第18話 出逢えた心

 いつの間にか、電車は動き出しており、再び降り出した雨に車窓が湿気を帯びていた。

 阪元は、夏樹の心臓移植を手掛けた執刀医で、彼の主治医だ。また夏樹が、初期研修を行ったのが、TK循環器研究センターだった。


「え? 阪元先生ってTKセンターの?」

「そう。実はね、私、夏樹君をずっと前から知っているの。私達、以前に会った事がある。ごめんね、初めて食事を一緒にした時に、話しそびれてしまって」

 春音は、少し後悔の表情を夏樹に送る。

「それは、俺がレシピエントだって分かったから?」

「うん。心臓のレシピエントが近くに居るって知った時、じっとしていられなくなって、夏樹君を探しに大学まで行っちゃった。あんなに沢山の生徒が居て、どんな人かも知らないのに、馬鹿でしょ、私。・・でもね、不思議ね、私直ぐに貴方を見付けたの。夏樹君、大学の裏庭にある芝生で寝転んで本を読んでいた」


 夏樹の通っていた慶京大学には、大きな中庭とは別に、芝生が綺麗な裏庭があったが、キャンパスから離れているため、利用する者が少なかった。

 本好きで、尚且つ一人になるのが心地良い夏樹は、時間があれば裏庭で一人休憩していたのだ。

 そして、いつもの様に、うつ伏せになりながら本を読んでいた夏樹の足に、誰かが躓き転んだ。驚いて上半身を起こした夏樹は、尻もちをつき恥ずかしそうに、顔を赤くした一人の女性と目が合う。

 彼女は夏樹が、首からぶら下げていたネームプレートを見ると、ハッとして、再び夏樹に目を向けた。その眼差しはとても懐かし気で愛おしいものだったのだ。

 

「そうなんですか? ごめんなさい。俺、覚えていないです」

「当り前よ。ずっと前の事だもん。私達顔見知りでも無かったんだし」

「う、うん」

 随分前から春音と出逢っていた事実を、覚えていない自分に少し悔しくなった。


「それと、夏樹君、TKセンターで研修医だったでしょ。だから、良く見かけたわ。一生懸命勉強している貴方の姿を・・病院の庭でね」


 春音の脳裏にその時の光景が浮かび、目元を緩ませた。


「ごめん。俺、全然知らなくて」

 夏樹は、春音から聞く驚きの内容に、最初は全く身に覚えがなかったが、話を聞く内に、霧の中に埋もれている記憶があるようにも思えた。

「いいのよ。私が勝手に、ストーカーしてただけだから。アハハハ」

「ストーカーって、アハハハ」

「私、初めて夏樹君を見た時、心の底からホッとしたの。冬也の命が、無駄じゃなかったって・・・・本当に思えたから」

「春音さん」

「夏樹君、有難う」

 そう語る春音に、優しい面持を向けられた夏樹は、全身が温かい何かに包まれる気がした。


「・・実はね、愁にはまだ夏樹君の心臓の事を、話していないの。彼にとっても冬也の死は、辛い思い出だから」

「もし知っていたら、神木先生、きっと俺に気を使うと思うので、その方が良かったかもしれません」

「そう、ね・・愁は本当に優しい人だから。昔からずっとそう、自分を犠牲にしてまで・・・・」


 春音の最後の言葉が、車内放送でかき消され、夏樹の耳には

『神木は優しい』

 の文字しか届かなかった。

 そして聞こえてきた神木を思う春音の言葉に少し胸が痛み、先日病院の廊下を二人が並んで歩く姿が脳裏を過った。

 それと同時に、未だ人間関係が苦手な夏樹が、こんなに気軽に会話が出来る春音を、不思議に思った。


【何なんだ。いったいどうしたいんだ】


「俺、実は人付き合いって苦手で、特に女性は。それなのに、どうしてだろう、春音さんは違う。変だよね。やっぱ冬也さんの心が、そうさせるのかな?」

「夏樹君?」

「不思議なんだ。俺、一度も女性に対して、こんな風に自分から話掛けたり、積極的になったりした事がない。家族や古い友人以外に関心すら持った事もない、そんな俺なのに・・ あの? 冬也さんって社交的で、結構積極的だった人?」

 車内の天井から吊られている広告が、揺れるのを見ていた夏樹は、春音と目を合わせた。

「え? うん、どちらかと言うと、親分肌かな、面倒見が良くて優しい人。悪く言えば、お節介焼き。それと、自分の気持ちをハッキリと言葉にするから、私達、周りの人間は、時々ヒヤリとさせられたわ。火の無い所によく煙立ててたから・・フフフ」

 冬也を思い出しながら春音は応えると、寂しそうに遠くを見つめた。

「愁の方が、冬也の事は、もっと知っていると思う。あの二人従兄で、生まれた時からずっと一緒だった。冬也と愁のお爺ちゃんが、空手教室やってて、遅くまで訓練させられていた」

「春音さんも空手出来るの?」

「ちょっとカジったくらい。私は、二人が稽古しているのを、見ている方が好きだったから」 


 小学生の冬也と愁が、空手道着に身を包み、組手の練習をしているのが頭に浮かぶ。


「本当に、仲良かったのよ、あの二人」


 ランドセルを背に冬也と愁が、満面の笑みを浮かべ、肩を組みながら歩いている姿を思い出す。


「愁はね、私のせいで泣けないの。私よりもずっと冬也の事が恋しいはずなのに」


 春音は、目に熱いものを感じ俯くと、膝の上にある自身の手を見つめた。


「ごめん。悲しい事を思い出させてしまって」

「うううん。大丈夫」

 顔を上げると、真っすぐ前を見つめる。


【綺麗だな】

 夏樹の目に、何処か一点を見つめる春音の横顔が美しく映った。


「夏樹君って不思議な人ね。私、初めて冬也の事を普通に、そして過去の人のように話せた気がする。有難う」

 そう告げると、少し目が赤くなった春音が、優しい笑みを夏樹に送る。

 その笑顔に引き寄せられた夏樹は、春音が彼女の膝上に置いていた手を握ると、視線を車窓の外に移した。

「また雨が降ってきた」

「最近、雨ばかりね」

 夏樹は、雨に邪魔され街灯が滲む夜の景色を見つめながら、春音の手の温もりを心の奥深くで感じ取った。 

 二人の間には、心地良い静かな時間が流れ、時折揺れる電車に合わすように、夏樹の握る手が強くなった。


 駅の改札を出ると、初夏を思わせる少し温かくなった空気が漂い、小雨が降っていた。

 繋がれていた手は、電車を降りる時には離されており、二人は傘を差す。


 少し恥ずかしい様な緊張した二人の間には、傘で程よく距離感が保たれており、取るに足らない話題と共に歩みを進めていた。

 駅から暫く歩くと、夜の閑静な住宅街に沢山の光を持つ建物が現れる。

 駅から夏樹と春音が住む、両方のマンションの途中に、加瀬総合病院があるのだ。

 救急車が出入りする騒がしい音が聞こえず、静かな夜のようであった。

 病院を通り過ぎると、もう直ぐ夏樹と春音の別れ道が見えて来るのだ。


 夏樹は、春音が自分の事をずっと前から知っていた事実、夏樹がレシピエントで良かったと微笑んでくれた笑顔、それらを思い起こしていると、もっと一緒に居たい気持ちで一杯になった。


【これ何? もっと一緒に居たい? 俺が?】


 初めての感情に自分を抑えきれなくなった夏樹は、少し早歩きになると春音の前に立った。

 両者の足が止まり、夏樹が春音の名前を呼ぼうとした声は、春音の背後から現れた人によって阻害される。


「春?」

 夏樹と春音の心に、罪悪感を抱かせる掛け声が届いたのだ。

 春音は、後ろを振り向くと、傘の向こうに神木が立っていた。

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