第2話 脱出作戦

2-1 お使い

 芳江は庭の掃除を終えた後、奈美子から言われたように、銀行で必要経費をおろした後、駅に切符を買いに行った。勿論、豪一のように自動車に乗ることができる等ができる身分でもない。徒歩で駅に向かった。

 今は、夏ということもあり、水田には稲が青々と整っていた。秋の収穫の時期になれば、黄金色になるのであろう。芳江は思った。

 「しかし、どれだけの収穫が百姓たちの口に入るのだろう」

 この国では、明治以来の大土地所有制が今日も変革されることなく存続している。篠原が大地主として威張っていられるのも、土地を大きく所有し、そこから上がって来る収穫を小作料として収奪しているからに他ならなかった。芳江も貧しい農家の出身だったので、そのことは承知しているつもりだった。

 篠原は、この一帯の大地主だから、土地の顔役といった側面もあった。豪一は度々、

 「自分がこの地域を代表して皇国・日本の聖戦・大東亜戦争とその勝利の結果たる

 大東亜共栄圏を支えてやっているのだ」

 と威張っていた。現実に、体制を本当に支えているのは百姓と俗に称されている農民であるにもかかわらず、である。芳江の故郷とて事情は同じであった。

 農作業に従事している農民達を見ながら、芳江は更に思った。

 「なぜ、小作農は、こんな目にいつも遭うか?殊に女性は、なぜ不利なのか?」

 女学校を中退した芳江ではある。このことは、先に奈美子から指摘された通りであった。そんな彼女にとって、そんな現実は、書物等の紙の上に書かれた抽象的な話ではなく、具体的な日々の実体験であった。

 そんなことを考えながら歩いていると、1人の農民が水田から、顔を上げて、声をかけて来た。篠原家の小作人・村田兵造である。

 「こんにちは、芳江さん」

 芳江は返答した。

 「こんにちは、村田さん」

 「芳江さん、今日も美人ですな」

 傍の兵造の妻が、兵造を軽く小突いた。兵造は、何か我に返ったように、農作業に戻った。妻は芳江に軽く会釈した。芳江も微笑しつつ、軽く会釈した。

 芳江は再び、駅に向かって歩き出した。

 「一体、さっきの兵造さんの台詞は何だったのかしら」

 農民たちはさしたる楽しみもないまま、ただひたする農作業に追われている。兵造とて例外ではなかろう。兵造としては、30歳の若い女性たる芳江と話すことで、何か、苦しい日常を忘れたいと思ったのだろうか。しかし、それは、すぐに傍の妻にとがめられて、苦しい現実に引き戻されてしまった。

 妻はなぜ、とがめたのか?妻である自分以外の女性に関心が行くことが許せなかったのか?或いは今、この時点では、芳江が大地主、つまり、自分達の支配者たる篠原家の一員たることから、迂闊に手を出してはまずい、と考えたのであろうか。

 確かに今、芳江は豪一の妾のような身分である。その芳江に小作人が手を出したと知れたら、豪一はじめ、篠原家から、どんな「報復」があるか分かったものではなかった。兵造としては、豪一から土地を貸し出されているから何とか生きていられている。もし、小作の契約を解除されたら、どこへも行く宛がないのが兵造の現実であった。都市に出て働く能力があるようでもなく、兵造は半ば、豪一に生殺与奪の権限を握られているのも同然であった。

 そして、芳江が篠原の屋敷の中で、米飯を口にできるのも、彼等からの収奪があってこそであった。同時に、芳江もまた、自分ではどうしようもできない不自由を抱えているのも又、現実であった。

 それらから脱するには、何としても、この地を脱出して渡満せねばならない芳江であった。

 そんなことを考えているうちに、国鉄の駅に着いた。

 芳江は窓口で駅員に聞いた。

 「すみません、今月〇日の××温泉近くの駅までの切符、大人2人、一等席いくら

 ですか?」

 「はい、〇〇円です」

 芳江は現金と引き換えに、大人2人分の切符を受け取った。しかし、芳江にとって、「仕事」はこれだけではなかった。

 「ここから、神戸行き2等座席大人1人分、いくらかしら?」

 「はい、東京駅で乗り換える形で、〇〇円ですね。神戸までは一泊二日です」

 「そうですか、確か、満州と内地を結ぶ連絡船の発着は、神戸でしたね」

 「はい、そうです」

 駅員は続けた。

 「どうされましたか?」

 「あ、いえ、昔、渡満した友人がいまして、時々、連絡船で日本に戻って来るので、

 機会あれば、迎えに行くことがあるかと思いまして」

 駅員はそれ以上、何も聞いてこなかった。駅員は

 「ここら辺の田舎の人間が神戸まで何の用か」

 と不思議がったのかもしれない。しかし、芳江にとっては、不思議でも何でもない。現状の打破のために、確かに神戸に用事があるのである。早くも脱出計画に最初の関門が現れた感じである。しかし、芳江は咄嗟の機転で、上手くそれを回避した。

 芳江は往路を再び歩き、屋敷に戻った。玄関を上がり、奈美子の部屋に向かった。奈美子の部屋のふすまの前でひざまずくと、

 「奥様、只今帰りました。2人分の1等の切符2枚をお持ちしました」

 奈美子はふすまを開けると、部屋の前で正座し、床上に切符2枚を置き、一礼した芳江から礼も言わずに切符を受け取ると、引き上げるように促し、ふすまをすぐに強く閉めた。


2-2 主人夫婦の不在

 それから、数日して、篠原夫妻は予定通り、温泉旅行に出かけた。

 屋敷から駅まで、歩いていけない距離ではないにもかかわらず、いつも通り、黒塗りの乗用車で出かけた篠原夫妻であった。

 出がけに奈美子が言った。

 「芳江、私らが1週間程、いない間、部屋中、全てきれいにしておきなさい。お米

 が食べられるだけ、有難いと思いなさいよ」

 豪一も言った。

 「皇国日本を支える婦女子として、恥ずかしくない態度でおれ」

 芳江は答えた。

 「かしこまりました。御主人様、奥様」

 豪一と奈美子を後部座席に乗せた黒塗り乗用車は、玄関前を発った。

 「いってらっしゃいませ」

 芳江は走り出した車に深々と頭を下げた。しかし、頭を下げつつも、芳江はほくそ笑んだ。

 「ゆっくり楽しんでらっしゃい。今度の約1週間が、あんた達が贅沢して、威張っ

 ていられる最後の機会よ」

 芳江は屋敷内に戻ると、まず、豪一の部屋に入り、印鑑と土地登記書があることを確認した。さらに奈美子の部屋に、便箋と封筒があることを知っていたので、奈美子の部屋に入った。この家の戸主・豪一は事務的な雑用については、周囲の人間に任せていた、というより、主人たる自分のしごとではない、と言わんばかりの態度で周囲に押し付けていたので、事務的な仕事に必要なものの多くは奈美子の部屋にあるのである。

 印鑑、土地登記書、便箋、封筒。芳江は、必要なものがあることを確認した。

 「よし」

 と一言いうと、早速、脱出のための作業に入らんとした。

 なぜ、以上の4点が必要なのか?

 まず、脱出に必要と思われる旅費を先の銀行の篠原の口座で下ろして旅費を作った上で、更に土地登記書と印鑑を役場に郵送することによって、かねがね

 「皇国日本がどうのこうの」

 と大威張りで、しかも、自身を妾にしている豪一に復讐せんがためである。昭和30年の今、大東亜共栄圏は各地で反日ゲリラが発生するようになり、それを米国はじめ、各国が支援することによって、日本の生命線が脅かされていることが、新聞等で報じられていた。新聞も、戦時体制が続く今日、軍の活動が優先されている現実によって、その紙面は4頁程の薄いものでしかなく、その紙面は殆どが「戦意高揚」に関する同じような記事で占められていた。

 故に、軍部としては、より多くの資源を必要としていた。無論、内地の食糧も例外ではない。昭和12年の日華事変以来、国内の物資は配給制となる等、経済統制が進み、昭和16年から17年にかけての大東亜戦争以来、

 「家庭の生活物資は、前線の戦いに必要なものばかりです」

 「すすんで、皇軍の戦いに協力し、大東亜共栄圏の維持に協力しませう」

 といった標語が、この田舎にても見られるのである。そうした中で、篠原が温泉旅行などという贅沢ができるのは、食糧という重要資源を抑えているゆえであることは無論であった。この「資源」を軍は是非とも欲しているであろう。

 そのように考えつつ、芳江は便箋に、

 「私、豪一は自身の土地を譲る」

 という内容の手紙をしたためた。

 「〇〇町役場関係者各位

   

  常々、お世話になっております。私共、平民は、日々の平和な暮らしを享受して

 おりますが、これもひとえに、昭和17年、大東亜戦争に勝利して以来、10年以

 上も大東亜共栄圏維持のため、前線各地にて奮闘されておられます皇軍将兵の皆様

 の奮戦の賜物であることは言うまでもなく、銃後で平和に暮らしております私ども

 といたしましては慙愧に堪えません。

  私、豪一は既に齢六十にならんとし、妻・奈美子も既に50半ばを過ぎ、既に世

 の第一線からは退くべき年齢に達しつつあります。最早、皇軍将兵の皆様をはじ

 め、皇国日本と大東亜共栄圏に対し、貢献し得るものも多くはありません。

  つきましては、我が篠原家の農地に関する土地登記書をおゆずりします。これを

 以て、私どもは、世の第一線から退きたく存じます。私共の皇軍への貢献については、地元紙等でも報じていただき、戦意高揚に役立てていただきたく存じます。

  今後も、皇軍に武運長久のあらんことを


 昭和30年盛夏 篠原豪一」


 芳江はこのように書いて、印鑑を文末についた。事務的手続きは豪一の周囲の仕事になっていることを踏まえれば、もし、役場で、

 「筆跡云々・・・」

 ということになっても、左程、怪しまれることもないであろう。とにかく、今が芳江にとって、脱出のための千載一遇の機会なのである。この好機を逃すわけにはいかないのである。

 芳江は、便箋を折りたたんで封筒に入れると、鞄に必要と思われる他の物品と主に入れた。勿論、実家を出る時に地元警察に発行してもらった「身分証明書」は必携である。ぬかりなく鞄の奥底にしまうと、屋敷に鍵をかけて、外に出た。芳江はまず、先日の銀行に向かった。お使いのふりをして、篠原の口座から渡満とその前段階の旅費である神戸行き二等座席券の購入費を含む、できるだけ多くの現金を引き出すためであることは無論であった。

 芳江は、銀行で多額の現金を引き出すと、鞄に詰め込み、鞄をたすき掛けにした。万が一、ひったくられてはまずいと思ったのである。次に郵便局に向かい、先程の封書と土地登記書、更には印鑑をさらに大きな封筒に詰め、町役場に向けて発送した。

 郵便局を出た芳江は心中でつぶやいた。

 「これでよし。印鑑さんと土地登記書さんは、篠原のために大いに『貢献』してあ

 げてちょうだいね」

 その足で、芳江はそのまま駅に向かい、ちょうど入線して来た列車に乗って、直ちにまず、東京に向かった。


2-3 喪失

 それから、約1週間が経った。

 昨日の農作業で疲れていた村田兵造ではあったものの、朝、まだ寝床にいた彼は、突如として妻の大声で目を覚ました。

 「ちょっと、あんた、隣の本山さんの旦那さんが新聞を持ってきているわよ!大変なことが起きたわね!」

 何かただならぬことが起きたらしい。妻と本山氏がいる玄関に出てみた。

 本山は血相を変えた表情で新聞を握っている。驚いた兵造は言った。

 「一体、朝からどうしたというんだ」

 「この記事を見てくれ!」

 新聞を手にした瞬間、兵造も顔色が変わった。

 その新聞には

 「〇〇町の豪農・篠原豪一氏、自らの農地の権利を軍に寄付、皇軍の戦いを銃後で

 支える大献身」

 とあった。

 篠原の土地が軍に寄付されたということは、自分たちの身分はどうなってしまうのか。兵造は自分でも顔が青くなるのがわかった。

 本山に誘われる形で、兵造は篠原の屋敷前まで行ってみることにした。

 屋敷前には、異変を同じく知った者達が既に集まって来ていた。

 皆、口々に、

 「一体、俺達は・・・」

 等の言葉を口にしていた。

 そんな中、篠原夫妻が旅行から帰って来たのは昼過ぎのことであった。

 おなじみの黒塗り乗用車の後部座席に座る2人であったが、屋敷の前の様子が何かおかしいことに気づいた。運転手も勿論、気づき、

 「旦那、何が起きたんでしょうね?」

 と不安げな台詞を口にした。

 ただならぬ様子を不安に思いつつ、2人は車を降りた。豪一が言った。

 「お前等、どうした?」

 群衆の中の1人が言った。

 「どうしたじゃないですよ。大旦那、この記事は一体、何ですか?」

 新聞を渡された豪一は、途端に血相を変え、奈美子に叫んだ。

 「奈美子、何てことしてくれたんだ!」

 奈美子は豪一の叫びに理由がわからないまま、豪一から新聞を受け取った。受け取った途端、奈美子も顔色を変えた。

 「私、こんなことしていない!」

 叫びつつも、奈美子ははっとなった。

 「まさか、芳江が・・・」

 奈美子は芳江を呼び出す際の御定まりの台詞を発した。

 「ヨシエ!ヨシエ!」

 返事はない。

 豪一の方はとにかく、自宅に入ろうと玄関をくぐろうとしたものの、戸が開かない。鍵がかかっているらしい。やむなく、縁側のガラス戸を壊して、中に入ってみた。青い表情の豪一は、自室の印鑑や土地登記書を入れてあるタンスを開いてみた。それらは消えていた。部屋の中の引き出しすべてを見てみたが同じである。

 奈美子は

 「ヨシエ!ヨシエ!」

 と叫んでみたものの、芳江はどこにもいない。

 豪一は事情が半ば、分かった。

 「畜生、芳江め・・・」

 豪一は、怒りで顔を紅潮させつつ、屋敷の出入り口で待つ皆のもとに戻った。

 農民たちから問われた豪一は

 「俺は、土地を譲ったつもりはない!」

 と叫んだ。しかし、印鑑も土地登記書も奪われ、新聞記事にまで「貢献」が言われてしまっては、どうすることもできない。

 そんな中、女学生風の若い女性が群衆に声をかけて来た。

 「あの」

 声がかかったことで、兵造が振り向いた。

 「すみません。ちょっと道をお尋ねしたいのですが、この近所に中岡さんという家

 は」

 「ああ、中岡さんの家なら、ここをまっすぐ行ったところにあるよ」

 「ありがとうございます」

 女性は、群衆のただならぬ気配におそれをなしたのか、足早に去って行った。

 「畜生、ヨシエの奴・・・」

 豪一は改めて怒りをあらわにした。

 兵造たちにとっては、これから、改めて、どうなるか分からない状況になってしまった。昭和17年の大東亜戦争の勝利以来、辛うじて維持して来た「平和」が崩れるかもしれなかった。それは、文字通り、死活問題である。

 「議論」は夕方になっても延々と続いていた。今日は最早、農作業どころではなかった。

 そこを昼に通りかかった若い女性が重たげなリュックを担いで駅の方向に向かうのが見えた。しかし、彼等にとって、彼女のことは問題ではない。彼等にとって、一番の問題は彼等の生活なのである。

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