七月二十三日

 蝉が絶え間なくぼくらの家の窓に声をぶつけていた。

 隆一くんは今朝早くにいくつかの絵を抱えてどこかへ出かけていった。それから昼下がりの今になるまで帰ってくる気配もない。昼食もひとりで済ませたけれど、食欲はあまりなかった。

 暇だし、たまには玄関先の掃除でもしようかな、と適当にサンダルをつっかけて外へ出てみる。そのときだった。

「行宏!」

 数メートル先、陽の当たるアスファルトの上をこちらに向かって歩いてきながら、隆一くんがぼくの名前を呼んだ。あわてて駆け寄ってみると、彼はにっこり笑って言った。

「海に行こう。」

 ごきげんだね、と言ってみるとさらに笑顔になる。そんな顔を見るのは久々だった。ちょっと待って、とぼくは急いで玄関まで戻り、靴を履き替え、しっかり戸締りをして隆一くんについていった。

 電車に乗ってだいたい三十分。ぼくら以外に人のいない車両の中に、車掌のアナウンスと車体の跳ねる音だけが静かに響く。車内の電灯は消えていて、窓の外から覗くすっかり高くなった太陽だけが明るさを作っていた。

 駅に降り立つと、風に乗ったかすかな潮の香が頬に触れた。高い建物のひとつもない、広く平坦な道を並んで歩く。潮の匂いの濃いほうへしばらく進めば、ふいに視界がひらけてそこは海になった。

 大きな岩がいくつかと、弾ける白い泡を溶かして寄せ返す波に、薄い紅茶色の砂浜。かもめがずっと高い空を飛んでいる。黙ったまま海岸線をなぞるように歩いた。隆一くんが履いている、ちょっと裾の広がったジーンズの褪せた青色がまぶしいようだった。

 靴の中で砂が足を噛んだ。サンダルのままで来たほうがよかったかな、なんて話しかけようとしたとき、隆一くんが「あのさ」と口を開いた。

「行宏は、おれがどこかに行っても、ついてきてくれるの。」

 それは、尋ねるというより、試すような口ぶりだった。

「うん。」

 すぐにそう応えることができたのは、きっと本当に心の底からそう思っているからだ。

「でも、隆一くんはぼくを置いてっちゃおうとするからなあ。」

 それを聞いたとたんに隆一くんはじっとぼくの顔を見て、そしてふとほどけるように微笑んだ。

「行宏。おれは、行宏がいないとなんにもできないよ。」

「……うそだよ、そんなの。」

 そう言いながらも、けれどぼくは笑っていた。隆一くんも声をあげて笑った。優しい音だった。

「行宏。」

 その声にぼくは彼の顔を見上げる。少し間が空いて、ぼくたちは互いの鼻先でそっと視線を交わした。

 陽射しはひどく強く二人の上に照りつけている。額にうっすら走った汗がまぶたまで垂れて世界がちらついた。

「……帰ろうか。」

 潮騒だけが、この世で最も大きい音のように響いていた。

「うん。」

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