第8話 嘘みたいな本当

 朱門しゅもんは背筋を正すと朗らかな声で名乗った。


拙僧せっそうは朱門と申す。我が師に代わり、ただ今この寺の留守を任されている者だ」


「しゅもん。それがあなたの名前?」


「そうだ」


「苗字は?」


剃髪ていはつした時よりこの身は俗世にあらず。よって姓は持たず、ただの朱門だ」


「そ、そうですか……」


「そしてこの者は蒼馬そうまという」


 容姿を覗かれることを忌避きひするように、蒼馬は頭に被った布を手早く目元まで落とす。俯いた蒼馬を不思議そうに見つめる少年だったが、詮索することはなく、「じゃあ俺ですね」と話を継ぐ。


「俺は黒須透夜くろすとうやです。目黒区立大鷲おおわし中学校二年。あ、もう学期終わったから直に三年です」


「おおわしちゅうがっこう……。それは手習所てならいじょの名かな。聞いたことがないが。それに透夜といったな。そなた、姓を持っているのか」


「もちろん。でもそれって普通のことですよね?」


 それを聞くや否や、朱門と蒼馬は慌てて平伏ひれふした。


「これはとんだご無礼を致しました。まさかお武家のご子息しそくであらせられたとは」


 隣で背を垂れる蒼馬の拳が畳の上でぎゅっと握られている。これまでの自分たちの態度に対する報復を恐れているのか、わずかながら震えていた。


 しかしそんな自分たちの頭に降ってきたのは、驚くほどにすっとぼけた声だった。


「ふぇっ!? いやいや。待ってください。なんで急にかしこまるんですか。な、なんか誤解していませんかね。俺ってばただの一般人ですって」


 二人して恐る恐る顔を上げると、少年が手の平を前に突き出して訴える。


「ご先祖様が武家でも公家の出身でもないって、……じゃなくて、親戚から聞いていますし。とにかくなにか誤解していますから」


「しかし公に名乗りが許されている尊い身なれば」


 すると少年が目を丸くして、次の瞬間ふわりと笑んだ。


「ははっ! というかさっきからずっと思っていたんですけど。二人ともかなり昔っぽいしゃべり方ですよね。時代劇の登場人物みたいで……ふふ、なんかちょっとおかしいや」


「じだいげき……」


「そうそう江戸時代の。『水戸黄門みとこうもん』とか『暴れん坊将軍』とか。近所の爺様方とドラマの再放送を見ているみたいで面白いなあって。ああ、でもやっぱり落ち着かないので最初の時みたく普通に話してくれませんか?」


 朱門と蒼馬は目配せで「どうする」と互いの意見を探る。

 たしかに武家の者の恰好でもなければ、頭からすっぽりと被るような不思議な衣を身に纏っている。それに関東天台総本山とされるこの喜多院てらを知らないあたり世情にもうとい。なにより武家の子供にしては落ち着きに欠けていた。姓を持つことは不思議だが、彼の言っていることはおそらく真実なのだろう。


 蒼馬が一足早く頷くと、朱門も咳払いを一つして「では」と背を戻した。


「しかし先ほども申していたが、江戸時代、とな。たしかに今は江戸を中心に国は回っておるゆえ言い得て妙だ。我々の言葉をおかしいと笑ってくれるが……ふふ。そなたの繰り出す言葉もたいがい不思議であるぞ」


「そうですかねえって……え?」


 後頭部を掻く少年の手が止まった。またしても沈黙が降りる。すると少年は腕を組んだり首を傾げたりと忙しなく各所を動かしては「ううん」と唸り、「いやまさか」とか「でもなあ」、「有り得ないでしょ」と自問自答を繰り返すのだった。

 

 やがて、


「ええっと。つかぬことをお訊ねしますが、今って何年の何月ですか」


 少年がこちらに向けてようやく口を開くと、そんな不思議な問いが投げられた。


「今か。元和げんな八年の卯月うづきだが」


「げんな。平成じゃなく、げんな。令和でもなく。じゃ、じゃあ今この国を治めている一番偉い人って誰ですか」


「偉い人。大樹たいじゅのことかな」


「たいじゅ。知らない人だ」


「徳川家二代将軍、秀忠ひでただ様のことだよ」


 蒼馬が説明すると少年は目の前で水が弾けたようにきつく瞬きをする。その顔に貼りついていた頼りない笑みが、ぺろんと音をともなったようにして剥がれたのだった。


「ええええぇぇえええぇええ!」


 布団から飛び起きて奇声を上げたものだから朱門たちこそ驚いた。そのやかましさに蒼馬が耳を防ぐと、少年が戸を勢いよく開け放ち境内へと転び出た。


「……やっぱりまだ夢を見ているんだよな。最近この時代の調べ物とか小説にハマっていたし」


 朱門たちも履物をはくと境内へと降りる。尻もちをつく少年の側に寄る。

 境内の中央に生えた立派な楠木くすのき。その一本の枝からミノムシのように麻縄で吊るされた一匹の獣がキャンキャンと吠えている。


「あべべべべ! いい加減に下ろせい、は無実じゃい!」


 少年の黒目がちの瞳が獣を見上げて激しく揺れている。口から声にならない息をもらし、震える指先でそれを示して。無理もない。常人ならまず見慣れぬあやかしが目の前にいて、その上自分たちと同じ言葉を投げているのだ。


「目黒の森を縄張りとしている妖だ。その容姿から我々はムジナと呼んでいる」


「こいつは、あの時の狸……」


「我々にちょっかいを出しによく来るのだ。しかしこれのことは覚えているのだな」


「暗かったからよく分からなかったけど……たぶん、こいつだ。こいつに助けられたんだ、俺」


「そうであったか」


「ほうれ見ろい、言う通りであったろうが! わあは縄張りを荒らしたヤツを仕留めようとしたまで。したらヤツもろとも結界をぶち破ってこの小童こわっぱのもとに出てしもうたんじゃ。それまで戦っていた場所とはちょいと雰囲気の違う場所でなあ。まあ直ぐに戻って来られたわけじゃが、どうやってかなどてんで説明がつかん。わあも不思議で仕方がないんじゃ。気づけば不埒者ふらちものはみいんな消えておったしのう」


「お前が気絶している間に全部カタがついていたってわけだ」


 蒼馬がムジナの前に立つ。

 

「しかしお前、よく牛鬼ぎゅうきなんて大妖たいように挑んだじゃないか。小物の割にその心意気やよし」


「そうじゃろう? って。あべべべべ! 寺荒らしの罪を着せた上にわあを小物呼ばわりとはなんたる無礼なっ。、お前なんて大っ嫌いじゃ!」


「奇遇だね。僕もお前が大嫌いだよ」


「あべべべべ!」


「これ蒼馬。あまりからかってやるな。透夜が驚いているではないか」


 蒼馬が得意気にムジナをからかう様子を見て、少年はなにから口にすればいいのか困惑したように朱門を見やる。


「やはりムジナの言葉が普通に聞こえているようだな」


 少年は答えない。しかしその表情が雄弁に事実を物語る。

 朱門は腕を組むと視界を閉ざした。ムジナと蒼馬のじゃれ合う声が消え失せて、深く息を吸い込めば春の柔和にゅうわな空気に頭の中が冴え渡る。

 一昨晩の出来事。目覚めた後の少年の一挙手一投足いっきょしゅいっとうそく。それを頭の中で反芻はんすうする。


「ムジナの証言も踏まえた上で先ほどまでのそなたの言動、その驚いた様子を察するに。拙僧せっそうもまさかとは思っているが、そのまさかを叶える力が仏よりもたらされたのだとしたら。……うむ。すべては辻褄が合うな」


 開眼すると朱門は少年の前に腰を下ろした。

 不安げに揺れる大きな瞳。その中に映る己を真っ直ぐと見つめ、朱門は確かめる。


「透夜。そなた、来世より参ったのではないか?」


 蒼馬とムジナの言い争う声が止んだ。境内には小鳥の囀る音だけが残される。

 少年はどう答えてよいのか分からない様子だった。すると噴き出すようにして嘲笑ったのはムジナだった。


、なにを言い出すかと思うたら! ぶぶぶっ。ではあれか。わあは刹那、未来へ行って戻って来たってわけじゃな。ぶぶぶ。こりゃあ傑作じゃ!」


「そうだよ朱門。そんな事あるはずないじゃないか」


「ほう。そなたたちの意見が揃うとは珍しいこともあったものだな」


 しまったと言いたげに蒼馬とムジナは口をつぐむ。一瞬目を合わせ、ふいっと顔を背けた。


「だってあまりに現実味のないことを言うからさ」


「そうであろうか。だいたいにして我々がいただく加護も、神仏の奇跡でなければおおよそ説明のつかぬ代物しろもの。現実味などと今更どの口が言えようか」

 

 蒼馬がきゅっと口を引き結ぶ。


「蒼馬。そなたならすでに理解しているのではないか。だが受け入れるべきか迷っている。それはこの者が風体からして我々とは異なるからだ。だが常識や姿形に囚われては真実を見過ごすこともある。それはそなたが一番に理解しているはずでは? それになによりこの者から漂う気配……近しい気配を感じるが、我々の力のどれとも明らかに異なる。これは――」


「空大の気。でしょ?」


 観念したように蒼馬がはあっと息を漏らす。朱門は頷く。


「おそらくな。時をも超越することが叶ったのは、ひとえにその力の加護を受けた者であるからであろう。つまり和尚かしょうが旅発つ前におっしゃっていたのは、この者との邂逅かいこうであったというわけだ」


「『現世来世にわたる加護を託さん』か。なるほどね。つまり江戸にこれから大きな災いが降りかかろうとしているってわけだ」


「それについては信じたくはないがな」


「災いじゃとう!?」


 不穏な言葉にムジナが食いつく。麻縄を揺らして「どういうことじゃ」と吠えたてる。


「それを阻止すべく遣わされた五人目というわけだろう。この事、和尚にお伝えし、我々守人も情報を共有せねばならなくなった」


「ま、肝心の本人はなにがなんだかって感じですけどねえ」


 蒼馬が呆れたように透夜を見下ろす。「あの」といよいよ透夜が口をはさんだ。


「やっぱりここって昔の日本なんですか。俺、過去に飛んできちゃったってこと? だ、だとしたらどうやったら戻れるんだよ。そもそもなんで俺がこんな目にっ」


「透夜よ。残念ながらその答えを我々は持ち合わせておらぬ。すべては仏のご意志だからだ」


「そうやって仏のせいにばっかしないでちゃんと答えてくれよ!」


 それは初めて少年が見せた激情だった。放ってすぐに口を両手で覆い「ごめんなさい」と後悔を口にする。優しい子だと朱門は思った。そうだ。まだ十四、五そこらのわらべ。それが理由も分からず神隠しのようにしてこの時代へと連れてこられてしまった。不安にならないはずがなかった。


 朱門は透夜の両の腕を優しく掴んだ。


「突然の事に驚くのも無理はない。行き場のない怒りに戸惑いもするだろう。だが道は必ずや開ける。我々もそなたのために力を尽くすと誓おう。だから、どうか我々の話も聞いてはくれまいか?」


 少年の瞳はすでに潤んでいる。事実、時代の迷子となって途方に暮れる少年に、今は安心を与えることこそが仲間であり年長者の務めであると朱門は思った。


「我々が出会ったことにはとても大きな意味があるのだ。大げさに聞こえるかもしれぬが、そなたはこの国の希望そのものであるのだから」


「ど、どういうこと」


「そなたに会わせたいお方がいる。ひょっとするとそなたの帰る手立てもなにか掴めるかもしれぬぞ」


「ほ、本当?」


 ようやく透夜の瞳に希望という名の光が宿り、表情がわずかに和らぐ。


「ああ。体に障りがなければこれよりそのお方のもとへ参ろうではないか」


 こくこくと透夜が頭を揺らす。そして彼を起き上がらせたところだった。


「これはちょうど良いところに参ったようでございますな」


 振り返ると門前に狐の面をした袴姿の男が一人立っていた。恭しく辞儀を寄越す。


「突然のご訪問、ひらにご容赦願いたく。我が主より守人のお二方を屋敷へお連れするよう仰せつかってまいりました。ですがどうやらそちらのお方もお連れせねばなりますまいな」


 狐の面が透夜を向く。透夜の肩がびくりと跳ねた。


「例のお方の従者だ。怪しい者ではない」


「十分怪しい恰好しているけどね」


 蒼馬のツッコミに朱門は苦笑しつつも従者へ労いの言葉を投げた。


「ご苦労である。しかしどこから聞かれていたのやら。まあ見ての通り、少々立て込んでいてな。ご報告も兼ねてこちらから参ろうとしていた所であった」


も事の仔細しさいをお気になされておいでです。しかし毎晩のお働きでお疲れのことであろうと。せめてこちらからお迎えに上がるよう我らに申しつけられたよしにございました」


「そうであったか。お心遣い痛み入る」


「ほほほ」


「それではお言葉に甘えさせていただくとしよう」


 そう言って朱門は透夜を見下ろす。寝癖であちこちを向いた毛が宙を漂っていた。


「が、少しばかり身形みなりを整えたい」


「お待ちいたしましょう」


「ふむ。歳の頃も同じようであるし、背丈も似ているな。蒼馬。そなたの水干すいかんを一着貸してやってくれるか」


「……はいよ」

 

 そうして朱門は少年の母親よろしく身仕度を整えてやると、寺の者に留守を任せて蒼馬らとともに従者の用意した車へと乗り込むのだった。


「ふうむ。これはなにやら一大事じゃな……って。あべべべべ! わあを解き放ってから行かぬかあ!」


 一匹の懇願が空しく境内に木霊した。

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