第13話

 訊かれたとき、ちょうど電話が震えた。出て、はいと答えて、切る。

「ごめん、ちょっと急ぐんだ」

 これは噓ではなかった。指示は、十三時発のとうかいどう線下りに乗ること。尾行の手配が追いつかないよう、乗り換えの時間はタイトに設定してある。祝日で混雑していることを考えると少々きつい。

 かなり早足で人混みを縫って歩きながら、同級生への接し方にミスはなかったかと場面を巻き戻してチェックした。こちらを見る彼の目が、様子が変だなと語ってはいなかったか。あるいは、何らかのたくらみを秘めてはいなかったか。

 東海道線には間に合った。ここまではおおむね順調だ。

 ──な、これだから寺や神社では手を合わせとかなきゃいけないんだ。

 アサヒは思わずほほえんだ。そんな余裕があることに自分で驚くと同時に、尾行者に見られはしなかったかと慌てて顔を引き締める。最初の間抜けなマスク男以外、アサヒは尾行者を把握できていない。ユウヒのほうで発見していればいいのだが。

 横浜駅で電車から降ろされ、さくらちよう駅まで徒歩で移動させられた。つい次の目的地に視線を向けてしまい、これは指示を知っている人間の行動だと自分を戒める。ここからはいっそう冷静にならなくては。

 駅前の道を松葉修の選挙カーが通っていった。「松葉おさむ」と大書された笑顔のポスターもあちこちで見かけた。修は児童福祉の拡充を公約のひとつに掲げている。美織にとってこの狂言誘拐は、父親、ひいては家族に一矢を報いるような意味があるのかもしれない。

 その修から電話を受け、観光スポット周遊バス〈あかいくつ〉のバス停へ行く。乗るのは、Cルートの十四時八分発。

 指示どおりにしてから、我ながらこれはいい手だったと思った。観光バスに乗っているのは家族連れやカップルやグループがほとんどで、ひとりの客は少ない。アサヒと、一眼レフを首から下げた若い女と、カジュアルな服装の中年の男。いちおう彼らの顔を記憶しておく。

 バスが遅れるのは計算の上だ。時刻表ではやました公園まで四十分弱となっているが、実際に着いたのは十四時五十五分だった。目をつけた乗客のうち一眼レフの女だけが一緒に降りた。

 携帯電話に次の指示が来た。タクシーを拾ってあつ方面へ行け。

 空車がなかなか来なくてやきもきした。ようやく捕まえて乗り込んだとき、一眼レフの女はまだ近くにいて風景写真を撮っていた。彼女が尾行者なら、こちらが出たあとすぐに追ってくるだろう。「一眼レフの女」とユウヒにメールを送る。ユウヒは友達に借りたという派手なバイクにまたがっているはずだが、その姿は見つけられなかった。

「厚木までだとけっこうかかりますよ」

 運転手が言うのが時間なのか料金なのかわからなかったが、どちらにせよ問題ない。

「しかも今日は、市内の公園と大通りを使ってB級グルメのフェスティバルをやっててね。大通りは一般車両通行止めだし周辺の道路も通行規制がかかってるんですわ。夜には花火も上がるし、仮装コンテストやパレードなんかもあって、そりゃもうすごい人ですよ。あ、お客さんもひょっとしてそれですか」

 はい、とだけアサヒは答えた。

「もしかして仮装しちゃったりして?」

「いえ、見るだけです」

 会話を望まない客だと察したのか、運転手はそれ以上は話しかけてこなかった。黙って車に揺られながら、これからのことを考える。そして、ユウヒが運搬役を変更した理由を。それをアサヒに教えない理由を。このまま続けていいのかと自問する。黄信号は進めじゃないと、本当は知っているのに?

 四十分以上もタクシーに揺られ、通行規制が多くなってきたあたりで、降りろと指示があった。路肩に停めてもらい、けっこうな額を支払って降りると、またすぐに電話があった。公園通りを中央公園に向かって歩け。

 運転手が言っていたとおり、周辺は多くの人でごったがえしている。仮装している人も多く、ピエロもいるし、侍も、ピカチュウもいる。そしてこういうお祭り騒ぎには欠かせない、警察官も。仮装ではなく本物だ。街のあちこちに立って警備に当たっている。

 そのうちのひとりが近づいてきて、一瞬、足が止まりかけた。首の後ろが硬くなり、心臓がろつこつを叩く。

 ──堂々としとくのがコツだぞ。見られてると思っても知らん顔をしてろ。もし声をかけられたらきょとんとしてみせろ。受け答えは自然に、でも口数は少なく。べらべらしゃべるとぼろが出るし、隠したいことがあるんじゃないかと勘繰られるからな。

 朝の湘南新宿ラインに現れたお父さんの幻は、まだついてきている。

「君」

 声をかけられ、背筋が凍った。

「ずいぶん酔ってるようだね」

 警察官はアサヒの横を通り過ぎた。おそるおそる振り返ると、アサヒのすぐ後ろを頭にネクタイを巻いた赤ら顔の男が千鳥足で歩いていた。これは酔っ払いのコスプレですよ、などと回らぬ舌で弁明している。

 ──はっは! ほら見ろ、おまわりなんて、ぼんくらばっかりだ。

 幻のお父さんが声を弾ませる。

 のどで止まった息をそっと吐き出したところで、携帯が震えた。タクシーを降りてから十分。松葉修を通す最後の指示だ。

「左手にあるKKホテルに入って、二階の男子トイレの用具入れを見ろ」

 いよいよここまで来た。

 ホテルがフェスティバルに合わせたプランを提供しているせいか、正面玄関から見えるロビーラウンジにも仮装した人が大勢いた。マリオと入れ違いに中へ入り、にぎわうラウンジを抜けて、エレベーターで二階へ上がる。二階にはレストランがひとつと貸し会議室があるが、この時間はレストランが営業していないため、一階に比べてひと気がない。ユウヒが手を打ったのか、あの一眼レフの女や他の尾行者らしき人物も見当たらなかった。もし隠れていたとしても、この状況では目立ちすぎておいそれとは近づけない。

 男子トイレは無人だった。壁に貼ってある表によれば、次の清掃は約一時間後だ。

 用具入れを開けると、モップやバケツとともに大きな紙袋があった。日本全国に店舗を持つ家電量販店のもので、ガムテープで口が閉じられている。アサヒがホテルへ到着する直前に、ユウヒが先回りして持ってきたのだった。ホテルの防犯カメラに姿が映っているだろうが、今日は似たような若者がたくさん出入りしているから、顔さえはっきり映らないようにしていれば問題ないはずだ。

 人が来ないうちに紙袋を持って個室に入った。ガムテープを剝がしたときの感触や紙の状態で、誰かに先に開けられてはいないとわかる。袋の中身は、指示を記したメモとパンダの着ぐるみだ。

 指示は頭に入っているが、いちおう目を通してから、身代金が入ったリュックのポケットにしまった。リュックにGPSのたぐいが仕込まれていないことを確認した上で、ジャケットを脱ぎ、それも丸めて突っ込む。薄手のセーターとジーンズの上に着ぐるみを身につけた。首から足首までのスーツと頭部に分かれていて、スーツの部分はフリースのパジャマのようにやわらかく背中にチャックがあり、頭部はフルフェイスのヘルメットのようにすっぽりかぶるタイプだ。靴だけは自前のスニーカーだが、顔面も含めて肌が露出する箇所はひとつもない。

 着ぐるみの中でアサヒは顔をしかめた。ユウヒが調達してきたのだが、保管状態が悪かったらしく、ひどくかび臭い。頭も顔も体も、たちまち全身がかゆくなってきた気がする。

 我慢してリュックを背負った。もう携帯電話に犯人からの指示が来ることはないが、念のためにしっかりと手に持つ。紙袋は置いていってかまわない。これでいいか。頭のなかを隅々までチェックする。よし。

 目の部分に開けられた穴はとても小さく、視界はこれ以上ないほど制限され、一歩踏み出すにも注意が必要だった。まずはそろそろと個室から出る。鏡に映った姿はこつけいかと思いきや、どことなく不気味だった。

 着替えている間には誰も来なかったし、トイレの外にも尾行者らしき人影はない。来たときとはルートを変えて階段で一階へ下り、そのまま立ち止まらずに正面玄関から外へ出た。少しの時間でまたぐっと人が増え、それに伴い仮装した人も増え、リュックを背負ったパンダがそこに溶け込むのは難しくはなかった。凝った仮装でないせいか、むしろほとんど注目されない。

 運搬役に着ぐるみを着せるのは、もともとユウヒのアイディアだった。美織が家族に大切にされていないことの仕返しに、ちょっとからかってやろうというのだ。目立ってよくないとアサヒは最初は反対したが、このフェスティバルを知って使えると思った。

 数人がかりでふんした巨大な鉄道やスフィンクスの前に回り込み、背後からの視線を遮るようにしながら、パンダは大混雑の大通りを進んだ。どこからかブラスバンドの音楽が聞こえてくる。ソースのにおいも漂ってくる。大道芸でもやっているのか、わっと歓声が上がる。

 そのすべてを無視してたどり着いたのは、複数の路線バスが発着するバスターミナルだ。何もなければホテルから徒歩十分の距離なのに、倍近くも時間がかかった。その代わり、視界の狭さにも動きづらさにもだいぶ慣れた気がする。

 目的のバスはすでに乗り場で待機していて、座席がぽつぽつ埋まっていた。列ができている乗り場もあるが、街から離れた集落へ向かうこの路線の利用者は少ない。ほとんどが老人で、仮装している者はいない。

 バスの中で全身着ぐるみはさすがに不審なので、乗り込む直前に頭部だけ脱いだ。海底から浮上したような開放感だ。顔を見られたくなくてうつむいて乗り込んだが、首から下がパンダの男を、運転手や乗客が気に留める様子はなかった。フェスティバルで浮かれた変なやつには慣れているのかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る