第6話

 普段は〝ホテル〟のトイレで体を洗うかくかですませるが、たまには公衆浴場も利用する。そこでは体じゅうの垢を落とせるだけでなく、うまくすれば駐車場や脱衣所でひと稼ぎすることもできる。

 神倉に入って二日目の今日、やって来たのは〈つるかめ湯〉という銭湯だった。入り口の古びた券売機で、お父さんは大人の券を一枚と小学生の券を二枚買った。さらにタオル三枚と歯ブラシ三本とひげそりの券も買った。そんなぜいたくをするのは、何ヶ月も前に盗んだ銅線が高く売れたとき以来だ。お父さんの言うとおり、この町は稼げる。

 車は相変わらず問題なく動いている。別の方法を考えなくてはいけない。

 はなうたを歌いながら風呂をたんのうしたあと、お父さんはアサヒとユウヒにアイスを渡し、一時間ほどここで待っているよう言った。いつものパターンで、来る途中に見つけたパチンコ店へ行くのだ。

 勝ってきてねと送り出し、アサヒたちはアイスの棒をくわえて館内をうろついた。こうして人の目がある場所に来るのは、小学校の下校時間を過ぎてからだ。学校なんて行かなくていいんだ、人として大切なことは学校じゃなくても学べる、というのがお父さんの持論だが、アサヒたちが学校に行っていないことがばれるのはまずいらしい。

 脱衣所に人がいなくなった隙をついて、ユウヒがかごに手を突っ込んだ。貴重品を専用ロッカーに入れず、脱いだ服と一緒にそこへ置いておく客は少なくない。

「だめだ」

 アサヒの制止に、ユウヒはちょっと不満げな顔をした。

「なんで。チャンスじゃん」

「客が少なすぎるし、俺たちがここへ入るのをフロントのおばさんが見てた。それにもしばれて逃げる羽目になったら、お父さんが迎えに来たとき困る」

「そっか」

 ユウヒはあっさり引き下がった。そこでふといたずら心を起こしたらしく、財布から札を抜く代わりに、隣り合った籠に入っていたブリーフを入れ替える。

「気づくかな。気づかないではいたらバカだよな。ここで見てようよ」

「怪しまれるって。こっそりじゃないと」

 アサヒとユウヒはひそひそと笑い合いながら、貴重品ロッカーの返金口に取り忘れがないかをチェックし、みごと百円を手に入れた。それから脱衣所を出て、自動販売機の下と釣り銭口をのぞき、下駄箱の脇のベンチに陣取って、交互にちょくちょくいたずらの結果を見に行った。にこにこ眺めていたフロントのおばさんに兄弟かと訊かれて「はい」と答え、何年生かと訊かれて「僕が四年生で、弟は三年生です」と答え、しっかりしていると褒められた。そうやってお父さんを待った。

 ところが、約束の一時間を過ぎてもお父さんは戻ってこない。一時間半がたち、一時間四十分がたつと、おなかがぐうぐう鳴り出した。さらに三十分たつと、空腹は忘れた。目の前の自動ドアはときどき開くが、入ってくるのは冷たい空気と知らない人ばかりだ。お父さんは携帯電話を持っていないし、外に出て闇に目を凝らしてみても、おんぼろカローラは影も形もない。フロントのおばさんも心配そうに首を傾げている。その目が兄弟のがたがたの髪を観察していることに気づいて、にわかに居心地が悪くなる。

 お父さんは勝ちすぎて時間を忘れているのだろうか。そういうことは何度かあった。お父さんは「いやあ、すまんすまん」と笑って謝るか、「俺は父親失格だ」と言って自分の顔をこぶしでひどく殴りつけるか、どっちかだ。それとも、もしかしてまた急に別人スイッチが入って、どこかでじっとふさぎ込んでいるのだろうか。最近それが増えている気がする。そうでなければ、まさか事故にでも遭ったのか……。

 ユウヒが一分おきに「まだ?」と訊く。そのたびにアサヒは「もう来るよ」と答える。本当はへっちゃらな顔で答えたいのに、うまくいかない。

 下駄箱の脇のベンチで、アサヒたちは待ち続けた。口数が減るのとあべこべに不安は膨らんで、もしもひとりだったら、べそをかいていたかもしれない。

 また長い時間がたって、自動ドアの向こうに警察官の制服が浮かび上がった。アサヒはとっさにユウヒの腕をつかんで逃げようとしたが、警察官が入ってくるほうが早かった。彼はふたりの全身にさっと視線を走らせ、優しく尋ねた。

「アサヒくんとユウヒくん?」

 胸騒ぎがした。どうして名前を知っているのだろう。ユウヒが問いかけるようにこちらを見た。アサヒは黙って警察官を見つめる。

「お父さんの名前は、正近たくさんだね」

 警察官はベンチの前にしゃがんで、アサヒたちを見上げる恰好になった。アンパンマンみたいに顔の丸いおじさんだ。声はやっぱり優しいのに、顔は笑っていない。心臓のどきどきがひどくなる。

「落ち着いて聞いてね。……お父さんが、亡くなったんだ」

 アサヒもユウヒも、何も言わなかった。ぴくりとも動かなかった。亡くなるという意味が伝わっていないと思ったのか、警察官が簡単な言葉で言い直す。

 意味は知っていた。ラジオで聞いて、お父さんに尋ねたことがあったから。お父さん、亡くなるってどういう意味? 死んじゃうってことだよ。

 死んじゃうってことだよ!

 警察官が話をしている間、アサヒは下を向いて、つんつるてんのズボンに覆われたひざと、その上できつく握った拳をにらんでいた。アサヒの拳は中指の付け根の骨がとがって飛び出している。お父さんの拳には同じ箇所に丸くて硬いこぶがある。男の拳だとお父さんは言う。

 そんなことを思っていて、説明は切れ切れにしか耳に入ってこなかった。車を発見──運転席に男性の──財布に免許証が──。

 そのなかでひとつの言葉だけがはっきりと聞こえた。

 原因は、車のトラブル。

 警察官はそう言った。その瞬間にわかった。

 アサヒがガソリンタンクにスティックシュガーを入れたせいだと。

 失敗したものだと思っていた。それが今になって。お父さんが運転している最中に。おととい嗅いだガソリンのにおいがよみがえり、吐き気がこみ上げた。口を覆って体を丸めたアサヒの背中を警察官がさする。

 ユウヒにもわかったはずだ。

 アサヒがお父さんを殺した。

 震えているユウヒの顔を見ることができなかった。


 8


 あのあと、アサヒとユウヒは神倉の児童相談所に保護された。そしてそこで、自分たちが本当の兄弟ではないと知らされた。しばらくしてアサヒは小塚家に引き取られたが、その間のことはよく覚えていない。ユウヒとどうやって別れたのかさえ覚えていないのだ。

 唯一、記憶にあるのは、ユウヒがどこからかスティックシュガーを手に入れてきたことだ。たぶん事務室あたりからくすねてきたのだろう。ふたりにとってごちそうだったそれを食べたら、兄ちゃんも少しは元気になるはずだと考えたに違いない。だがアサヒは、ユウヒがうれしそうに差し出したそれを目にしたとたんにおうした。

 あれから十年。深夜に小塚家のキッチンに立ったアサヒは、母がポーランドで買ったというシュガーポットに手を伸ばした。中には白と茶色の角砂糖が入っている。スティックシュガーでも同じだが、さすがにもう見るだけで気分が悪くなるということはない。親指と人差し指でそっとつまみ、口元へ近づける。深呼吸をして、思い切って口に放り込む。次の瞬間、アサヒはそれをシンクに吐き出した。すぐに水道水で口をゆすぎ、シンクの縁に手をついて全身で息をする。もう汗をかくような季節ではないのに、パジャマにしているTシャツが冷たく濡れている。

 やはりだめか。覚悟していた結果ではあった。

 狂言誘拐に協力するよう脅迫を受けてから、明日で一週間になる。合法的にハレが五百万円を得られる方法を自分なりに探してみたが、結果は芳しくなかった。脅迫に従うほかないのだと半ばあきらめつつ、もしも砂糖を克服できていたらあらがってみようと思った。それとも、完全にあきらめるための儀式にすぎなかったのか。

 仕組まれたものとも知らず、ユウヒとの再会を喜んでしまった自分に腹が立つ。のこのこと部屋を訪れた自分を殴ってやりたい。いや、それ以前に、十年前のあの日、どうしてユウヒの無邪気な言葉を真に受けてしまったのだろう。アサヒは慎重な子どもだった。なのに車がなくなればというあの一事に限って、なぜあんなに短絡的に、楽観的に考えてしまったのか。結局のところ自分も子どもだったのだ。サンタクロースを信じたことがなくても。

 シンクの縁からずるりと手を下ろし、スウェットのポケットから携帯電話を取り出す。ユウヒのメールアドレスを呼び出し、「やる」と入力する。歯を食いしばって送信ボタンを押した。

 翌日の昼過ぎに、アサヒは再びユウヒのアパートを訪ねた。バイトは夕方からだそうで、アサヒのほうは講義をふたつサボった。

「意外」

 アサヒを招き入れたユウヒは、開口一番にそう言った。

「怒ってると思ってた」

「怒ってるよ。たぶんおまえが思ってる以上に」

「じゃあ顔に出ないんだ」

「よく言われる」

 アサヒは前と同じくちゃぶ台のそばに座った。近所で工事をしているようで、大きな音が響くたびにちゃぶ台がかすかに振動する。そのちゃぶ台の上には、神倉のタウン誌らしき雑誌が開いて置いてあった。「秋の小京都を満喫」と題して、紅葉スポットやカフェが写真つきで紹介されている。

「その左下の、わかる? なんとあの、つるかめ湯だって。息子が継いで大幅にリニューアルしたらしいんだけど、みごとに別物だよな。俺さ、お父さんと銭湯行くの自慢だったんだ。しなびたじいさんや、たるんだおっさんばっかのなかで、お父さんは瘦せてはいたけどいい体してたじゃん。実戦用の筋肉だって言ってたっけな」

 コンセプトはレトロモダンだという浴場の写真から、アサヒはすぐに視線を離した。

「わざわざこんなもの持ち出さなくても、やるって言っただろ」

「……そんなつもりじゃなかったんだけど」

 ユウヒはちょっと驚いた顔をしてから、苦笑いとともに雑誌を閉じた。前に会ったときから気づいていたことだが、その拳にはお父さんと同じこぶがある。けんダコというらしい。

 お父さんと銭湯に行くのは、アサヒにとっては自慢などではなかった。そんなころもあったのかもしれないが、少なくとも記憶にある限りでは。洗い場の床が垢でいっぱいになって、他の客から迷惑そうに見られて、いつも恥ずかしかった。毎日風呂に入れる家が欲しかった。

「コーヒーは?」

「いらない。さっさと本題に入ってくれ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る