3

   


 おばあちゃんが出かけたという電話を待って、朋香はおばあちゃんの家にむかった。玄関の戸を開けると

「よっ」

といって有二が顔を出した。


「お疲れ」

 ヨレヨレの半袖のTシャツを着た有二が、片手を上げて、くちゃっと顔をくずした。


「おばあちゃんは?」

 朋香は、奥の方をのぞきながら聞いた。


「お昼の買い物をしてくると行って出かけたよ。まあ、上がれよ」

 朋香たちは、居間の方へ歩いて行った。


「おばあちゃん、買い物だったらすぐに帰って来るんじゃない?」

「榎木屋のまんじゅも食いたいといっておいたから、まあ、二時間は帰って来ないんじゃないかな」

「そう……」

「肉を食べろ食べろっていうんだよな。ステーキがいいか、とんかつがいいかだって」

 有二は苦笑いをした。


「え?」

「そうだろ。やっぱり変だよな。ぼくが何いってるんだというような顔をしたら、自分が食べるんじゃないからなんて言い訳してたけど、あの人がそんなことをいうのは変だよな」

 そう、おばあちゃんはお肉が嫌いな人だった。


「それに、何でサングラスをしてるんだ?」

 有二が聞いた。


 朋香は、有二の顔を見た。有二も朋香を見返していた。

「やっぱり、朋香も変だと思っているんだ」

 有二が、居間のソファにドスンと座った。


「うん。今からさ、私がいうことを信じてくれる?」

 朋香は思い切って有二に話してみようと思った。


「何かあったんだね」

「うん、でも、自分でもまだ信じられないんだ。どう、理解したらいいのかわかんないの」

「うん、話してみて」

 有二は身を乗り出した。


「この前、この家に泊まった時のことなんだ。帰ろうと思って自転車に乗ったんだけど、忘れ物を思い出して引っ返してきたの。その時、お稽古場から、謡の声が聞こえた」

「ばあさんの?」

「それが……、私には誰の声だか分からなかった。でも、いつも聞いてるおばあちゃんの声じゃないように思えたの。誰だろうと思って、ふすまを開けたら、誰もいなかった」

「それで?」

「誰もいなかったけど、黒い影が見えたの」

「誰もいないのに、黒い影が見えた?」

「見えたように思うの」

「ああ、見えたようにねぇ……」

 有二は片手であごをなでた。


「ううん。本当に見えたの。でもね、あっと思ったら、その影が消えていたの。そしたら、おばあちゃんが倒れて、私が抱き起こしたんだけど、その時、おばあちゃんの目が金色に光った……」

 有二の顔がポカンとして、朋香を見ていた。


「そうよね。やっぱり私のいうことはおかしいよね。信じられないよね」

「まあなぁ……、それをそのまま信じてくれといわれれば、ちょっと戸惑うなぁ」

 有二はひざに腕を置いて、考える人の銅像みたいに首をひねった。


 朋香は、ふうっと息をはき出した。

「でもさ、その時からおばあちゃんは、あのサングラスを外さなくなったんだよ」

「そこだよな。ぼくにも、ばあさんは、サングラスを外した顔を見せないんだ。お医者さんにいわれているから外さないとかいっていたが……」

「それに、そのころから、おばあちゃんが私をこの家に泊めてくれなくなったの」

「泊まっちゃ行けないというのかい?」

「そう、出かけるから、帰りなさいっていうの」

「なぜかな?」

「私、おばあちゃんを疑ってるわけじゃないけど、本当に出かけているのかどうか確かめたかったの。だから、きのう、おばあちゃんの後を付けていったんだ」

「へぇ……、ばあさん、どこへ行った?」


「電車に乗って後を付けていったら、大きなお屋敷が続く街だった。そしてさ、その一軒の塀をおばちゃんが跳び越えた」

「ちょっと待て。塀を跳び越えるって、どういうことだ」

「私も信じられないの。ひらりと跳んで、塀の向こう側に消えたの」

「なんだ。それ?」

「おかしいよね。おばあちゃんが跳んで家の塀を跳び越えるなんて、私も信じられないよ。今でも信じられない。でも、その時は本当に跳び越えたように見えたんだ。だから、その家のインターホンを押して、誰か塀を乗り越えて家の中に入りましたよっていってあげんだ」


「大騒動になっただろう?」

「うん。ちょっと待ってくださいっていわれて、待っていたら、今調べましたけど、そういう形跡はないっていわれちゃった。それでも、入ったんですっていったら、いたずらなら、警察にいいますよって怒られちゃった」

 有二は目をパチパチさせていた。


「本当にばあさんが忍び込んだのを、朋香は見たんだね?」

「見たんだってば……」


 有二は両手で顔をおおってしまった。そして、ごしごし顔をこすりながらいった。

「誰の家なんだろうね、その家は? その家の表札は見た?」

「あ、見なかった」

「もう一度行ったらわかる?」

「行く時はおばあちゃんしか見てなかったし、帰りはもう、何が何だか分からなくなって、気がついたら、もう電車に乗っていたから……、わからないかもしれない。でも、その家はどんな家だったかまだ覚えているよ」


「問題は、電車をおりた駅だね」

「終点だったよ」

「ああ、だったら三条だな。あの辺なら、確かに昔からの大きな家がありそうだ。でもなぁ、なんでそんなところへ行ったのかな?」

「おばあちゃんは、本当のおばあちゃんじゃなかったような気がする」

「どういうこと?」

「帰りの電車でもう一度おばあちゃんにあったんだ。おばあちゃんが私の横に座って、……。恐い声で、もう二度と私の後を付けるなっていったんだ。あれは、絶対本当のおばあちゃんじゃなかった」

「じゃ、一体だれだというの?」


 朋香は、わからないというように、ぶるぶると頭を振った。


「ばあさんが、変になったのは、その誰だか分からない声の謡を聞いた後からだというんだね」

「うん」

「他には、何か変わったことがなかった?」


「あ、そういえば、もう一つ。お稽古していた謡本を見た時、何も書いてない本だったんだ。でも、ちゃんとその声は謡っていたよ」

「何も書いてない本を見て誰かが謡っていたっていうの?」

「そうだとしか思えない」

「空で謡えるものはあるとは思うけれど、白紙の謡本なんてあるはずがないよ。あ、まって。それによく似た話を聞いたことがあるなぁ。なんだっけ。思い出せない。それを開いていたっていうの?」

「そうよ。表紙はよく見るあの黒い色の金の鳥が飛んでいる本だったわ。でも、字は書いてなかった」

「ふうん。変だなぁ。まだ、それがお稽古場にあるかな?」

「わかんない」

「見てみようか?」

「うん、私、それをもう一度見てみたかったんだ。今までのこと、見間違いかどうか、それを見たら分かるような気がする」


 朋香たちは、おばあちゃんの稽古場に行った。稽古場は、板張りの床が冷たかった。奥に置いてある飾り棚には、きちんと謡本がつんであった。


 有二は、ずかずかと歩いて行って本をぱらぱらとめくって調べていた。

「あ、あった。本当に何も書いて無いや。白紙の本だ。朋香が見たのはこれかい?」

 有二が、朋香の目の前に本を開いて見せてくれた。


「そう、こんな感じの本だった。私が、おかしいと思って見ていたら、おばあちゃんはパタンと本を閉じたのよ。見てはいけない物を見たような気がした」

「この本は、市販されている物と装丁も同じだ。違うのは、中身も題もないということか」

 有二はぺらぺらとページをめくった後、本の表紙や裏表紙を見ていた。


「印刷ミスかなぁ……。いや、そんな本を売るはずがないか……」

「私にも見せて」

 朋香に有二が白紙の本を渡した。


 朋香は、何か変わったところがないか、一ページづつ丁寧に見ていった。


 その時、玄関のチャイムがなった。

「おばあちゃんが帰って来たんじゃない?」

 朋香は心配そうに有二に聞いた。

「そんなはずはないよ。ばあさんだったら、チャイムなんかならさないよ」

 二人は、顔を見合わせながら玄関に歩いて行った。


 

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