を再現することは難しい。

「なんせ、実験には絶望している人間を用意する必要があるのだから。意図的に人を絶望させるという実験も、科学者として、いや、まさに人としてやりかねるが」

 しかし、マウスであれば……。

 中島の独り言のような呟き。

「人として」は難しい、でも、むしろ逆に「科学者としてなら」……。

 そんな風に考えてしまう自分から、加藤は目を逸らそうと必死だった。

 黒仮面はアユムと何度か接触した。マークの効果を上げるための、中島がリクやカイに渡したようなプリントをアユムに渡したり、質問や疑問に答えたり。

 一回で会っている時間はせいぜい五分。黒仮面がアユムと一緒にトレーニングに励むということはなかった。


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