第38話 自己探求


 佐野は涼香のベッド横に立ったまま、自分の状況が飲み込めず病室の天井を焦点の合わない目で見つめている涼香を暫く眺めていた。そんな佐野に涼香は気付く素振りを見せない。

 佐野は突然不安に駆られた。


【もし僕の事を忘れていたら・・どうする?】

 身体の両脇に垂れ下がる拳を強く握る。


 一つ大きく深呼吸をすると覚悟を決めた佐野は、先程まで亮一郎が座ってた椅子に腰を下ろすと優しく声を掛けた。

「すず」

 身近に人の気配を感じた涼香は、ほんの少しだけ首を動かすと目線を天井から横に移動させる。

 それは、涼香にとって懐かしい人の声だったからだ。そして、視界に入る男性の顔。

 その男性が優しく点滴とは繋がれていない涼香の手を取ると再度『すず』と声を掛けてきた。


 その声によって長い時間夢の中を彷徨っていた意識を、現実世界へと連れ込まれる感覚に陥った。すると、黒い何かが覆い被さってくる恐怖に襲われ、目をギュッと閉じると、握られている手も離そうとした。だが、その手は優しく包まれたままだ。

「すず、もう大丈夫だよ。何も怖くはない。僕が傍にいるから」


【やっぱりこの声】

 長い眠りの中で、時折聞こえてきた声、そしてこの手の温もり。

【夢の中で光の先に居た人】

 涼香は固く閉じた目をもう一度開ける。


「そ・・う・た」

 長期間に渡り使われなかった声帯に振動が起こったが声にはならなかった。それでも、佐野の鼓膜を涼香のか細い声が触れる。

「うん、そうだよ。すず、おはよう。会いたかった」

 佐野は、握ったままの涼香の手をそっと自身の頬に当て涼香の瞳に自信を映す。

 涼香の目から涙が溢れ出し少し呼吸が早まる。

「そう・・た。そうた・・・・ あい・・た・かっ・・た」

 涼香の懸命に伝えようとする口の動きを読み取った壮太は、全てが許された気がした。


 神木は、職員の休憩スペースで先程購入した弁当のおかずを箸でつついていた。

「神木君、お疲れ様。ここ座っていい?」

 小島がうどんを載せた盆を神木の前に置くと、椅子を引いていた。

 職員専用休憩スペースは、隣のレストランと直結していて病院で働く職員達は、レストランスペースではなくこちらで食べる事が多い。


「小島。お疲れ」

「最近ずっと、手作り弁当じゃないのね」

「あ、ああ。忙しくてな」

「そっか。あれ? おかず残ってる。美味しくないの?」

「否、そんな事はないけど、ほら俺関西出身だから、この弁当の味付けが濃くて、ご飯ばっかり食べてしまう」

「そっか」

「今日、宿直だし、後で白飯買って残りを食べるよ。小島はうどんだけで足りるのか?」

「私の事、大喰い女だと思ってるの」

「あ、否。すまんすまん」

 小島は、うどんを口に含むと丁寧にすすった。


「ここのうどん美味しいよ」

「そっか。でも俺はいいや。汁の色が濃過ぎる・・真っ黒って」

「アハハハ。関西風って確か薄口醬油使うんだっけ? お出しにも拘ってるのよね。食べてみたいな」

「叔母の葬式で久し振りに帰郷した時に、立ち食いうどん食べた。旨かったなぁ」

 神木は、大阪で久し振りに食べたうどんの味を思い出し楽し気に話したが、改札口で別れた春音の姿が頭に浮かぶと暗い表情に変わる。


「神木君・・大丈夫? 叔母さんの事、残念だったね」

「ああ、有難う。もう大丈夫さ」

「でも、あれ以来ずっと元気ないよ」

 小島の問い掛けに我に返った神木は、両腕を頭の後ろに組むと背筋を伸ばした。


「ここんとこ急患多いからな。世の中は年末に向けて暴飲暴食のし過ぎじゃないかぁ」

「そう・・かもね」

 購入した弁当に蓋をすると、その場を立ち去る準備に取り掛かった神木に小島が続ける。

「ねぇ・・神木君って明日お休みよね?」

「そうだったかな」

「そうよ。最近働き詰めだと思う。明日はちゃんとお休みを取らないと」

「ああ。でも家に居ても暇だから」

「私もお休みなの。二人で出掛けない? デートのお誘い」

 急激に熱くなる顔に恥ずかしさを覚えた小島は、うどん鉢に目を落とした。

「・・え?」


 神木の脳裏に春音が夏樹と街を歩く姿が過ぎった。

【そう言えば、春音って冬也としか・・デートってしたことないな】

【俺は・・ハハハ。もう直ぐ三十だってのにな。情けねぇ】

 神木は凄く世間知らずな気持ちになり、鼻で自分をあざ笑う。


「私、もの凄く勇気を振り絞って誘ったのに、鼻で笑わないでよ」

 小島は、神木に向き直すと頬を膨らませて反論する。

「あ、ごめんごめん。小島に笑ったんじゃないから」

「じゃあ、誰によ。ここには私しか居ないよ」

「俺自身にな」

「何よそれ」

「そんな怒るなって。この通り、ごめんなさい」

 神木は両手を顔前に合わせると詫びを入れる。

「じゃあ、お詫びに明日オッケーしてくれる?」


 神木は、今までの苦笑いを消し真剣な面持ちを小島に向ける。

「誘ってくれて有難うな。でもごめん。確かに明日は久し振りの休みだから、ゆっくりするよ。多分、出掛ける気分にならないと思う」

「・・考えておく・・とかじゃなくて、ハッキリと断られちゃった。神木君らしいけどね」

 小島は、がっくりと肩を落とし人差し指を鼻に当てると観念した様子で応えた。

「小島。本当にごめん」

「・・・・」

 神木は、持ち場に戻ろうとしていた身体を踏み留め、小島と再度向き合う。


「小島、あのさ。前に俺が時々寂しい顔をするって言ってたよな」

 意外な神木の発言に、小島は俯き加減だった顔を上げる。

「うん、言ったわ」

「それ正しいと思う。俺、スッゴク仲良しだった従弟が居てさ、そいつの母親が再婚して妹が出来た。そして、突然兄妹になった二人は・・恋に落ちたんだ」

「え? それって・・」

「そう、許されないと分かっていたよ。でも二人は眩しいくらい純粋で真剣だったんだ。誰にも邪魔なんて出来ないくらいにな。だけど、ある日俺の従弟は事故で死んだ」

「そんな」

 小島は衝撃の展開に口を両手で押さえた。

「俺は従弟の妹が好きだった。だから従弟の後釜に座った。後ろめたさや、従弟と比較されている様な自己不信、そんな気持ちを抱えながら生きていて・・上手く笑えるはずがないんだよ」

「・・神木君」

「ごめん、小島には関係ないのに、変な話をして」

「ううん、そんなに大きな事情を抱えていたなんて知らなかった。ごめんなさい、私、神木君に酷い事を言って」

「小島が謝る事じゃないよ。寧ろ、指摘してくれ助かった。そんな暗い顔していたなんて、自分では気付かないからさ」

「神木君・・」

「俺さ、暫く自分を見詰め直したいんだ。ちゃんと笑えるようになりたいしな」

 神木は、何処か遠くに座る別の自分に言い聞かせるように告げる。


「うん。神木君の幸せを一番に考えて。きっと大丈夫。話してくれて有難う」

「こっちこそ、聞いてくれてサンキュー。何か少しスッキリした」

 神木は、いつも以上の優しい微笑みを浮かべた。それを見た小島は自分が少しでも役に立った事を嬉しく思った。


 神木と小島が同時に席を立とうとした時、女性の声が近くに聞こえ二人の視線が動く。

「神木先生、小島先生、お揃いで。お疲れ様です」

「上原さん、お疲れ様」

「上原君、お疲れ。今からお昼? 随分と遅くなったな」

「午前診が長引いたんです。年末って嫌いです」

「それって宴会が増えるから? 神木君もさっき言ってた。消化器って大変ね」

「え? 循環器系は暴飲暴食が増えても忙しくならないんですか?」

「いや~ 年末年始がいつもよりも忙しいのは同じかもね」

 小島は、人差し指を顎に付けると思い直す仕草をする。


「あ、そうだ。お二人が揃われているのでお伺いしたいのですが、加瀬先生への餞別って個人的にされます?」

 予想外の言葉に神木の心拍が速くなった。

「餞別って、夏樹辞めるのか?」

「神木先生、ご存知ないのですか?」

「知らないって、何を?」

「来年の2月にアメリカに行かれるんです。もう、私は寂しくて・・・・あっスミマセン、つい」

 失言を吐いた口を慌てて手で押さえる上原を見つめながら神木は絶句した。

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