第35話 渡航

 土曜日。苗はウオーターフロント駅の出入り口前で咲を待っている。

 待ち合わせは九時のはずだが既に十分ほど時間を過ぎている。カナダ時間だな。と苗は納得し、駅の中のカフェで買ったラテを啜った。

「ごめん。ごめーん」咲が背後から駆けて来た。

「お。意外と早いな」

「ええー! 遅刻でしょ私! ごめんねー」

 固く目を瞑り両手を顔の前で併せる咲を、気にしてないよと往なしながら、苗は歩き出した。

「どこから乗るんだっけ?」

「ペンダーストリート。VCCっていうカレッジの横だよ」

「何番のバス?」と聞くと、咲は「257番!」と元気に言って、途端に早歩きになった。苗も合わせて歩く速度を早める。

「遅れて悪いけど、時間押してるの」

「ええーっ! そうなの?」

「そう。これ逃すと、次は一時間後」

「マジか!」

「おう。マジよ」咲はそう言って真剣な目差しで前方を睨んだ。

「あれだ。ホースシューベイエクスプレス」舌を噛みそうになりながら、咲が停車中のバスを指さす。青く縁取られたバスの頭の所に257という電光表示が読み取れた。

 出発ギリギリに何とかバスに乗り込み、二人は前方の席に腰掛けた。

「何だかワクワクするね」

「うん。良いお天気だしね」

 人通りの多いダウンタウンを尻目に、二人を乗せたバスが森を抜け、海を渡る大橋へと差し掛かると、苗は窓から身を乗り出したくなる衝動に駆られた。青く広大な海が眼下に広がっている。

 ハイウエイを降りて、バスがホースシューベイのフェリー渡船場前に到着する頃には、時刻は十時を回っていた。

 バスを降りた途端、夏の予行演習のような眩い日差しが、二人の頭上から降り注いだ。二人揃ってバッグに手を突っ込み、素早くサングラスを取り出す。近くに降り立ったカモメが、何だか期待外れのような視線をこちらに投げかけてきた。

「どうする? まだ時間あるよ」

「取り敢えずチケット買って、この辺歩こう」

 咲の提案に苗も同意し、二人は海沿いの通りを歩き出した。こじんまりとした港街は、見た感じのんびりとしていて、地元の可愛らしいお店などに出会えそうな期待が持てたからだ。

「アイスクリームだって。行ってみよう」

 見ると、海沿いのレストランの後方に看板が見えた。

「あ、このカフェ可愛い!」

 アイスクリーム店の隣に地元のカフェを見つけ、二人は中に入った。

 外からの見た目通りのんびりとした店内は、小綺麗で洒落ている。余程暇だったのか、店主は椅子に腰掛けのんびり本を読んでいたが、二人を見ると立ち上がり、目を輝かせて、あれやこれやと訪ねてきた。日本でなら考えられない光景だが、こちらでは普通なのだろう。今日、初めて会ったのに友人のように会話を楽しめる。苗はそんな雰囲気が心地良かった。

 店主と一頻り会話した二人は、三十分後、購入したスムージーを各々手に持ってフェリーへ乗り込んだ。顔に当たる潮風が、思いの外さらっとしていて心地良い。二人は海が一望できる先頭の席に腰掛けた。

「『KISETSU』って言ってたね」ストローから口を外して苗が言った。

「うん。そう言ってた。日本人がやってるお店だって」

 ドリンクを買ったカフェの店主は、クリクリと巻かれた天然パーマが印象的な六十代くらいの細身の女性で兎に角よく喋った。苗なんかは、放っておくと、今日中にはフェリーに乗れなくなるんじゃないかと心配になったほどだ

 彼女は大の日本贔屓で、二人が日本から来たと知ると、ボウエンに日本人の店があるから寄ってみるよう勧めてくれたのだ。

「やばい! 見えてきたよー」何がやばいのかは分からなかったが、苗の視線の先に、島の入江が迫って来ていた。

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