第19話

「だって、やっぱ気になるじゃん」

「あんたはもう刑事じゃない。捜査に関わる資格はない」

 被疑者が自死したのは留置場でのことだ。その責任は、厳密には看守や留置担当者にある。それでも、狩野の取り調べがきっかけになったのは事実だ。葉桜は許しても、自分は許さない。

 にらみつけるまなざしを、狩野はへらへらと受け流す。こういうところも昔から変わらない。

「そんなことしないよ。最初に保護したおまわりさんとしては、元気になった姿をひと目見たいだけ。相棒もずっと気にしてるし、俺が代表で来たってわけよ」

 エレベーターが到着し、狩野が先に乗り込んだ。

「帰れって言ってんだよ」

「乗んないの?」

 閉ボタンを押される前に、烏丸もしかたなく乗り込む。

「いやあ、暑いねえ。こう暑いと立番もパトロールもおつくうでさ。でもそうやって愚痴ると、代わりますって相棒が言ってくれちゃうんだよ、ちっとも嫌な顔せずに。じゃあお願いって言えない俺って、実はけっこう真面目なんじゃないかって最近思い始めたよ」

 あれほどの目に遭った子どもに会いに行くというのに、狩野の態度にはまるで緊張感がない。

「ふざけたまねしたら、今度はあんなもんじゃすまさないから」

 六年前、烏丸は狩野の胸ぐらをつかんだ。どういうことだ、持ち上げられて調子に乗った結果がこれかと。あのときばかりは狩野も笑っていなかった。

「顔見たらすぐ帰るって。俺はあくまでおまわりさんだ」

 夕夜の個室がある病棟は、奥まった位置にあってとても静かだった。リノリウムの廊下に自分と狩野の靴音だけが響く。

 病室の前で待っていた児童福祉司が、こちらの姿を認めて会釈をよこした。やまうちと名乗った彼女はベテランらしく、夕夜から見たらおばあちゃんだろう。

「捜査一課の烏丸です」

「神倉駅前交番の狩野です」

 まるでコンビのように自己紹介した狩野を、山内はあらというふうに見た。

「神倉駅前交番というと、あなたが夕夜くんを保護した方ですか」

「そうです」

 ベテラン児童福祉司は厳しい顔でうなずいた。

「そのときに比べたら、もうすっかり大丈夫に見えるかもしれません。ですが多くの場合、心は体よりも回復に時間がかかります。本人も傷に気づかず、何年もたってから痛み出すことも珍しくありません。申し上げたとおり、今日のところは事情聴取はご遠慮ください。そして、くれぐれも言動には気をつけてください」

 夕夜の状態と具体的な注意点を聞いてから、烏丸たちは三人で病室に入った。

 夕夜はベッドに座っていた。もう点滴も取れ、かなり瘦せてはいるものの、確かに発見時の写真と比べれば見違えるような回復ぶりだ。大柄ではないが特別に小さくもないので、慢性的に栄養不足の状態にあったわけではないのかもしれない。入室前に山内の言ったことがよくわかった。夕夜はわずかに首を傾け、冷たい無表情でじっとこちらを見ている。凍りついた凝視──被虐待児によく見られる特徴的な態度だ。

 ベッドサイドのテーブルには、病院で貸し出しているらしい児童書が置いてあった。心理検査によれば、夕夜の知能は高く供述能力も充分にあるという。

 烏丸は腰を屈めて夕夜と目の高さを合わせた。色白で目鼻立ちが整っているのは母親ゆずりか。妹の真昼もそうだった。わざとらしくならない程度に柔和な声で語りかける。

「こんにちは、夕夜くん。私は烏丸靖子といいます。警察官です」

「おじさんは狩野雷太」

 狩野さんは夕夜くんを助けてくれたおまわりさんよ、と山内が言い添えた。ぼんやりと見覚えがあるのか、夕夜の凍ったまなざしは狩野に注がれている。

「夕夜くんは何歳」

 烏丸が尋ねると、夕夜は烏丸を見て、それから山内を見て、再び烏丸に目を向けた。おびえているというよりは、警戒しているようだ。

「……七歳」

 抑揚のない硬い声だった。子どもがこんなふうにしゃべるのは、何度聞いても嫌なものだ。

「そう、七歳なんだ。お誕生日はいつ」

「六月三日」

「夕夜くんってかっこいい名前だね。漢字で書ける?」

「うん」

「すごいね。苗字はなんていうの」

 葉桜も言っていたとおり、これには答えがなかった。教わっていないのかもしれないし、教えてはいけないと言われているのかもしれない。

 緊張は見られるものの、夕夜は予想以上に落ち着いている。烏丸はちらりと山内に目をやってから、もう一歩、踏み込んだ。

「夕夜くんはお兄ちゃんだよね。妹は……」

「真昼は死んだ」

 こちらが何か尋ねる前に、夕夜はいきなり言った。唐突で一本調子な言い方に、烏丸は内心ぎくりとした。

「……そうだね。どうしてそうなってしまったのか、私たちは調べてるの。夕夜くんだけじゃなくてみんなからお話を聞いて、裁判をして、明らかにするんだよ。夕夜くんもおうちの様子や知ってることを正直に教えて。ゆっくりでいいから」

 こういう説明にはいつも神経を遣う。内緒にするから教えてほしいと噓をつくわけにはいかないし、できない約束をしてはいけない。加害者である母親を悪く言うのもいけない。大切なのは信頼関係を築くこと。子どもが安心して証言できる状況を作ること。しかし被虐待児の場合、それは非常に難しい。

「今日はひとまず夕夜くんに挨拶に来ました。どうぞよろしくね。夕夜くんも私たちに言いたいことや訊きたいことがあったら、何でも言って」

 すぐに何かを聞き出せるとは期待していない。夕夜は狩野を見て山内を見たが、口を開こうとはしなかった。

 また会いに来ると告げて、烏丸は狩野とともに短時間で病室を出た。廊下まで見送りに出てきた山内に、今後の大まかな予定を確認する。夕夜の体調しだいだが、八月二十日ごろには退院できそうだということだった。その後は神倉児童相談所の一時保護所で生活することになる。

 山内に礼を言って辞去し、乗り込んだエレベーターのドアが閉まるなり、烏丸は天井を仰いで勢いよく息を吐いた。狩野が一緒でなかったら叫びたかった。あの夕夜の目。しゃべり方。やりきれない。

 約束どおり病室ではほとんど黙っていた狩野は、来たときと同じ緊張感のない表情で階数表示を見上げている。何か考えているようにも、何も考えていないようにも見える。読めないのは昔からだ。

 落としの狩野。過去の異名が頭に浮かんで、烏丸は顔をしかめた。この男なら吉岡みずきを落とせるのだろうかと考えてしまった自分に気づき、いっそう腹が立った。


「昨日、夕夜くんに会ってきたよ」

 そう告げても、吉岡みずきは何も言わなかった。いずれ警察が夕夜に接触することは予想していたのだろう。それでも完全に無反応ではいられなかったようで、ひとみが揺らいだのを烏丸は見逃さなかった。

「だいぶ元気になってたよ。話しかけたら返事もしてくれた。夕夜くんって、夕と夜って書くんだね。名前の由来は?」

 相変わらず答えはないが、かまわずに続ける。

「夕夜くん、最初はまったく口を利かなかったんだって。病院で知らない大人たちと対面して、しばらくは真っ青になって硬直してたらしいよ。人と話しちゃいけない、人に見られちゃいけないって、母親から言い聞かされてたんじゃないかって児童福祉司は言ってたけど、そう? あなたは子どもの存在を隠してたんだよね」

 吉岡は下を向き、また爪をいじり始めた。ネイルを無理にがそうと、むきになっているように見える。もともと細かった体がさらに瘦せた。顔色は悪く、額に吹出物ができている。

「夕夜くん、ごはんも残さず食べられるようになったって。だけど眠ると怖い夢を見るみたいで、うなされるし、ときどきおねしょもするんだって。それに、真昼ちゃんのことですごく心を痛めてるように見えた。あなたのスマホに入ってた写真や動画を見たけど、もともとあんなしゃべり方をする子じゃないよね。真昼ちゃんとは仲がよかったんでしょ」

 烏丸は机にりようひじをついて身を乗り出した。

「話して。夕夜くんと真昼ちゃんの身に何が起きたのか。あなたはどうしてあの子たちを置き去りにしたのか。あなたはいったい誰なのか」

 また沈黙の時間が流れる。手ごたえがないわけではない。しかし成果はない。

 子を虐待した親ならこれまでにも見てきた。泣いて悔やむ者もいれば、しつけだと開き直る者もいた。だが、吉岡はどれとも違う。

「なんで黙ってるの。何のために。あなたは何を隠してるの」

 やはり返事はなく、烏丸はがしがしと頭をかいた。髪切りてえ、とまた思う。数日前に美容室を予約してあったのだが、この事件のためにキャンセルしなければならなかった。予約を取り直すが立たないまま、いたずらに日々が過ぎていく。

 そんな状況に風穴を開けたのは、市民からの情報提供だった。電話をかけてきたのは県内在住の会社員で、報道された吉岡みずきの写真が高校の同級生に似ているという。名前も印象も違うので自信がないが、年ごろも合うし、やはり気になるので思い切って連絡したとのことだった。

 これまでにも情報提供はいくつかあったが、明らかないたずらや著しくしんぴようせいに欠けるものがほとんどで、当たりには出会えていない。捜査員があまり期待もせずに話を聞きに行ったところ、高校の入学式の写真を見せられた。平成二十三年度のもので、当時高校一年生なら現在は二十三、四歳だ。その少女はもともと病弱だということで学校を休みがちだったが、一年生の途中で退学してしまい、あとの消息はわからないという。

 捜査員が少女の生家を訪ねてみると、驚くべき事実が判明した。少女は病気などの理由で退学したのではなく、しつそうしたというのだ。高校一年生だった平成二十三年、すなわち二〇一一年に姿を消し、それきりどこでどうしているのか誰も知らない。慌てて確認すると、行方不明者届も出されていた。家出だと家族は考えているそうだ。

「名前は、松葉美織。コメンテーターの松葉修の娘です」

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