第34話 鳳凰の筆

「ありがとう! 嶺! これでまた絵が描けるわ!」

 そう言って寝台に横たわるのは雛。雛はとても小さくなった。このところ、咳き込む姿がよく見られた。大好きだった散歩にも出かけられない日も増えてきた。私は抱え込んだ書籍を持つ手に力を込めた。

「見て、これ新しい画集よ。この花は練習にうってつけよ。それにこの鳩も羽の描き方が丁寧よ」

 ぱらぱらとめくって雛は何度か頷いた。その声も、かつての輝きはなかった。でも、視線だけは少しも曇らない。

「そうね。この間は花の描写が甘いって言われたからね。これでまたうまい絵が描けるはず。さすがは嶺ね!」

「ええ。今度もすてきな画集を探してくるわ」

 だから、私が雛の代わりに出かける。あんなに出かけるのが嫌だったのに、雛に見せてあげたくて私は外に出ることが増えた。

(代わってあげられたら)

 そう。双子なのだから、どっちだってよかったはずだ。それなのに、私の体は丈夫に、雛の体は弱くなっていく。まるで拾い上げた砂のように、指の隙間から雛の魂が零れ落ちていくよう。

「ところで、この間の画展で何か言われなかった?」

 雛の何気ない一言に私の指が揺れた。

(味気ない絵だ)

 ほんの数刻前の言葉が棘の様に刺さっていた。絵を描くようになり、それが父の目に止まり、仲間内に配っていくうちに金を出しても欲しい、あの赤夏の二鳥の絵なら欲しい、という声が上がり、私たちは「画工伯燕」と名乗ることになった。

 それらの声が広がってきたころ、私たちに画展を開いてはどうか、という申し出があったのだ。雛は諸手を挙げて歓迎し、私もうなずいた。

(すごいわ、雛はやっぱり天才だわ。私なんかと違って)

(私の絵と並んだなら、雛の絵が引き立つわ)

 雛の絵と並んで、私の絵も何枚も飾られ、日増しに人々が増えていき、絵は飛ぶように売れていく。

 でも、そこで言われたのは味気ない、という一言。他にも称賛の言葉あった。でも、ほんの一言が墨のように広がって私の足取りを重くした。

「ええ。とても評判になったわ。ほら、鷲の絵の山水図なんて1両もの値段が――」

「嘘」

「え?」

 私は聞き間違いかと思って、雛の顔を見た。雛は膝にかけてある衣をきつく握りしめて重々しい口を開く。

「嶺。本当はなんて言われたの? あたしたちの絵は、なんて言われたの?」

 じとり、と背中に汗がつたった。同じ顔をした雛は顔を真っ赤にして、こちらを悔しいような、悲しいような、複雑な感情が絡まった顔で見上げていた。

 ―― 雛には、言いたくない。

 だって、あの山水図を描いたのは私だから。雛の絵はもてはやされる。けれど、私の水墨画は色が浅く華やかな色彩の雛の絵とは違う。

「嶺」

「味気ない、と。でも、雛の絵じゃ――」

「嶺の絵もあたしの絵なの!」

「雛? だって、私たちは……」

「あたしたちは二人で伯燕、そうでしょ? お母様の使っていた雅号を引き継いで、あたしたちがお母様の絵を引き継いで、お母様の絵を残そうって、決めたじゃない!」

「でも、あの山水図は私が描いたでしょ? だったら、私の絵でしょ?」

「でも、構図を考えたのはあたしでしょ! それに併せる詩だって、あたしが考えた。だから、嶺は悪くない! 嶺の馬鹿! 嶺の絵は涼やかできれいなのに!」

 子どものように頭を振る。その勢いのまま、激しく咳き込む。高い音が混ざる咳を聴くたびに、私は心が裂かれそうになる。凩のような咳の後、雛は弱々しく笑った。

「嶺、お願いよ。あたしに何かあったら淳をお願い。あの子の婚礼の屏風を描いてあげて。もう下絵は描いてあるの。あとは嶺が塗ってあげて……」

「!? でも! 雛! 雛には婚約者が!」

 まるで今わの際のようなことを言うので、私はとっさに雛の未来を叫んだ。雛にはいくつもの縁談が舞い込んできていた。そして、その中でも一番位の高く、そして裕福な男との婚約が結ばれたと父が言っていた。

 私の言葉にきょとんとして、それから雛はいつものように笑った。

「雛?」

「馬鹿ね、嶺。あれはね、向こうが気に入らない婚姻を蹴るためにあたしを利用したに違いないの。じゃなきゃ、こんな病人を娶ろうなんて思わないわ……」

「でも、雛! 私の絵なんかお母様の絵にも、雛の絵にも遠く及ばな――――!?」

「嶺!」

 いままで力なく横たわっていた雛が体を起こす。力が抜けきっていた手には力が宿り、今度は怒りの表情でこちらを見る。

「お母様の絵を再現できるのは嶺しかいないの! お母様の優しくて儚げで、揺らぎのある色合いは嶺しか出せないの!」

「………」

「それにね、あたしはずっと思っていたの。嶺こそ絵の世界に必要なんじゃないかって。だから、嶺の体が丈夫でよかったって思ってるの……でね……」

 ふわり、と雛の体から力が抜けていく。体の重さで寝台が少しだけゆれる。何かつぶやいたかと思えば、雛の体が急に折れ曲がり、けいれんが始まった。

「ちが、違うの! 雛! 雛! しっかりして! 雛!」

 ゆらすたびに、雛の体から重さが抜けていく。額には汗がにじみ、そして肺を押しつぶすかのような大きな咳が私の耳に届いてきた。だめだ、だめだ、だめだ、と何度もつぶやいた。どうして、と叫びたかった。

 どうして、私なのですか、どうしてこの子じゃないのですか?

 

 ”ふつり、と飛んでいってしまった。”


 ”私の大切な半分が。欠けた私では、きっと描けない。”


 ”だから、あんなに美しい音を出せる人。満ちた月のように輝く人。彼の隣に立てることが時折苦しくなる。”


 ”古の笛の名手。誾景涼王のように静かにたたずみ、霧の上に立つ人。”


「……………」

 日記の最期に細い文字が連なる。全く違う筆跡が並んでいる。まるで、今までの話はすべて嶺が語って見せたかのよう。

(誾景涼王、か) 

 その国の王は、その名だけを後世に伝えている。王は戦に敗れ、敵国の王にその体を晒した。命乞いの代わりに王は笛を奏でたいと申し出た。一曲だけ奏でたら、その首を落としても構わないと。

 王が奏でた曲は残っていない。その場で王が奏でて見せたのだ。

 ―― 霧に沈む町を。

 ―― まどろみの中でたなびく陽の光を。

 ―― そこで笑い、泣き、生きていく人々を。

 

 王は消えゆく己の国を楽に残した。敵国の王はその楽の音に感服し、しかし王としての責を果たすといい、王を火にくべたという。王の体から出た灰はやがて霧となり、その地を包んだという。

 その地は王の名をとり、赤夏という。

 

「やっぱり、嶺さんは雛さんになりきっている。それは、多分、雛さんの事が忘れられないからか」

 家にも伯燕の絵は多くそろえてあった。絵には詳しくない羽ではあったけれど、それでも嶺が負い目を感じる必要はどこにもないはずだ。嶺の絵は実際に評価されているし、蔵に眠っている絵はどれもが素晴らしい出来だ。

「何とか説得できないかな。勘違いがどこかでこじれているに違いない。大叔父上と似た感じがするし」

「御曹司?」

「雛さん!?」

 ひょこり、と書架の後ろから雛が声をかけてきた。羽は慌てて手記を衣の内側に隠した。

「あら、ごめんなさいね。丁度夕飯の支度をしようと思っていたの。そうしたら、あの子……淳が、御曹司に手伝ってもらったら? なんて言うもんですから、お客様にそんな事させられないのだけれど、でも、今日はなるだけ豪華にしてあげたくて」

「あいつ……。いえ、ここに泊まっているのなら、それくらいの事はさせてください。明英も庭の花の手入れを手伝っているというじゃないですか。俺ばっかり何もしないのは、悪いです」

「でも、御曹司に料理をお頼みするのは……」

「料理なら手伝えます。火の加減を見るのは得意なんですよ」

「そう、そうなのかしら……」

 そう言って不安がる雛の顔は本当に嶺とそっくりだ。つけている指輪の色で見分けるほかないほどによく似ている。でも、嶺なのだとしたら。羽が料理ができることを知っていてわざと言っているのだ。

(ここで追及するわけにもいかないか……。なら、話題を変えることがいいかな)

「あの、雛さん」

「なんでしょうか、御曹司?」

「今日は何かあるのですか? 料理を豪華にしたい、とはどういう意味ですか?」

 羽の質問に、雛は少し目を丸くして聞き返した。

「まさか、御曹司。淳が婚礼をあげることをご存じなかったのですか?」

「は!? こ、婚礼!? 淳が? あの好奇心で何でもやらかすあいつが? 知識欲だけで法やのりを超えるあいつが? 所帯を持つ? 嫁をとる?! 淳のお父君は気は確かなのですか!?」

「あたしの父上なのですけれど……。御曹司の中で淳がどんな扱いなのかなんとなく分かった気がしますわ」

「いや、でも。そんなこと一切聞かなかったです。あいつ、なんで俺に黙ってるんだよ。言ってくれれば祝いの席の一つや二つ……」

「ふふっ」

「?」

「そう言ってくださるから、御曹司には言いたくなかったのですよ。あの子はとっても照れ屋ですから。御曹司がそう思ってくださると分かっているから、言いたくないのですよ」

「はぁ……」

 嶺、いや雛の言っていることが分からない。曹家の婚礼がどのような形なのかは分からないけれど、一般的な貴族の婚礼を考えれば、それはもう豪勢になる。

 それに、淳は殿試に落ち続けていた羽を励ましてくれた一人だ。なんだかんだで最近は会うようになったし、幼い頃一緒に遊んだ仲だ。

(水臭いやつ)

「あいつの相手ってどんな人なのですか? 曹家に並び立つなら、貴族で言えば魏家か奉家。武家で言えば……」

「あら、ご明察ですわ。あの子の相手となるご令嬢は奉家の三女奉泉様です」

「待ってくれ。その人知ってる。昔一緒に学問所で学んだ記憶があるぞ」

 洪水のように押し寄せてくる情報に羽の頭の中がかき混ぜられる。奉家は主に戸籍や税収を担当する一族で、その家の三女といえばどんなに難しい計算もそろばんも使わずにできる娘だった。そして、趣味で小難しい問題を作っていた記憶がある。

 本で例えるなら、淳がさまざまな伝承や歴史を記録する本で、件の姫君はあらゆる計算をまとめる指南書だ。幼い頃は彼女の繰り出す図形の問題に二人で頭を抱えたものだ。

「あの二人がなぁ……。変な月花老人もいたものだ」

「あなたも人のことを言えないと思いますけれど……」

「え?」

「自覚してなさらないのなら、それでよろしいと思いますわ」

 何か変なことを言ってしまったのだろうか。

「御曹司、明後日あの子の婚礼が執り行われるのです。ですが、その肝心な屏風絵がまだ出来上がっていないのです」

「…………」

 そう言えば、そうだった。嶺はとある令嬢の婚礼の屏風ができないと言ってここに来たのだった。

「でも明日には、絶対。絶対、完成させたいのです。あたしたちの願いだから。あの子を立派に送り出すと、あちらに逝ってしまわれたお母様の代わりに」

 羽が読んでしまった手記が正しいのなら、その絵はおそらく雛の遺作。その絵を完成させるという事は、雛の絵に手を加えるという事。それは、雛の絵より劣っていると思っている嶺にとっては耐えがたい事なのだ。

(やっぱり)

 どうにかしてあげなくては、と羽は思った。そのためにできること、しなければならないことを思い浮かべてみた。

「ええ。お二人ならできます。あんなに見事な絵を描けるのですから」 

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