第19話 素直じゃなくても、可愛い②

(この時間帯にこの辺に来るのも随分久しぶりだな)

 秋も深まった気が遠くなるほど高い空を、すぃ――と名もない鳥が横切っていくのを見ながら、カルヴァンはぼんやりと王都の大通りを歩いていた。

 今朝、いつも通り兵舎の執務室に入ってすぐにリアムが持ってきた来た報告は穏やかではなかった。王国の最北端であるカイネス領の奥地に魔物被害の疑いがある痕跡があるとのことだった。領の端の森に面したところの厩に繋いであった馬が、あちこちを食い破られるようにして襲われて死んでいたのが発見されたらしい。これだけでは、冬眠前の森の獰猛な獣たちの仕業なのか、魔物の仕業なのかの判別がつかないが、カイネスはその厳しい気候故に領民も少なく冬を越すのに多大な労力がいる大変な領地だ。領地お抱えで持っているはずの兵団は、平和な時はただの金食い虫だということで、財政上常に不安を抱えているカイネスの事情によりずいぶん前に解体されてしまった。領民で賄われている自警団が第一対応を行い、手に負えない場合はこうして王都に連絡が来て、兵団か騎士団が派遣されることとなる。今回は、魔物の疑いがあるということで、騎士団の方にお鉢が回ってきたのだろう。イリッツァの結界によってめっきり国内の遠征任務が減った騎士団もまた、金食い虫と言われないために、それなりに仕事をしているアピールを国民にしなければならないので、ちょうど良いタイミングだったかもしれない。

 久しぶりの遠征任務ということで、新兵たちは浮足立つことになった。遠征となれば一気に事前準備としての事務処理が増える。しかも、万が一に備えて可及的速やかに旅立たなければならないため、バタバタと執務室が慌ただしくなったのだが――

「――…ペン軸が折れた」

「えぇええ!?このタイミングでですか!?不吉すぎません…!!?」

 書類にペンを走らせた途端にベキッと景気良い音を立てて折れた手元のそれを見てカルヴァンが呻き、信心深いリアムはさっと青ざめた。

「替えがあっただろう。どこに仕舞った?」

「いやいやいや、遠征任務の出立に関する書類は全部聖印が入った特注のペン軸じゃないと――!」

「――――…ペンなんて何でも一緒だろう…」

 これ以上なく面倒くさそうな顔でつぶやくも、信心深い補佐官は頑として首を振らなかった。どうやら、最近あまりにも遠征任務が一時期より減ったため、優秀な補佐官にしては珍しく、特注のペン軸のストックを用意しておくことを忘れたらしい。

「本当に申し訳ありません!で――で、でも、二丁目の文具屋なら、いつも数本のストックを持ってるはずです…!」

「はぁ」

「団長、買ってきて下さい!」

「――――――お前、このタイミングで、上官にそんなくだらないお使いをさせる気か?」

 遠征前は、団長業務は一気に立て込むのだ。そんなことをしている暇はない、と半眼で呻くと、リアムは蒼い顔のままつづける。

「聖印の入った特注の文具系は、団長の許可がないと売ってもらえないんですよ!知ってるでしょう!?」

「いつもみたいに証明書を書けばいいんだろう、そんなもの。そこらで暇してる新兵にでも行かせろ」

 適当な替えのペン軸を引き出しをあさって探しながら面倒そうにつぶやくも、リアムはぶんぶん、と首を振る。

「いいえ、遠征前のこのタイミングで、遠征用の出立準備書類のサイン用のペン軸が折れるなんて、とんでもなく縁起が悪いです…!代理人が買いに行くなんて、神様の不興を買いそうで怖すぎます!」

「はぁ???」

「そもそも、普段から神の不興を買うようなことしかしてない団長ですよ…!?聖女様の結界があるにもかかわらず国内の遠征任務が舞い込んできたことからしても不吉の兆しとしか思えない…!!!」

「――…オイ」

「今回は神事も全部ちゃんと代理人任せじゃなくて全部団長がこなしてください!!!!そのほかのことは全部俺がフォローするんで!!!」

 リアムはその童顔を真っ青にしながら言い募る。呆れかえったカルヴァンの視線を受けても真っ白な顔に血の気が戻らない所を見るに、どうやら冗談を言っている様子ではないようだ。

「……本気か…?」

 ひく、とこめかみを引きつらせるも、どこまでも真剣な顔で信頼できる補佐官はうなずく。

「――――――…はぁ。まぁ、それでお前が納得するなら何でもいい」

 カルヴァンにしてみれば、上官を誰でも出来るくだらないお使いに出してその他のことを全てリアムがフォローするなど、リアムにとって何の利があることなのか全く分からないが、それだけの業務を背負っても何が何でもやれと訴えるからには、本気なのだろう。敬虔な信徒というのは本当に思考回路が意味不明だ。

 平行線の議論をつづける方が時間の無駄だろう。無理に突っぱねて新兵に行かせたとして、遠征中ずっと隣で蒼い顔でぶつぶつと神への祈りを囁き続けるリアムを帯同する方がノイローゼになりそうだ。

 カルヴァンはいつものように左耳を軽く掻いて、珍しい時間帯に王都へと繰り出したのだった。



 リアムが言っていた文具屋は、王都ではそこそこ有名な店だった。王立教会からの支援を受け、聖印入りの特注文具を売っているのは、王都の中では数か所しかないが、いつでもストックを持っているのはこの店だけらしい。店構えは大きくはないが、顧客満足度を第一に考える経営方針で、痒い所に手が届くサービスが受けられるとして、都民に長く愛されている老舗だ。今の店主は三十代後半の優男だ。下がった目じりと泣き黒子が特徴的で、人の好さが全身からにじみ出ている男だったと思い出す。二人の子供に恵まれ、外見のイメージと相違なく、子煩悩としても有名だった。

 団長という地位になってからは、自分で文具を買い付けに来ることなどなかった。家には帰らなかったため、家で使う文具を購入するなどということもない。その時々の補佐官たちが、適宜買い足してくれている物を使うばかりだったので、この店に来るのも随分と久しぶりだ。

 ギィ、と老舗の店構えらしく耳障りな音を立てる目当ての店の扉を開ける。

 カルヴァンは面倒な気持ちをそのままに、いつも店主がいる店の奥のカウンターに顔を向け――

「――――あら。これはまた、珍しいお客さんだこと」

「――――――――――」

「何年ぶりかしらね?ふふ…」

 カウンターには、子煩悩の優男ではなく――

 ――――口元の黒子が印象的な、妖艶な美女が朱唇をつぃ、と吊り上げて笑っていた。



 栗色の波打つ長い髪に、男を誘うような肉厚のぷっくりとした唇。赤みの混じった茶の瞳は、ゆっくりと笑みの形をとると自然と色香を含んだ流し目になる。肌の匂いも声も、むせ返るような甘さを湛えた艶やかな女は、カウンターから乗り出すようにして肘をつく。零れ落ちんばかりの大きさの胸がカウンターの上に乗っかるようにして存在を主張していた。胸の谷間がくっきりと見えるほど空いた服を着ているのは、昔と変わらない。

(――――…あぁ。そうか。そういえば、こいつの家、ここだったな)

 灰褐色の瞳を何度か瞬かせながらたっぷり五秒は思考を巡らせて、やっとカルヴァンは事態を理解する。

 思考に時間を有したのは、昔の女と遭遇した気まずさではなく――単純に、目の前の女のことを覚えていなかったからだ。どこかで見た顔だ――と思い、おそらく過去に関係を持った女なのだろうとは思ったが、どこの誰だかは正直覚えがない。だが、珍しく五秒ほどで回答が出たのは、間違いなく、昨夜本人が夢に出てきたせいだろう。夢の中で、雨に打たれながら未亡人の家に行こうとしていた時、この女が出てきた場所は、そういえばこの店の裏口だった。

 そうでもなければたった五秒では絶対に思い出せなかった自信がある。

「聖印入りの特注文具の発注だ。急ぎでいるのはペン軸。そのほかも、あればこの機会に買っておきたい。ストックを出してくれ」

「ふふ…相変わらず、ベッドの外では冷たいのね。久しぶりの再会なのに、酷い男」

 眉ひとつ動かすことなく注文をしたカルヴァンにも、余裕たっぷりに黒子を湛えた口元を笑みの形に作れるのはなかなかだ。ねっとりとした甘ったるい声で囁くように言いながら、そっ…とカウンターの上に乗せられたカルヴァンの手に指を這わせる女に、カルヴァンは小さく嘆息した。

「悪いが、これでも婚約者がいる身なんでな。その手の誘いは今は受け付けてない」

「あら。貴方が、一人の女のものになるなんて――明日は雪かしら?」

 クスクス、という笑い声も変わらない。男を誘う、不思議な魅力を纏う声だった。

「客を誘惑する気か?兄貴はどうした」

「今日は子供を連れて家族全員でレーム領にお出かけよ。妹の方の誕生日だから」

「それで、お前が店番を?」

「えぇ。たまには実家に顔を出してみるものね。まさか、貴方に逢えるとは思わなかったわ」

 つぅ――となおも指を手の甲の上に滑らされて、あからさまなお誘いに軽く眉根を寄せる。

「お前も旦那がいるだろう」

「そうね。貴方に比べれば、つまらない男だわ」

 ぐっと身を乗り出してカルヴァンの耳元に直接囁く。主張の激しい胸がぐっと寄せられてさらに声高に存在を主張していた。

 昔ならこれほど露骨な据え膳を前にすれば、耳元に寄せられている唇を奪いながらなんだかんだと戯れて店の奥に引っ込むくらいの芸当をしただろうが、残念ながら今は、驚くほどに全く下半身が反応しない。

(同じことをツィーにやってもらえれば、この場で押し倒すんだろうがな)

 店の奥に引っ込むなどとという余裕などなく唇どころか体ごと貪る自信がある。考えても仕方のないことを考えて、カルヴァンは深くため息を吐いた。イリッツァは男の誘惑の仕方を、ぜひともこの目の前の女に教わってくれないものか。

(――そもそもこいつ、名前、なんだったか…)

 夢の中で、面倒な"お願い"をしてきたことだけは覚えているのだが、いかんせん肝心な名前を全く覚えていない。当時も、その瞬間だけの戯れとして呼んだだけだったため、恐らく、その部屋を後にする頃にはきれいさっぱり忘れていたはずだ。

 カルヴァンは左耳を軽く掻いて嘆息する。女の敵、というイリッツァの表現はおそらくどこまでも的確だ。

 耳を搔いた手をそのまま伸ばし――ガッと少し乱暴に近づいていた相手の顔を掴む。

「――――っ!」

「俺がほしいのはお前の店の扱う文具だ。欲求不満な人妻じゃない」

 相手の挑発に乗るようにして、つかんだ女の顔を、息のかかるほどの至近距離から覗き込むようにしてはっきりと言い切る。相手の女はぐっと息をのんで――諦めたようにため息を吐いた。

「酷い人。ちょっとしたお遊びにも付き合ってくれないのね」

「聖女の婚約者、なんていうのも大変なんだ。こんなところを見られて妙な噂でも流されればたまったものじゃない」

 ふ、と頬を歪めて笑って言うと、目の前の赤茶色の瞳が呆れたように力を失って緩む。

「相変わらず、肌馴染みだけはいいな、お前は」

「あらエッチ」

 する、と戯れに頬を撫でるように堪能するそぶりを見せた後に手を離してにやりと笑うと、くすり、と女が吐息だけで嗤った。

(まぁ、ツィーの肌とは比べ物にならないが)

 今朝も思った感想を抱いて愛しい女の姿を脳裏に描くと――

「妙な噂をされたくないなら、せめて店頭から見えないところでやった方がいいと思いますよ?」

「「――――――――」」

 パキン…と空気が音を立てたのかと錯覚するほどわかりやすく凍り付く。

 背後から響いてきたのは――間違いなく、今しがた脳裏に浮かべた女の声に他ならなかった。

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