第8話 或る老人の回想 その2

「トントン——」

 頁を繰る老人の手が止まった。誰かが訪れたのだ。

 最初、彼はお迎えが来たのだと思った。何しろ、もういつ逝ってもおかしくはないのだから。自分はどちらへ召されるのだろう? 天国か……、それとも地獄か? 

 答えは分かっている。それは地獄だ。特段、問題はない。

 何しろずっと、生きながらにして、自分は暗闇の中を彷徨ってきたのだから……今更、どうということはない。

 静かな部屋中にドアをノックする音が響く。

 ——煩い。

 何と無神経な、品のない音なのだ。彼奴と同じだ。

 自分勝手な愛情を貫くために、私達を裂こうとした、あの男と。

 無礼で、恥知らずな、あの男と。

 老人は再び日記を繰り始めた。

 

「何しに来た」厳つい顔をして男が尋ねた。

 家に居るというのにクラシックなグレーのスーツを纏い、ネクタイを締め、髪は整髪料で丁寧に後ろへ撫で付けられている。一体これで、どうやって寛ぐのだろうと青年は思う。

「娘さんにこれを」そう言って、青年は赤い薔薇の花束と一緒に手紙を手渡そうと試みたが、父親らしき男はそれを拒絶し、青年の手元へと突き返す。

「近づくな。いいか、これは警告だ」

「何故です? 私は」

「お前の魂胆は分かっている。どうせ金目当てだろう——でなければ、娘の体か?」

「そんなこと!」

「喧しい!」男は言葉を遮った。青年は褐色の目の内に怒りを滲ませる。

「そうでなければ何だ? 知っているぞ。お前が、その浅ましい赤い目で娘の姿を追っていることを。獣め! 二度と私と娘の周りを彷徨くな!」

 しかし——と言いかけた青年に取り付く島も与えず、男は目の前で扉を閉めた。残された青年は重厚な扉を見詰めたまま、暫くの間、声を出すことさえ出来ずに、そこに留まっていた。

 

 そうだ。彼奴が居なければ、こんなことにはならずに済んだのだ。奴さえ居なければ。

 ——本当にそうか?

 老人は惚けた様に空中のどこか一点を見詰める。

 彼奴が邪魔をしなくても、いずれは別の誰かが障害と成り得たのではないのか。問題はそこではない。

 問題は——自分の内側に潜む獣だ。

 気付いていたはずだ。幼い頃からずっと、それを縛り続けてきたことを。虫、鼠、小鳥、栗鼠、私は数え切れないほどの生命をこの手に掛けてきた。物言わぬ弱者を見るといつも私は、——それを壊したくなる衝動に駆られてきたのだ。

 病気かも知れないと思ったことも一度や二度ではない。しかし、そう思う度に、私はそのことから目を逸らした。

 しかし。

 成長するに連れ考えるようになった。人間が社会的な生活を営む生物である以上、そのルールを遵守する必要があるということを。そうしなければ生きてはゆけないという事実を。そのためには、自分の奥深くに巣食う狂気を押さえ付けないといけないということを。

 けれども。

 良い匂いがしたのだ。それは、今までに嗅いだことのない香りだった。私は思いがけず恍惚としてしまった。背筋がゾクゾクとした。華奢な手足、細い首、彼女もまた肉体的弱者だったのだ。そう気付いた瞬間、私は——どう仕様もなく、それを破壊したいという衝動に駆り立てられたのだ。

 自分に与えられた選択肢は他には無かった。

 やらなければ、自分は永遠に報われなかったはずだ。だから……。なのにどうして私は闇に飲まれたのだろう。

「トントン」 

 ドアをノックする音を無視して、老人は目を瞑り、再び過去へと想いを巡らせ始めた。

 

「大丈夫かしら?」

「大丈夫。ここなら誰も来ない」

 二人は肩を並べて丸太の上に腰掛け、空を仰いだ。青い空に白い入道雲がぽっかり浮かんでいる。その形は不恰好な蛙を連想させた。

 不意に彼が唇を重ねようと、彼女を自分の方へ引き寄せる。

「駄目よ。止めて」

「どうして? 僕らは愛し合っているのだろう?」

「そうだけど……。お父様に怒られてしまう」

「その『お父様』は、僕より大事なのかい? 大丈夫さ。きっと彼も分かってくれる。今はただ、君が子供だと思って心配しているだけだ」

 青年はそう言うと、もう一度少女の肩に手を回した。その手を振り解き、少女は立ち上がった。

「なぜ?」青年は、その褐色の瞳の奥に困惑の表情を浮かべる。

「嫌!」少女の力強い視線が青年を射抜く。

「ごめんなさい。もう会えない。本当はね、今日お別れを言おうと思って来たの」

「会えないって——どうして?」

「お父様に言われたの。貴方には合うなって」

「だからって!」

「黙って聞いて。私には、お父様が一番なの。母が居なくなって、彼にはもう私しか居ない。私もお父様を置いてどこへも行く気はない」

 青年の褐色の瞳を見据えて、少女は毅然とした態度で言った。そこには一切の付け入る隙が見当たらない。

「——分かった」

 敵わないと悟った青年は、少女に向かって陳謝し、少女はそれを受け入れた。

「お詫びの印といっては何だが、最後にベリー詰みに行かないか? 沼の辺りに、まだ誰も詰んでいない、とっておきの場所を見付けたんだ。きっと吃驚する」

「本当? 分かった。行くわ」

 少し迷った素振りを見せたものの、先程とは別人の様な表情で少女は微笑んだ。青年は少女の中に潜む女性を敏感に感じ取った。

「ねえ。楽しみ」

 耳元で呟く少女の声を聞いて、体の内側から突き上げてくる許し難い衝動に耐えながら、青年は壊れそうな自分を必死で抑え続けた。

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