第5章(その6)

「あのお爺さんが、本物のバラクロア……?」

「その通りだ、娘よ」

 恐る恐る答えたリテルの言葉に、ルッソは苛立ちを隠しきれない声で肯定したのでした。

 思い返せば、彼はこの洞穴にやってくる直前にその老人と対決し、敗北を喫したばかりではなかったでしょうか。となれば彼が魔人やリテルの前で忸怩たる思いを隠しきれずにいるのも、無理はないのかも知れませんでした。

 リテルはリテルで、これまでこの洞穴の魔人のあやかしの技をさんざん目の当たりにしてきて、これが仲間とあれば相当に心強いものだというのは重々承知していたので、これが仮にそっくりそのまま敵に回るのであれば相当に大変な相手と言えるでしょうし、ましてや異形の軍勢を引き連れた本物の魔物の王ともなれば、その力がどこまでのものなのか、リテルごときにはまるで見当もつきませんでした。

 そうこうしているうちに、ルッソはついと背を向けて、どこかに立ち去っていこうという素振りを見せました。

「ちょ、ちょっと! どこへ行くの……?」

「こんなところに長居をしている暇はないのだ。私はやつを追い、今度こそ討ち果たさねば」

「やめた方がいいと思うけどなぁ」

 魔人のいちいち気に障るような合いの手に、ルッソは静かに魔人を睨み付けるのでした。

「貴様はべつだん害はないと判断して放置するつもりだったが、やはりまずは貴様から片付けるべきなのかな?」

「おれは一度お前さんの戦いを見ているから、お前さんなんか物の数じゃねぇ、なんて大きい事を言うつもりはないけどな。仮におれとお前がここで戦って、お前が勝ったとしても、お前にはそのあとにもう一回、大事な戦いが待っているんだろう? それだけの余力をちゃんと残せるのか?」

 そこのところをよく考えるんだな、と魔人はにべもなく言い放ったのでした。

 魔人にしてみれば、べつだんルッソを挑発しているつもりはなくて、自分の住処に土足で踏み込んでくる者があるのに多少腹立たしい思いをしているに過ぎませんでしたが、傍目で見ているリテルにしてみれば、ルッソが激昂するのではないかと気が気ではありませんでした。

 実際、若き賢者はしばし怖いまでの形相で魔人を睨み据えていましたが……やがて自嘲するかのように、表情をかすかに崩したのでした。

「確かに、ひとたび敗北を喫したのは紛れもない事実であるし、それが私の実力を端的に示しているのは否定できない。貴様の言うとおり、私は本来の敵のために、その力を充分に温存しておくべきであろうな。となれば私はまっすぐに、バラクロアを追うことにするよ。……ところで、娘よ、そなたはどうする?」

「……私?」

「いつまでもここにいても仕方なかろう。麓の村を異形の軍勢はただ通過しただけで何事もなかったようではあるが、様子が気にかからないわけではあるまい」

 確かに、それはリテルにも気がかりな事ではありました。水鏡の術でここから見ていたとは言え、やはり直接皆の無事を確かめるまでは不安でしたし、それに多分、王国軍も今に至ってこれ以上この洞穴を攻略しようという事もないでしょうから、村に帰るとすれば確かに今がいい機会と言えました。

「帰りたかったらそうしろよ。おれの事は別に気にかけてもらわなくても、何ともないからな」

 魔人はそんな風に言うのですが、それはさすがに少し強がりというか、すねた言葉のように思われて、ここを離れてよいものかどうか、リテルは考えあぐねてしまうのでした。

「ね、ルッソ様。魔王の方のバラクロアは、どうして今になって封印を破ったりしたのかしら?」

「確かに、そういった事には何かしらもう少しはっきりとした前触れのようなものが、本来はあってしかるべきなのだろうがな。今回はホーヴェン王子殿下が魔人討伐の部隊をこの山に差し向けたという話を小耳に挟んで、私自身事の成り行きには充分に気を配っていたつもりなのだ。……しかしそもそも、はっきりと封印が破られたという兆しもないのに、どうして火の山に魔人が出た、という騒ぎになっているのか、そこが不思議と言えば不思議だった」

 結局のところそれは封印の魔王ではなく、ここにいる魔人の事だったのであり、半ば魔人騒ぎを焚き付ける首謀者となってしまったリテルとしては少々ばつの悪い話題ではあったのですが、ルッソはその点には深くは突っ込まずに話を続けたのでした。

「魔王とはいうが、決して万能の神々のごとき存在ではない。人間にとっては強大でも、あくまでもここなる魔人のごとき妖躯のたぐいが、たまさか強大な力を手にして人の世に介入してきているに過ぎないのだ。……そういう意味では、この魔人も確かにそれなりに強い力を持っていると見える。そんな魔人が、わざわざ封印の地の直上で王国軍相手に力を使って暴れているとあって、何かしら力同士が共鳴するような作用が働いたという事なのかも知れない」

「えっと、それはつまり……」

「封印されていると言うことは、いくばくかの余力を残したまま縛られ臥しているという事でもある。元々魔王が封印されているという事そのものが、妖躯を引き寄せる作用もないわけではなし……バラクロアの力に引かれてこの魔人のようなものがこの洞穴に居を構え、この魔人の力に引かれて、バラクロアが自らの力で封印を打ち破った。いざ自由の身になれば、あとは息を潜めて静かに手勢を揃え、攻め上る好機をじっと窺っていた、という事なのだろう。……奴の息吹を観測するのに、山での今回の騒動がうまく隠れ蓑になってしまった、というのもあるだろうしな」

「それってつまり……ある意味では、魔人さまのせいでバラクロアが復活した、ということ?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る