第5章(その4)

 その青年が、ふと何かに気付いたように、こちらの方を見やったのです。

「……!?」

 リテルは思わず魔人と顔を見合わせてしまいました。たまたま、本当に偶然だとは思うのですが、像に映し出されている人物と、水鏡ごしに視線が合ってしまったのです。

 まさか、とは思いますが、まるで見ているこちら側に気付いているかのように、彼はじっとこちらを注視しているのでした。

 いや……それは本当に気のせいだったのでしょうか。青年は本当に、まるでこちらの様子が実際に見て取れているとでもいうかのように、まっすぐにリテル達の方を見つめているのです。涼しげな眼差しにひたと見据えられて、何だかどきどきせずにはいられないリテルなのでした。

 と、その時――。

 その青年はしばしこちらをじっと見ていたかと思うと、手にした杖を不意にこちらに向かってかざしたのでした。

 何をするつもりなのだろう、と見ていたリテルの隣で……魔人が「まずい」と舌打ちするのが聞こえました。次の瞬間、青年が足を一歩、二歩と動かすと、まるでそこに見えない階段でもあるかのように、そのまま彼の身体は何もない空中へと浮かび上がったのでした。

 リテルがその光景にぎょっとしてただただ身をすくめている間にも、宙を駆け上がってくるその人物は一足飛びに見ているこちら側との距離を詰めて――こちらに向かって身を乗り出すかのような姿勢になったかと思うと、次の瞬間には目の前の水鏡のその水面自体にゆらり波紋が浮かんで、さらにその次には水面が不自然な形状に盛り上がったのでした。

「……!」

 リテルはびっくりして、思わず水たまりから後ずさりました。不自然にうねる水面は水しぶきが跳ねるでもなく、自然の法則を無視した形状にもこもこと盛り上がっていったかと思うと……そこから一人の人間の影が、ぬっとこちら側に現れたのでした。

 そこに立っていたのは、今しがたまで水鏡の向こうにいたはずの青年でした。水面から現れたにも関わらず、身にまとった長いローブの裾に水はねの一つも受けぬまま、いつの間にか彼は水たまりのすぐ側に、静かな佇まいでじっと立ち尽くしていたのです。

「……やれやれ」

 洞穴のあるじたる魔人は、またしても現れた招かれざる来客に、忌々しげに舌打ちをしたのでした。

 青年は手にした杖を握りしめたまま、洞穴の広間をぐるりと見渡して……リテルの傍らに彼女を庇うように寄り添う魔人の姿を見出して、おもむろにこのように言い放ったのでした。

「……知らない間に、お前のような者が住み着いていたとはな」

 物腰は柔らかく、口調も穏やかでしたが、何とも険を含んだ物言いでした。

 先だっての老人のように異形の手下を引き連れるでもなし、それと比べればずっとまともな来客ではあったのかも知れませんが……決して友好的とは言い難いその物言いから察するに、決して魔人と仲良くなりにここまでやってきたわけではないのは明らかでした。

 あからさまに敵愾心に満ちたこの来客に、魔人が何か言おうとしましたが……それよりも先に、リテルが口を開いたのでした。

「次から次に、何なのよ、もう!」

 半ばやけになってそう叫んだ言葉に、魔人は気勢をすっかり削がれてしまいました。やってきた青年の方も、年端も行かぬ少女にいきなりそのように言われて、少しは面食らった様子で、眉の端を釣り上げたままリテルの方をじっと見やるのでした。

「そのように言うが、娘よ、そなたはどうしてこのようなところに居るのだ? 一体どこからどのように迷い込んできたかは知らぬが、ここは見ての通りあやかしの住処、そなたのような普通の人間がいるような場所ではないというのに」

 その言葉には、リテルではなく魔人が反駁しました。

「そういうからには、少なくともここのあるじが誰だか分かっていて、それでここに踏み込んできたんだな?」

 魔人の言葉に、青年はすぐには何も答えずに、しばし魔人をまじまじと見やっていました。

「……そのような物言いをするからには、貴様がここのあるじであると、そう言いたいのだな?」

「そうだ」

 魔人は短く答えます。いかにも非友好的な態度が気にくわないとは言え、相手の素性も目的も分からず、しかも先ほどの老人との経緯もあります。魔人はあくまでも慎重に、まずは相手の狙いを探ろうとしました。

 ですが、そんな局面でどうにも冷静でいられないのが、リテルでした。一度は魔人に遮られながらも、どうにも収まりがつかずについまくし立ててしまうのでした。

「あのね、私は迷い込んできたんじゃなくて、自分でここで来たのよ! そういうあなたは一体何者なの。一体、ここにどんな用があって来たのよ!?」

「私の名は、ルッソ」

 青年が、ぽつりと答えました。

 彼が口にしたのはその名前だけでしたが、リテルは何か思い当たる事があったのか、はっとした表情になりました。

「ルッソ? まさか、賢者ルッソ……さま?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る