第6章(その7)

「賢者さま! はやく逃げないと!」

「今更逃げた所で間に合いはせぬ! リテルよ、私の背中に回って、身を屈めているのだ。決して私よりも前に出るのではないぞ!」

 ルッソはそう叫んだかと思うと空に向かって両手をかざしました。炎の固まりが今まさに降り注いでくる中、えいや、とばかりにまるで押し返すように手を上に伸ばすと、炎はまるで見えない壁にぶつかったかのように跳ね返っていくのでした。

 リテルはその場にしゃがみ込んで――へたり込んで、といった方が正確だったかも知れませんが――いつの間にかルッソの左足に夢中でしがみついていました。そのまま上空を見上げますと、ルッソが空に巡らせた見えない壁が、落ちてくる炎を全て食い止めていたのでした。その壁は見れば平原に集う人々の頭上をすっぽりと覆いつくすほどの広範囲に及んでいるのが見て取れました。それまで右往左往していた人々も、下手に逃げまどうよりはその障壁の下方に留まっていた方が安全だと気付いたようで、その庇護の傘からあぶれ出る事のないようにとひとところに小さく固まって、嵐が……そう、まさに炎の嵐が通り過ぎるのを固唾を呑んで見守っていたのです。

 果たして、一体どれほどの間そうしていたでしょうか。

 時間にしてみればそれはほんのわずかひとときの事だったかも知れません。ですが縮こまって災厄の通過を待つ身にしてみれば、それはまさにいつまでも続いたまま、終わりなどやっては来ないかのように思えたのでした。見えない壁の向こう側は激しい雨滴のように炎が降り注いでいたのから、次第に荒れ狂う炎が果てしなく渦巻き続けるような有様に変わっていき、しかもそれがいつまでも晴れる気配を見せないのでした。間近で見ているリテルにはとくによく分かりましたが、いかな賢者ルッソとはいえこれほど広範囲にわたる防護壁ともなればそういつまでも張り巡らせ続けられるというわけでもなく、時間が経つにつれて次第に疲労の色が浮かんでくるのでした。

「……賢者さま!?」

「分かっている。分かっているとも――!」

 彼が力尽きるのと、この炎が晴れるのと、果たしてどちらが先になるというのでしょうか。賢者は仁王立ちのまま、次第に言葉にならないようなうめきとも唸りともつかない苦悶の叫び声を洩らし始めたかと思うと、やがてついには空に手を伸ばしたままその場に片膝を折ってしまいました。

 まるで支えていた重みに耐えかねるように崩れ落ちそうになるルッソでした。足にしがみついていたリテルが、今度は倒れそうになる彼の背中を必死に支える役に回ったのでした。

 それと同時に、人々を守っていたあの壁もぐっと高度を下げたと見えて、渦巻く炎がぐんと近い位置まで降りてくるのに、人々は肝を冷やさずにはおれませんでした。やがてルッソがついに倒れたかと思うと、人々を守っていた壁もすっかり消え去ってしまいました。ですがほとんど同時に炎の渦も勢いを弱めていて、壁が消えたと同時にゆっくりと下ってきたかと思うと、人々のいる地上まで落ちてくる前に雲散霧消してしまったのでした。ただそよ風のように暖かい熱気が人々の上から吹き込んできただけで、賢者は立派に人々を守り切ってみせたのです。

 寄り集まって不安に打ち震えていた人々も、大難を無事にやり過ごすことが出来たと知るや、誰彼となく歓喜の声をあげ始めるのでした。彼方の空が少しずつ白んでこようという中、上空にはもはや禍々しい妖魔の影も何一つ無く、地上には焼け出された魔物どもの死骸がそこかしこに転がっているばかりで、それ以上人間に危害を及ぼそうというものがうごめいている事はありませんでした。人間の版図を脅かしていた外敵は、すっかりと退けられたのでした。

 それを果たして勝利と捉えるべきか、何かしら大きな天災のたぐいをやり過ごしたのだと捉えるべきか……ひとつその名残と言えるのは、あの炎のせいでしょうか、立派だった石造りの大橋が煤で汚れてすっかり真っ黒になってしまっていた事でしょうか。対岸でもまだ煙がくすぶっているそんな光景に、人々は自分たちを見舞った災禍の大きさを知って、あらためて恐れおののいたのでした。

「賢者さま。……ルッソさま、しっかり」

「ああ、リテル。すまないな」

 賢者は、小さなリテルの肩を借りてようやっとというありさまでよろよろと立ち上がりました。二人は黙りこくったまま、やがて朝日が昇ろうかという彼方の空をじっと見やるのでした。

「ルッソさま。バラクロア……じゃなかった、あの魔人さまは一体どこへ行ってしまったんでしょう?」

「さて。魔王バラクロアの方も、気配をまったく感じ取れなくなってしまった。消え失せてしまったか、ここではないどこかへと行方をくらませたか、私ごときには感じることが出来ぬほどに、弱り切ってしまったのか……」

「それは魔王のこと?」

「魔人の方もだ。少なくとも、ここからは去った。私に言えるのはそれだけだ」

 ルッソはいささかぶっきらぼうな口調でそのように語りました。人々を守ったのは彼自身であるにしても、肝心の魔王を退けたのが結局自分ではなかったというのが、彼にしてみれば複雑な思いなのでしょう。言葉少なくなるのもやむを得ないのかも知れませんでした。

 リテルは辺りを見回してみました。遠くでは、人々が互いの無事を確かめ合いながら、災厄が去ったことで大きな歓声をあげているのが見えました。

 けれど、どこにもあの魔人の姿はありませんでした。

 またいつものように急にリテルの隣に現れるかも知れない、とも思いましたが、結局いつまでたっても魔人が彼女の前に姿を現すことはなかったのでした。



(エピローグにつづく)

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