第10話

「順調?」

 軽い調子のユウヒの問いに、アサヒは下を向いたまま「たぶん」と答えた。アパートの畳に座り、持参した路線図と地図をちゃぶ台に広げる。

 ユウヒは狭い室内をうろうろしてサインペンを捜している。アサヒも周囲を見回すと、床に放り出された文庫本が目に留まった。漫画の下敷きになったそれは、『ドン・キホーテ』の一巻目だ。前から目にしていたはずなのに、今までそうと気づかなかった。

「あれ……」

「ん?」

「いや」

 美織は自分の『ドン・キホーテ』を人に貸していると言っていた。ユウヒが自分で買うとは思えないから、これがそうなのだろう。

 あったあったと赤いサインペンを振って、ユウヒが向かいに腰を下ろす。アサヒは『ドン・キホーテ』から視線を引きがした。

「松葉由孝ってどんなやつ」

「美織から聞いてるんじゃないのか」

「兄ちゃんから見た印象を聞きたいんだよ」

「……頭のいい人だよ」

 脳裏に浮かんだいくつもの言葉のなかから、ひとつを選んで答える。

 自宅を訪ねて以降、ほどほどに距離を取ることを心がけているものの、なんだかんだでよく話をするようになった。近ごろ扱いが難しくなってきたという彼の妹のことも。君と話すのは楽しい、と繰り返し由孝は言う。アサヒもそう感じるからこそ、そのたびに複雑な気持ちになる。

「ひょっとして情が移った?」

「そんなんじゃない」

「あんまり深入りしちゃだめだよ。兄ちゃんはスパイなんだから」

 おどけた口調だが、ユウヒの目は笑っていなかった。

「わかってる」

「だよな。由孝はミオのこと、どんなふうに言ってんの」

「問題行動が多いのは何か悩んでることがあるからだろう、前みたいに自分をもっと頼ってほしいって。できた兄貴だよ」

「松葉修は警察に通報しそう?」

「おそらくしない」

 投票日が近づくにつれ、陣営全体の熱意と緊張が高まっている。情報の扱いには以前に増して神経質になっているし、由孝によれば、松葉夫妻は美織がまた何か不祥事を起こしやしないかとひそかに気をもんでいるという。

「家族っていっても、必ずしもひとつじゃないんだよな」

 ユウヒのつぶやきに、アサヒはそっと目を上げた。よっしゃ、とでも言うかと思ったのに。ユウヒは路線図をのぞき込んでいて、表情はよく見えない。

「十年前、俺と兄ちゃんとお父さんはひとつだったろ。社会からはみ出してたから、まるで世界に三人ぼっちみたいだった」

 ユウヒがサインペンのキャップを取った。

「お父さんがいなくなって、ふたりぼっちになると思った」

 きゅっと音を立てて横浜駅を丸で囲む。

「実際はひとりぼっちになった」

 紙につけたペン先から赤いインクがにじんでいく。

 お父さんが遺体で発見されたあと、保護された児童相談所で、アサヒとユウヒは自分たちが兄弟ではないことを知らされた。

 アサヒはお父さんの子だ。正近卓爾と離婚した妻との間に生まれた。

 ユウヒの出自は不明だった。お父さんの子ではなく、アサヒの弟でもない。

「おまえには里親も友達もハレの仲間もいるだろ。ひとりぼっちでも、ふたりぼっちでも、三人ぼっちでもない」

 アサヒは思い切って顔を上げて言った。ユウヒは紙からペンを離してあいまいに笑った。


 11


 投票日まであと六日。十一月二十一日午後一時過ぎの選挙事務所は、大勢が電話で投票を依頼する声で一瞬たりとも静まっていない。

 アサヒは大学を休み、朝からずっと事務所にいた。今日から三日間はそうして夜までいるつもりだ。

 朝いちばんに、修と秘書が事務所に来て二階へ上がっていった。二階には一般のスタッフは立ち入ることができない。修たちはしばらくして街頭演説に出かけていき、昼過ぎにいったん戻って、今は二階で出前の昼食をとっている──ということになっている。

 修が戻ってからほどなく塔子も事務所に顔を見せ、二階へ行った。そのあと由孝もやって来て、やはり二階へ向かった。由孝は今日は夕方になると聞いていたが、予定を変更したようだ。普段は一般スタッフとともに一階で仕事をし、呼ばれなければ二階へ行くことなどないのに、脇目も振らずに直行だった。

 由孝が下りてきた。初めてアサヒの存在に気づいた様子で、近づいてきて隣の椅子にどさりと腰を下ろす。心ここにあらずといったふうだ。アサヒは呼び出し中の電話を切り、由孝のほうへ体をひねった。

「何かあったんですか」

「ん? いや……」

 由孝が口ごもるのは珍しい。

「トラブルでも?」

「うん、まあ、そうなんだ。ああ、でも選挙に影響はないから気にしないで」

 由孝はこちらを向いてほほえんでみせたが、きれいな顔は青ざめている。ちょっと外の空気を吸ってくると言って出ていった彼は、二十分ほどで帰ってくるとそのまま二階へ上がっていき、事務所を閉める時間になっても下りてはこなかった。

 翌日は由孝も塔子も朝から事務所に来て、選挙運動に出かけた修と秘書に代わって二階の留守を預かっていた。塔子にしろ由孝にしろ一日そこにいるというのは例のないことだが、スタッフが誰も不審がっていないのは、彼女らの態度がいつもどおりだからだろう。珍しいですねとスタッフのひとりに声をかけられた塔子は、「いよいよ正念場ですから。最後までよろしくお願いします」と優雅に一礼してみせた。昨日は動揺していた由孝も、今日は落ち着いた表情を取り戻している。修や秘書も含めて、誰も重大なトラブルを抱えていることなどおくびにも出さない。

 由孝が一階に姿を見せたとき、アサヒはこっそりと状況を尋ねてみた。今日の変則的な行動は昨日言っていたトラブルのせいなのか、そのトラブルは解決しそうなのかと。由孝の答えは両方ともイエスだった。

「君の目はごまかせないな。君にだから言うけど、ちょっと深刻な事態でね。でも大丈夫、対処の方針は昨日から決まってて、あとはそれを実行するだけなんだ。そのためには今日明日は二階を空にはできない。明日は父もスケジュールを変更して事務所にいることになる」

「選挙運動を中止するんですか。選挙に影響はないはずじゃ……」

「明日一日だけのことだよ。その後は元どおり、問題なしだ。ただ、このことは他のスタッフには黙っててくれ。動揺させるだけだから」

「わかってます。俺にできることがあれば言ってください」

「ありがとう。君は優しいね」

 苦いものがこみ上げた。一方で、脳は冷静に仕事をしていた。

 その夜八時半に事務所を出てから、アサヒはユウヒにメールを送った。決行だ、と。

 あとで会おうと、ユウヒからすぐに返信があった。零時まではバイトだというので、零時半に待ち合わせる。場所は神倉の、ユウヒのアパートとは駅を挟んで反対側にある公園だ。

 いつものようにアパートで会うわけにはいかない。今そこには「誘拐された」美織がいる。どこにかくまうかとアサヒが言ったとき、ユウヒはきょとんとして「うちでいいじゃん」と言った。美織もそのつもりでいると。ユウヒの彼女ではないと前に聞いたが、実態がどうなのかアサヒにはわからないし、突っ込んで訊く気にもならない。

 アサヒは二十四時間営業のマクドナルドで時間をつぶしたあと、約束の十分前に公園に着いた。外灯もない小さな公園内は無人で、道路から離れたところにあるベンチは暗がりに埋もれている。悪事をたくらむ男が連れを待つにはおあつらえ向きだ。そこに腰かけ、携帯電話をチェックする。母からメールが届いていて、ココアの具合が悪くなったので今から三人で病院に連れていくと記されていた。

「悪い、お待たせ。超特急で片付けたんだけど」

 零時三十二分に現れたユウヒは、金色に近かった髪を黒く染めていた。この暗さで見ても、それだけでずいぶん印象が違う。子どものころの面影が強くなる。

「その髪……」

「ああ、明日は目立たないほうがいいだろ。けっこう好評なんだけど、ミオは前のほうがよかったって」

 ユウヒはぽんと自分の頭をたたいて、アサヒの隣に腰を下ろした。ごついスニーカーに包まれた足をだらしなく前方へ投げ出し、提げていたビニール袋から発泡酒を二本取り出す。

「まずは乾杯だな」

「何に」

「決まってる、計画の第一段階をクリアしたことに」

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