第37話 誾景涼王

 その絵を前にした時、羽はその耳で海鳥の声を聞いた。海鳥の声など、遠い幼い頃の記憶でしかない。それなのに、たったいま鳴いたかのような気にさえさせてきた。

(海の記憶なんて、ないはずなのにな)

 海の記憶を思い出させるようなその絵は幻想的で儚げな数の絵とは一線を画していた。それは雛が嶺の絵を研究していたから描けたものだとはありありと思い出させた。日記にも、雛が嶺の絵について語っている部分が少なくなかった。

 

 『嶺の絵は躍動感があって素敵。私もこんな線を引きたい』

 『儚げな絵もいいけれど、かっこいい絵も憧れる』

 『嶺の絵はお母様の絵によく似ている。私の絵なんて遠く及ばない』


 互いに全く異なる絵を描くから、互いにあこがれを持っていたのだろう。

「姉上、ありがとう! あの時見た風景と一緒だ!」

 屏風を前にした淳は目を輝かせ、隅々まで眺めている。

「この貝、俺が姉上にあげたものだ! わぁ、さすが姉上だ! 俺が覚えていないこともきっちり描いてる!」

「当たり前です。この絵を描くために、雛は私になんども写生を頼んでいたのですから。私はてっきり、海が見たいだけかと思っていましたが。屏風を描くためだったんですね」

 やり遂げた嶺は椅子に深く腰掛け、宙を見上げている。出し切った、満足した表情を浮かべている。目を輝かせ屏風を見つめている弟を見て、ほほ笑んでいる。

「嶺さんの絵はさすがだな!」

 絵に対して熱狂しているものが一人、策だ。策も淳と一緒になってここの色合いがいい、この線がいい、とわいわいはしゃいでいる。子どもをそのまま大人にしたような男だが、そんなところまで子どもにならなくてもよいと羽は思った。夫の言葉には嶺は無反応ではあったが、頷いてはいた。

「嶺さん、これで戻って来れそうかい?」

「……仕方のない方ですね。そうですね、私が戻らなければ、あなたがどこかで野垂れ死にそうなので戻ります」

「そうだね。俺も嶺さんに会えずに死ぬのだけはいやだね」

「…………」

 嶺が大きなため息をついた。

「まったく、いつまでたっても意気地のない男ね、愚弟」

 しゃん、とよく響く声が部屋中に満ちた。全員がその声の主の方を見やると、髪の毛を軽く結い上げ、何枚もの衣を重ね着をした女性が立っていた。切れ長の目は気の強さを表し、透明な肌にはしっかりと化粧を施されていた。

「あ、あ……姉上!!???」

 策が小さく跳ねたかと思うと、さっと嶺の背後に隠れた。

「あ、叔母う――――」

 羽の言葉もさっとふさがれ、女性はたおやかに微笑んだ。

「久しぶりねぇ、羽。私の事は露さん、と呼んで頂戴?」

「はい、露さん……お元気そうで何よりです」

「ええ、元気よぉ~。都に策の姿が無いって言われてたから、連れ戻しにねぇ」

 そうだった。この女性は、叔母上と呼ぶとそこはかとなく怒るのだった。彼女の名は周露。羽の父の妹であり、策の姉にあたる人物だ。彼女は辰国でも有名な歌手の一人であり、諸外国に公演してまわっている。

 その声には品があり、華があり、聴くものの心をほどき、涙を誘うほどの力を宿している。いつもは外国にいて滅多に故郷には戻ってこないのだが、珍しい。

「嶺ちゃん、それ描けてよかったわね」

「はい。雛にも見せてあげたかったです」

「雛ちゃんもきっと喜んでいるはずよ。愚弟が迷惑をかけているお詫びにこの絵の歓声を祝って一曲歌ってみようかしら」

「え!? 周露様の歌が聞けるの!?」

「あら、誰かと思えば劉家のお嬢様じゃない。噂は聞いているわ。うちの甥っ子がお世話になっているわ」

「そ、そんなことは……」

 にこにこと笑う露の声に顔を真っ赤にして明英が狼狽えている。こんな明英を初めて見た。

「あんただけでもいいけれど、ちょうどいいわ。羽、あなたも一緒に来なさいな。曲名はそうね……誾景涼王でいいかしら」

「姉上……殿中曲を気軽に口にされては。それに、陛下の許し無く殿中曲を歌うなど……。確かにわたしは臥龍大聖ではありますが、けれど――――」

「……けれど?」

「いえ、何でも! 何でもございません姉上ぇ!!」

 嶺の影に隠れながら策が言う。このやり取りだけで二人の力関係がよく分かる。末っ子というものはこういう者だろうか。いや、ただ単に策が肝心な時にしか役に立たないせいだろう。

「露さん、俺はその曲を存じませんが」

「あら、あなた即興が得意なのでしょう? そこの役立たずに聞いたわ。もし不安ならここで私が冒頭だけ歌うけれど?」

「姉上、まさかではありますが、陛下のお許しを?」

「もらってきたから何なのよ」

 羽は耳を疑った。さすがに豪放磊落を体現したような彼女だが、ここまでとは思わなかった。そんなに気軽に会える方ではないはずなのだが。

「変な顔をしないでちょうだい。私は辰国の大使に同行して、外交の場に出ることがあるのよ。大使殿を通じて陛下に御目通りすることなんてあるに決まっているじゃない。ただ、最近はその機会もめったになくなったわ」

 羽の視線に気づいた露はむずがゆそうな表情を浮かべた。露はみなを連れて、庭園へと向かった。

 

 朝焼けの中、庭には霧が立ち込めていた。宙に浮かぶかのような場所、浮島の中央に露が立つ。朝焼けを背景に立つ背の高い女性はとても映える。そのわきに笛を持つ策、そして羽があった。羽は霧で見えなくならないよう、霧が晴れている場所に座り琴を広げる。ここで奏でるのは不思議な気分になった。霧が立ち込める場所を座ってみると、まるで雲の中にいるようだった。

「――――」

 露が息を吸い始めた。それに合わせて、策が笛を奏で始めた。羽はその音に身を震わせる。露の歌声は霧に溶け込むように穏やかで、儚げであった。重なる笛の音はそれに彩りを加えていく。夜明けに合うように、白黒の世界に彩りが増えていく。

(――――あ)

 羽の脳内に音が響き始めた。自分の色を重ねたい。

 そう思えば、自然に指が動いていた。


 ――殿中曲、誾景涼王が始まる。

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