第37話 とにかく全部が、可愛い②
「あー。俺、やっぱお前が淹れてくれるお茶好きだわ。なんか、癖になる」
「ふふ、本当?嬉しいな」
ランディアが淹れてくれた茶を飲みながら、しみじみとつぶやくと、嬉しそうに漆黒の瞳が笑みの形に緩められる。
「どうせ、客間の二人はしばらく決着つかないだろうからさ。僕たちは僕たちで、ゆっくりおしゃべりしようよ。――ベッドじゃないのが残念だけど」
「ははっ…さすがに今度は殺されるぞ、お前」
昼間の会合でデッドヒートを繰り広げた二人は、ランディアの提案で、チェスで勝負をつけることになった。間違いなく一進一退の攻防が繰り広げられて長期戦になるであろうことが予測されたので、イリッツァの提案で、カルヴァンとイリッツァの屋敷にやってきたのだ。一応国賓として招かれた彼らに用意された王城の部屋で事を構えるとなれば、きっとこれ以上なくギャラリーが出来てうるさい。ヴィクターもカルヴァンも周囲に忖度出来ない程に負けず嫌いなので、どちらが勝っても負けても、ギャラリーがいては噂に尾ひれがついて今後の外交関係に響きかねなかった。
また、王城などに引っ込めば、国賓の手を煩わせないようにとふんだんに用意された召使たちがすべての世話を焼いてくれる。――お茶を淹れる、などということはさせてくれまい。
久しぶりにランディアのブレンドした茶が飲みたい、と思ったイリッツァは、ある種王城などより安全かもしれない自分たちの屋敷に招いたのだった。ここならば、ランディアが好きに動いて茶を淹れようが、国賓相手に忖度皆無のチェスを仕掛けようが、文句を言う人間は誰一人いない。
ただし、客間で高度なチェス戦を繰り広げているであろう二人を置いて部屋を出るときに、カルヴァンは低い声でランディアにくぎを刺していた。
『二度とお前は寝室に入るな。今後一切ツィーの肌を見ることも許さん。次やったら燃やすぞ…!』
地の底から轟くような本気の脅し文句に、ニコリ、と笑顔で肯定も否定もしないで部屋を去るランディアの心臓には、毛が生えているとしか思えない。結局、青筋を浮かべて腰を浮かせたカルヴァンを、イリッツァがなだめる羽目になったのだった。――もう二度と、あの晩のようなキレ方をさせてはいけない、という使命感の下に。
「――で?リッツァ、最近、ちゃんとしてる?」
「?何をだ?」
「――――"愛される努力"」
「っ!!!?」
ぶぅ、とお茶を吹きそうになるのを何とか堪える。ゲホッ…と一つ、変な咳が出るのまでは堪えられなかった。
「下着は――うん。ちゃんと言われた通り着けてるみたいだね。えらいえらい。――カルヴァンに、見せてあげた?」
「みっ…見せ――!!!?」
「もしかして、見せてないの?ダメじゃん。何のための下着なの」
「しっ、下着の用途は男に見せることじゃねぇーーーー!!!!」
呆れたような顔のランディアに、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「えー。絶対カルヴァンなら気に入ってくれると思うんだけどなー」
「っ…お、お前のせいで、予期せぬ形で見られた…!」
「?――あぁ、あの黒いやつ?…ハハッ、そういえばアレ、どうなったの?さすがに覗き見は気づかれたら命がやばいかなと思って控えたんだ。すごく見たかったんだけど。顛末、教えてよ」
「っ……べ、別に……ご、誤解された時は、本気でどうしよかと思ったけどっ…!でも、な、なんとか、うまく…まとまった…」
「へぇ?――まぁ確かに、ちょっと雰囲気変わったよね、二人。なんか、ちゃんと恋人っぽくなったというか、男女っぽくなったというか――あ、もしかして、ついにお預け解禁した?」
「バッ――馬鹿野郎!!!んなことするか!!!阿呆!!!」
「え、嘘、まだなの!?うわー、カルヴァン可哀想…」
心から同情する声音でつぶやいて、ランディアも自分のカップに口を付ける。
(んー…体の関係はまだだけど、男女っぽくなってきた二人…カルヴァンはずっとわかりやすく溺愛してたから、きっとリッツァの方がカルヴァンを意識し始めたってことだよね。何があったのか聞いてみたいけど、この様子じゃきっと教えてくれないだろうなー)
何を考えているかわからないいつもの仮面のような笑みを張り付けて、心の中で思考する。
(でも、そうなると――え、何。思春期の付き合い始めた二人なの?精神年齢三十路超えの癖に?カルヴァン、さすがに可哀想じゃない?)
さっさとキスから先に進みたい男と、決してキス以上を許さない女という図式は、まさに思春期の初々しいお付き合いそのものではないか。それでもカルヴァンが強引に襲い掛からない紳士でいられるのは、年の功故なのか。
「…リッツァ。ちょっと、色々聞かせてほしい。――ちゃんと、本当に、"愛される努力"しよう?」
「え…えぇぇぇ…や、やだよ…お前の言うそれ、滅茶苦茶恥ずかしいことさせられる気がする…」
「そんなことないから。ちゃんと、リッツァの矜持に反しないギリギリを攻めるから」
「ギリギリを攻めるな…」
控えめにツッコミを入れる声に、いつもの力がない。それに気づいてランディアはピクリと眉をはね上げた。
「どうしたの?」
「あ、いや――別に…」
「もう!そんな調子で、カルヴァンを他の女の子に取られてもいいの?」
「っ――――…それは…その…ちょっと…困る、けど…」
(――――おや。この前とは違う返答)
ぱちり、と相手に気づかれないように一つだけ瞬きで驚愕を表す。
どうやら――このあたりに、二人の関係の変化があるようだ。
ふ、とランディアは口の端に笑みを刻んで、イリッツァへと向き直る。
「じゃあ、一緒に考えよう。――ちゃんと、ずっと、リッツァだけを見ててもらうために」
「っ……」
イリッツァはごまかすようにカップに口を付けたが――その耳は、ほんのりと桜色に染まっていた。
「――――え。嘘、ほんとに?ホントに?」
「っ、な、なんだよ、別におかしくないだろ!」
「いやいや待って、一回も?一回も?」
「あ、当たり前だろ!」
「ちょっと待って、シミュレーションしよう。僕がカルヴァンだったとして――ほら、こうしてきた。リッツァはどうする?」
「っ――…」
「え。嘘。…いや、それはそれで可愛いけどさ。――じゃぁ、こうしてきたら?」
「~~~~~~っ」
「え…僕、ちょっと、びっくりだよ……二人が婚約して、もう一年でしょ?これで、カルヴァン怒ったりしない?」
「し、しない…いつも、何か面白そうに笑ってる…」
「えぇぇぇ…嘘、カルヴァンの女の扱いのうまさが桁外れなのか、器がでかすぎるのか…」
「っ、そ…それでも、別に…ヴィーは、不満、ないんだから――」
「いやいやいや、甘えっぱなしはダメだよリッツァ。言ったでしょ?"愛される努力"!!!」
「で、でも――」
「あーもう。そんな困った顔で泣きそうな声出さないで!ちゃんと、リッツァの聖職者としての譲れないポイントは守った上で、カルヴァンの心を鷲掴みにするプラン考えてあげるから!」
「ほ、本当か――!?」
「えっと、そうだね、まずは――」
暖炉の火を焚いていても、ふるりと肩を震わす寒気に、そっとイリッツァは厚手のショールを巻きなおす。この季節は、夜も更ければこうしてしっかりと締め切った窓からも肌を刺す冷気がやってくる。
(――もう、十五年…いや、十六年、か)
ふと、胸のあたりを見下ろしてから、そっと手を当てる。当たり前だが――あの日、ここを確かに貫いた灼熱の痛みは、もう、どこにもない。それなのに、こうして手を当てれば自然と眉をしかめたくなるのは何故だろうか。
きっと、何十年経とうとも、あの日の記憶は忘れることなどできないだろう。
あの日感じた、絶望と、激痛と――友への未練は、幾年経とうと、決して。
(我が儘、か…)
胸から手を下ろし、ぼんやりと暖炉の火を見やる。地下牢に繋がれていた数日間、手も足もかじかんで、処刑台に上げられたときには凍傷寸前だったのではないだろうか。魔法を使えばそんなものはすぐに癒せるとわかってはいたが、あの時はまだ、事態の全貌が分かっていなかった。何が起きているのか、正しく把握したのは、処刑台に向かうあの日――全身の毛が逆立つような闇の魔力の不快な気配の後、最高のショーを目前に熱狂した民衆の間を処刑台まで引き連れられて行く合間に石を投げられた、あの日だった。
故に、抵抗することなく処刑台に上った。処刑執行の瞬間こそが、闇の魔法に惑わされた国民が一堂に会する唯一にして最後の機会だった。
当時は処刑台に上げられ、火をかけられるその瞬間まで、頭のどこかで冷静にそんなことを考えていたのだが――今から思えば、何故当時、頑なに光魔法を出し惜しんだのだろうかと不思議になる。
魔法を使えば、凍傷も拷問による傷も一瞬で癒えたはずだった。拷問官が闇の魔法で操られていることは拷問を受けている途中でわかっていた。だから、さっさと光魔法で正気に戻してやればよかったのだ。当時聖印が浮き出たのは頬だ。きっと、正気に戻った瞬間に、拷問官たちはすぐにリツィードの正体に気が付き、味方となっただろう。そうすれば、牢から脱出することなど簡単だった。兵士として第一線で活躍していた当時は、男でも二度見するぐらいの筋肉美を誇っていたのだから、どれだけ鍛錬してもうまく筋力が付かない今よりもずっと、それは簡単だったはずだ。
だが、リツィードは頑なに魔法を行使しなかった。
事態の全貌が分からない。――黒幕が分からない。闇の魔法の餌食になっている人々がどれくらいいるのか、その規模が分からない。それらが分からないうちは、手を打っても根本解決になどならない――そんな言い訳を、心の中で繰り返して。
「まぁ――結局、聖人、ってバレたくなかっただけなんだよな。俺は」
ふ、とため息を吐いて静かに認める。――今なら、すんなりと、認められる。
どこかで、ずっと、期待していたのだ。
このまま、聖人と明かさずに、事態を解決するすべはないのか。誰か、この陰謀に異を唱えてくれる人が、王都のどこかにはいるんじゃないか。
そうすれば――聖人と明かさぬまま、いつか、あの『奇跡の部屋』で繰り返される愛しい日常に戻れるのではないか――
そして、処刑台に引き立てられるときに、初めて目の当たりにした『事態の全貌』は、リツィードを絶望の淵に叩き落とすのに、十分だった。
これだけの人数が操られているのならば、もはや、聖人という事実を隠して事態を収束することなど不可能だ。敵は強力な、禁忌の魔法使い。この国は、少し自分が地下に閉じ込められている間に、いつの間にか、敵の手に丸ごと落ちてしまったのだと悟る。守るべき愛しい民は、皆、一様に、自分がぐずぐずしている間に、寒く苦しい漆黒の闇に捕らわれてしまったのだ。
鼓膜を痛いほどに震わす怨嗟の怒号に包まれながら、あかぎれてあまり感覚のない素足で王都の石畳を縄に繋がれて歩く道すがら――もはや、あの愛しい日常に戻ることは不可能であると覚悟した。そして、理解する。
これは――神罰なのだと。
半年もの間、ずっと、ずっと、あれほど禁忌と教えられ続けていた『人』の情に絆され、聖人としての行いから逃げ続けた、当然の報いなのだと。
そうして、考える。
あぁどうか――どうか、親友の遠征軍は、まだ帰還しないでいてほしい。
その代り、すべての王都民を救うから。一人残らず、救うから――
だから、どうか。――どうか、それだけは。
「めちゃくちゃ…自分勝手だよな…」
カルヴァンが、「釣りがくるレベルの善行」と評したその行いの根底には、自分の不幸から逃げる弱い心があったことを、イリッツァだけは知っている。
それでも何とか、覚悟を決めて、絶望と激痛を耐えきった癖に――
――最後の最後、『未練』などという、聖人にあるまじき願いを抱いた。
個人の感情を――ただの"人"としての、リツィードの我が儘。弱くて情けない、たった一つの最後の願い。
ぎゅ…とイリッツァは己の寝間着の裾を握りしめて、瞳を閉じる。
――今日は、聖人祭。
『稀代の聖人』を讃え、敬い、偲ぶ、しめやかな国を挙げてのお祭りの日だ。
だが、イリッツァにとって、今日は違う意味合いを持つ。
何の因果か、再びこの世に生を受けた日。絶望と激痛と――友への未練を抱えて眠りについた記憶を否応なく思い出させる日。
聖人にあるまじき愚かな願いを持ってしまった、悔やむべき日だ。
「――――…」
ふ…と薄青の瞳が揺れる。視界の端に映る髪の色は、かつての赤銅色など見る影もない。
(あぁ――それなのに)
ずっと、十五年、ずっと、罪を胸に生きてきた。
この生は神罰なのだと――姿も性別も年齢もすべてが変わってしまったこの生で、永遠に果たせぬ『未練』を昇華するまで、苦しむ運命なのだと生きてきた。全ては、過ぎた願いを持った己の行いのせいなのだと、神罰を甘んじて受け入れて生きることを信じていた。
――それなのに。
今――なんの奇跡か、信じられない日々が広がっている。
だから、今日は、少し、おかしい。
「…ありがとう、神様」
聖印を切って、静かに祈りをささげる。
今まではずっと、今日という日は、過去の記憶に苛まれ、心の中で誰にも打ち明けられぬ後悔と懺悔に明け暮れる日だったのにも関わらず――今日は、何故か、感謝をしたい気分なのだ。
あの日――わがままを、願って、良かった。
聖人にあるまじき行いだったとしても――それでも、あの日のあの願いは、きっと、間違いではなかったのだ。
「――ん?」
玄関で物音がした気がして、祈りの姿勢を解いて立ち上がる。
きっと、婚約者が帰って来たのだろう。騎士と兵士は、祭りの間は交代で街を巡回し、トラブルの種がないかを見回る。酒も入ることが多い夜は、特にこの広大な王都においては人手が足りないので、中央広場に焚かれる大きなかがり火の始末まで終えてから、どの騎士も兵士も帰路に就くのだ。
朝から一日働きづめだ。きっと、疲れているだろう。
イリッツァは親友兼婚約者を迎えるために、玄関へと足を向けたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます