No.2 夜に咲く夢 作者:しゅん さん

 眠らぬ街の中央にある天守。その最上階の一室は甘い香に満ちていた。城の主はたっぷりとした紅色の着物を畳に泳がせながら優雅に座し、豪奢な肘掛けに体を預けている。銀色の長髪は流れる星々の如く。そしてその瞳、妖艶という言葉がこれほど似合うものは他にない。血が滴るような唇は謎めいた笑みの形を崩さず、着物からちらと覗く胸元は雄の情欲リビドーを煮え立たせてやまない。

「許す。面を上げよ」

 澄んだ鈴の音のような声である。恐ろしくもあり、どこか幼くもある。

「は」

 城主から離れること畳六つ。頭を垂れ短く答えるは豊かな黒髪を結わえた男であった。ゆるりと顔を上げれば、端整な顔立ちが蝋燭の火に浮かび上がる。年若いが落ち着き払い、目の前に座す絶世の美女を直視してなお微塵の動揺も見せぬ。灰色の背広スーツに灰色の襯衣シャツ、灰色の襟締ネクタイを締めた仕事装束である。鈍色に縁取られた眼鏡がゆらゆらと揺れる火を映している。

「そちを呼んだのは他でもない」

「……は」

 男は居住まいを正し、ふと気配を感じて城主の背後に目を凝らした。のっぺりとした陰から音もなく二人の女がにじみ出てきたのだ。女の顔と姿は鏡に写したかのようで、それぞれ揃いの装束を身に着けていた。闇より濃い黒の布。全身を包むそれは口と鼻、そして片目までもを覆っており、肌が見えるのは指先と顔の半分のみ。男から向かって右側の女は城主と男のちょうど真中の辺りまで歩み出ると、手に携えていた紫色の長袋をそっと置き、再び城主の隣へと音もなく戻った。

「ひとつ謎掛けをしようかの」

「謎掛け、でございますか」

 男は長袋と城主を交互に見つつ応じた。

「影を奪うまじないを知っておるな」

「は」

「それと対になる、影を与えるまじないも当然知っておろうな」

「存じております」

「では、影を奪うまじないと影を与えるまじない、この二つを一人の相手に同時に試せばどうなる?」

 男はわずかに思案した。現実的に考えれば、全くの同時に別々のまじないを使うことはできぬ。術者が二人必要である。そして二人の術者がどれほど息を合わせようとも、必ずほんの少しの時間差タイムラグが生じる。つまり後にかかったまじないが先にかかったまじないを上書きし、結果としては何も起こらないはずである。

「何も起こらないかと」

 男の答えを聞いた城主は、にんまりと唇を三日月の形にした。まるで悪戯が成功した童のような可愛らしい笑顔である。

「その長物を取ってみよ」

 城主の言葉には脈絡がなかった。男は一瞬戸惑いながらも、膝を進めて長物を手に取った。紫の袋から取り出したそれは闇のように黒く、黒く、いくら目を凝らしても闇にしか見えぬほど黒い薙刀であった。まるで薙刀の形をした黒い紙であるかのように見えるが、しかし触れればそれがしっかりと厚みを持っていることが分かる。

「これは……」

「謎掛けの答え合わせじゃ」

「これが?」

「この左右は」

 そう言って城主は両手を交差させ、白魚のような指先でそれぞれ己の左右に佇む女を指差す。

「一つの魂を二つに裂き作られたものじゃ。瓜二つであろう? 元が同じ人間なのだから当然じゃな」

 左右の女はぴくりとも動かず、一切の隙を見せない。城主に触れようとするものを自動オートで叩き落とすからくりであると言われれば、なるほどその通りだろうと納得してしまう。それほどまでに人間味がない。

「これらに先の謎掛けを試させた。すると、それが出来上がったのじゃ」

 感情を見せぬよう努めていた男も、これには驚愕の表情を隠せなかった。

 影を奪うまじないと影を与えるまじないを、寸分の狂いなく同じ瞬間、同じ相手の同じ場所にかけたということか。元が同じ人間を二つに裂いてつくられた者ならば、それも可能かも知れぬ。しかしその結果がこの薙刀とは……。

「そのような方法で剣打ちが成るとは、寡聞にして存じませんでした」

 男がかろうじて言葉を口にすると、城主はころころと生娘のように笑った。

「わらわも驚いたよ。これだから戯れはやめられぬというもの。とはいえ、できたものは収めるべき場所に収めねばならぬ。そこでそちの力を借りたいというわけじゃ」

 男はそこでようやく己が呼びつけられた理由を悟った。この薙刀を解析せよと城主は言っているのだ。


 男の職業は剣問師けんとうしと呼ばれるものだった。これは剣打ちという儀式によって生み出された武装――ひとまとめに剣と呼ばれている――を解析し、その能力をつまびらかにして対価を得る仕事である。剣打ちとはこの世ならざる力を呼び出し形にする手段であり、そうして生まれた剣はこの世ならざるものであるが故に、どのような力を持っているか誰にも分からぬ。剣問師はこれを一つずつ紐解き、未知を既知へと変換するのである。

 剣問師の寿命は短い。職業としての寿命という意味ではなく、文字通り長く生きることができぬという意味である。普通、剣打ちを行った術者自らが己の剣の解析を行うことはほとんどない。その理由としては、単純に危険だからである。何が出てくるか分からぬ箱に手を突っ込めば、しばしば蛇に指を噛まれる。剣を生み出すよりも解析する方が、余程危険リスクを伴うのである。剣は強力な兵器となり得る。他国を攻め落とすなら必要不可欠と言っていい代物。だがその剣を扱うためにはまず解析しなければならぬ。そこに目をつけた過去の何者かが剣問師という職を作ったのである。


くれない様直々のお願いとあれば、是非もありませぬ」

 男は闇の薙刀を両手に掲げ、頭を下げた。薙刀は重さを何処かへ置き忘れているかのように軽かった。

「期待しておるぞ、カイ

「は。しかしこの剣、少々特殊な生まれゆえ我が工房では手に余る恐れがありますれば、万全を期すためにも……」

「よい、外での解析を許す。そうじゃの、紫金の国へ渡り仕事を全うするがよい」

「……仰せのままに」


 天守を出た男……カイは、明けぬ夜の闇の空に、ふうっと息を吐き出した。先ほどまでたっぷりと吸い込んでいた甘い香が未だ肺腑に残っているかのようだ。

(紫金の国か)

 小さな星々を見上げながらカイは独りごちる。

(あの女狐め、突然何を言い出すかと思えば……戯れのついでにあわよくば、国を一つ盗ろうとでもいうのか)

 剣の解析は様々な厄災を呼び寄せる可能性がある。建物が吹き飛ぶくらいならまだましで、歴史を紐解けば一夜にして国が滅んだという例もある。そのため剣問師は地下深くに専用の工房を構え、多重の結界を敷き、呪が外に溢れ出ぬよう注意を払って解析を行うのだ。カイは紅に、より強固な結界の援助を求めるつもりだったのだが、紅はそれを理解していながらあえて誤解したような指示を出した。結界も何も用意のない外国で剣の解析など行えば、何が起こるか分からない。それともこの黒い薙刀であれば大したことにはならぬと踏んでいるのだろうか? 確かにそれは剣問師の目から見ても十分考えられることではあるが、あの計算高い城主のことだ、他に何か企んでいるに違いない。

(いや、いや、これは仕事だ。あの女には世話になっているのも確かだしな。報酬も前払いの分だけで数年暮らせるほどの大盤振る舞いだった。これで逃げ出したりすれば間違いなく命はないだろう)

 カイは頭を振りつつ、歩き出した。こうしてあれこれ考えるのは剣問師の仕事ではない。国が一つ二つ滅ぼうとも、残りの報酬を貰えれば文句はないのだ。仮にこれが切っ掛けで夜の国と紫金の国の間に戦争が始まろうとも、おれには関係のない話だ……と、このように心の隅でうそぶきながら。

(とはいえ、この仕事の後にまだ命が残っているという保証もないがな。まあそれはいつものことか)

 夜の国に陽は昇らない。橙と紫の提灯が通りを照らし、影をつくり、陰に隠す。みにくいものは見えぬ場所へ。ほのかな光に浮かび上がるは妖しく美しいものばかり。

 夜桜がざあっと花びらを吹き散らし、雪のように舞っていった。


―●○●―


 紫金の国。それはどこか夜の国と似ていながら、決定的に異なる国であった。建物はもちろん、街路、街灯、植えられた木々に至るまで、全てが黄金色に輝いている。しかし当然ながら、この国の石ころ一つに至るまでが黄金でできているという訳ではない。この過度に華美な街並みは言わば観光客への歓迎来臨サービスである。我が国はこれほどまでに財を蓄えているのだぞ、という宣伝活動アピールである。しかしそれだけの財を持つということはつまり、相応の武力を兼ね備えているということでもある。かつてこの国の財を目当てに攻め入った国は数多くあれど、そのことごとくが朝露と共に消え去ったという。

「ねえ旦那、仕事の後は観光もなさるんですかい」

「ああ、うむ」

「それならいい時期に来なすった。今は朱金祭の準備中でね、方々から人が集まってきてるんでさ。屋台が立ち夜市が立ち、餅が撒かれておっきな花火まで上がるって話でねえ。アタシも仕事がなけりゃ、遊びに行きたいくらいでさぁ」

「そうかね」

 やたらと陽気な大海の渡し守を相手に適当な相槌を打ちつつ、カイは眼前に迫る紫金の国を見上げた。きらきらと輝く建物はただ豪奢なだけでなく、そこに施されている細やかな装飾には確かな職人の技と歴史が刻み込まれている。冷笑的シニカルな人間がこの国の景色を見れば一言「品がない」と切り捨てるだけだろうが、少しでも注意深い者ならこれが単なる虚仮こけではないと一目で見抜くだろう。物知らぬ成金を装ったしたたかな獣。それがこの国の真の姿である。

「さあ着いた。旦那、お戻りはいつ頃になりそうで? 帰りもアタシがお送りすることになってやすんでね」

 陽気でお喋り、ともすれば軽薄な人物に見えかねないこの渡し守であるが、こと仕事に関しては抜かりなくこなす玄人プロである。話すべきでないことは間違っても口を滑らせるような失態を犯すことはない。だからこそ今回の渡航に抜擢されたのだ。

「帰りが明日になるか十日後になるかおれにもわからぬ。悪いが連絡を待ってくれ」

 しかしカイは素っ気ない返事だけを返すと、そちらに見向きもせず歩き出した。このような場所で長々とお喋りをしている訳にもいかぬ。それは渡し守も重々承知しているようで、

「まいど、お気をつけて!」

 商売人の決り文句を言うや否や、さっさと海の彼方へと消えてしまった。

 船が遠のいていく音を背で聞きながら、カイは凝り固まった肩を回してこきりと鳴らした。普段と変わらぬ灰色ずくめの仕事着スーツに加えて、今日は膝の下まである黒い外套コートを羽織っているのだが、どうにもこれが重くのしかかっているように感じられていけない。我ながら、緊張しているのか。カイは己の内心をそのように客観的に分析する。なにせこのような仕事は非常に珍しい。他国に入り、そこで密かに未解析の剣を解析するなど……有り体に言ってしまえばこれはもう立派な破壊活動テロ行為である。いかに夜の国の城主に認められたという大義名分があれど、紫金の国主にとってはそんなもの「知ったことか」である。露見バレれば問答無用で首が飛ぶ所業であることは疑うべくもない。しかしそれでもカイがこの仕事を受けたのは、一つは金のためであるが、もう一つはまあ、そうは言ってもこの剣が無差別に人を殺す類のものではないだろうという目算があったためだ。

 変則的イレギュラーな剣打ち、すなわち剣を作ることを目的としたものではなく偶然によって生み出された剣の多くは極端に奇妙な性能であることが多い。触れるものの色をことごとく緑に変えるだとか、やたらと猫を引き寄せるだとか、酸っぱいにおいが半径五メートルに充満するだとか、要するに使い道がよく分からないのである。

 遺書をしたため準備を万全にしていざ解析をしてみれば、剣がその場で青色ゲーミングに光るだけだった――などという酷い肩透かしを食らったような話は、剣問師にとってはありふれた笑い話の一つに過ぎない。万事がこのような仕事であれば楽なのだがなあと笑っていた同業者がその日のうちに大量の血を吐いて死亡した、ということも日常茶飯事なのでうっかり気を抜くこともできないが。

 益体もないことを悶々と考えていてもカイの足は自動的に歩き続け、いつの間にか今日の宿へと到着していた。

 船旅に時間がかかったせいか、空の色は既に夕刻に近付いているようだった。

「予約していた者だが」

「お待ちしておりました」

 カイが名乗るまでもなく、接客人フロントマンは棒状の鍵をうやうやしく差し出してくる。さすがは夜の国の城主である紅が直々に手配したというだけのことはある。余計な言葉を必要としない、実用奉仕サービスの行き届いた宿である。案内された部屋の扉を開ければ良い香りのする花と、飾り切りが美しい果物フルーツの盛り合わせが出迎える。このみずみずしさ、切って数分と経ってはいまい。どういうからくりなのかと不思議に思いつつ、カイは無造作に果物の一つを手に取り口に放り込む。うまい。ミルクのような芳醇さと柑橘シトラスの爽やかさを併せ持つ極上の味わいである。そのまま広々とした室内を横切り窓際に立ってみれば、こちらもまた極上。黄金に輝く街並みを見下ろす観覧地点ロケーションは文句の付けようがない。傾き始めた陽が街を照らせばまるで万華鏡カレイドスコープの如く、単なる金色と思い込んでいた景色が次々と色を変える。朱から紫、そして淡紅色へと。高価な絵画よりも余程美しい、計算し尽くされた設計の妙が見せる神秘的な光景が視神経を優しく愛撫しながら脳へと上っていく。

(まさかこれほどとは。夜の国に慣れたこの目にはちと刺激が強いが、しかし驚くほどに嫌味がない。洗練されている)

 カイはもう一切れ、別の果物フルーツを口に含んだ。こちらは歯を入れると溢れんばかりの果汁が口内を満たす。鼻を抜ける強い芳香が旅の疲れを吹き飛ばすようだ。

(万が一今回の仕事がこの街の景観を台無しにするようなことになれば、己は美を愛する多くの者たちから恨まれるのであろうな)

 運命捻転逆フラグ――仕事を行う前にあえて不吉な考えを巡らせる、あるいは過度に楽観的な思考をすることにより、天邪鬼逆張り運命神ゲームマスターの手を捻じ曲げんとするまじないの一種である。効果があるかどうかは運次第というあまり意味のないまじないではあるが、カイが仕事前に好んで行う手順作法ルーティンである。

(さて、さっさと仕事を終わらせてしまおう。明日はゆっくりと街を巡って日頃の疲れを癒やすのもいいな。そういえばあの渡し守、花火があるとか言っていたか……夜の国ではまずお目にかかれないものだ。見逃す手はないだろう)

 無意識のうちに次々と溢れ出す思考ルーティンを野放しにしつつ、体はしっかりと仕事の手順を踏んでいく。紫の長袋から取り出したるは黒そのもの。光の一粒も逃さず引きずり込まんとするその薙刀は嘘のように軽く、夢のように現実感がない。例えるならばそれは穴。この世に開いた異界へと通じる鍵穴である。気を抜けば意識ごと吸い込まれてしまいそうな黒から少しだけ焦点をずらし、カイの口は呪言を唱え解析の始まりを告げる。

起動スタート記憶領域診断メモリーチェック

 漆黒の薙刀の表面に、葉脈のような光が流れる。走査のじゅが剣の端から端まで駆け巡り、細い糸を紡ぐようにその正体を少しずつあらためていく。カリカリと大気が震えて音が鳴り、同時に発動した空の術によって渦巻く風が、異能にあやかろうと擦り寄る有象無象の熱霊を吹き飛ばしていく。

(――驚いた。てっきり底なしの闇かと思えば中には光もある。このとりとめのない色、未だに形を持たぬか。思っていたよりも深いな。いったん待機させるべきか)

 カイは脳内に流れ込む情報を取捨選択し、細やかな操作を繰り返す。繊細な技術が必要とされる剣問師の中でも、カイの腕前は他の同業者と比べて頭一つ二つ抜きん出ている。

 が、しかし。そんなカイの熟練の技を持ってしても、この剣の情報量は捌き切れる限界を超えつつあった。これはまずい。一旦作業を中断して……と、思ったその瞬間、カイの脳内に通知案内メッセージが流れる。

記憶データ更新完了。実行準備完了。これより"悲喜の劇場 夢の一夜"を実行します。どうぞ最後までごゆっくりお楽しみ下さい』

「待て待て待てッ!」

 思わず、といった声がカイの口から飛び出した。管理者マスターの承認を待たずに剣が自ら異能を実行するなど、解析を失敗した時や剣が暴走した時以外では聞いたことがない。解析は未だ順調に進んでおり、剣の手綱もきちんと握れている。にもかかわらず、剣は正常な処理として異能を勝手に実行してしまった。これは明らかに異常事態である。

 一度実行処理が開始されてしまえば、人の言語で待てと言われて待つ剣はいない。漆黒の薙刀はぎゅるりとその姿を丸めて円となり、円は歪んで六つに割れ、それぞれが更に六つに割れ……と、それを繰り返して無数の黒点ドットとなった影絵は、あっという間もなく四方八方へと飛び去ってしまった。幸いなことに、窓にも壁にもカイの肉体にも変化はなかった。まさに影のごとくすり抜けていったのだろう。

(まずいぞ……まさか最初から管理者マスター権限を握れていなかったのか? しかしそんな馬鹿な話が……いや、推測をするのは後だ。まずは逃げ去った剣を確保しなければならぬ)

 カイは急いで部屋を出てから二歩走ったところで何かを思い出したかのようにきびすを返して部屋に戻り、未だみずみずしさを失っていない果物フルーツの盛り合わせを一つ口に放り込むと、再び駆け足で部屋を出ていった。

 酸味が強い。しかしそれでいて不思議と尖ったところのない優しい味だった。


―●○●―


「まいったな」

 宿の外へと飛び出したカイは足を止め、思わずそう独りごちた。ちょうど陽が落ち、慣れ親しんだ夜がやって来るはずであった紫金の街並みは、今や別世界のように変貌してしまっていた。きらびやかな黄金通りは場違いな群青や緑色に侵食され、所々虫食いのように質感画像テクスチャが剥き出しになっている。現実世界を不具合バグが蝕みつつある――そんな感想を抱いてしまうような風景がそこには広がっていた。

(ともかく、剣を追わねばなるまい。この改変指令プログラムを止めれば街も元に戻るはずだ)

 根拠はなかった。実際ここまで侵食が進んでしまっている現状を鑑みれば、今更指令プログラムを停止した所で因果が巻き戻るとは到底思えぬ。しかしカイは剣を追うしかなかった。それ以外に今できることはなかった。

(剣の居場所は――よし、分かるぞ。幸い経路パスはまだ繋がっているらしい)

 剣の現在位置が国の中心方向にあることに若干の嫌な予感フラグを感じつつ、カイは狂った街を走り出した。しかし走り出して一分と経たぬうちに、何か妙だということに気が付いた。人がいない。祭りの日を目前に控えた観光都市とは到底思えぬほどに、その極彩色の世界は静かだった。宿を目指して通りを歩いていた時は、肩が触れ合うほどの人間がひしめいていたというのに。

 と、その時。建物の角を曲がった所で、カイの目の前に突如として大勢の人間が現れた。直前まで音も気配もなかった。ぽんとスイッチを押した途端にその場に現れた、というような感覚が一番しっくり来るようだった。人々は皆一様に顔が黒く塗りつぶされており、屍人ゾンビのようにふらふらと目的もなく動いている。カイの方へ注意を向ける者は誰もいなかった。それなのに、カイはぴたりと足を止めてしまった。これ以上近付くのは不味い、そう本能が告げていたからだ。

(剣の異能によって影を奪われ、廃人と化した人間か。いや、それだけではあるまい。あの剣の出自を考えれば、恐らくもう一つの効果が……)

 カイの思考を遮るかのように、その変化はまたもやまばたき一つもしないうちに訪れた。人々の顔が、体が、羽化する蝉の幼虫の如くぴしりと割れ、そこから奇妙な生物がぬるりと現れたのだ。

 それは――鳥、だった。

 いやしかし、果たしてこれを鳥と呼んでいいものか。だがその見た目は他に適当な呼び名を受け付けるとは到底思えぬものだった。くちばしがあり、鶏冠とさかがある。目はまんまるに見開かれ、羽は全て毟り取られているのか地肌が見えており、手羽がちょこんと体に癒着している。その体は人間と同じくらいに大きく、縦長で、しっかりと二本の脚で地面に立ち、そして――全体的に黄色かった。

「「「「Kohoooo.....」」」」

 カイを取り囲む鳥の群れから、一斉に呼吸音のようなものが発せられた。ぽっかりと開いた嘴から空気を吐き出しているのか。何かが来る。そして恐らくそれは攻撃だろう。カイはそのように判断し、全神経を張り詰めさせて攻撃に備えた。次の挙動の一つも見逃すまい。外套コートの下に隠していた一本の剣を指令省略コマンドレスで実行し、視力と聴力を強化する。だが結果的に言えば、それは悪手であった。

「「「「OAaOOOOOOooo!!!!」」」」

 鳴いた。鳥の声とは到底思えぬ滑稽な鳴き声が、しかし恐ろしいまでの音圧を伴って一斉にカイを襲った。視界が揺れる。眼鏡に一本のひびが走った。いつの間にか唇の端を伝う赤い滴、これは己の血だ。しかしどうやら内臓をやられた、というわけではないらしい。突然の轟音に思わず噛み締めた歯が舌の先を切ってしまったのだ。だが、気付きつけのようにその口内の痛みがカイの意識を現実へと引き戻した。感覚を強化するために実行していた剣、【試薬結晶ファイブ・ミー】を強制終了シャットダウンし、別の剣を二振り、外套コートの内側より取り出す。

「浄化剣仮眠形態スリープモード解除。実行、界面活性ジョイ

 短縮された起動指令コマンドによって、右手に持つ筒状の剣の異能が解放される。ぞぶり、と音がしたかと思うと、鳥たちが一斉に地面に沈み始めた。カイを中心とした周囲一帯の舗装地面が水のように波打ち、その上にあるもの全てを飲み込んでいく。

【浄化剣・界面活性ジョイ

 この剣が地面と認識したものの性質を水面のそれへと変化させる。しかし実際に地面が液体に変化するのではなく、あくまで固体は固体でありながら水のような振る舞いをするだけであるため、その上に乗っていたものは泳ぐことも飛び跳ねることもできずにただ沈んでいく。効果範囲は約十メートルほどで、これはX軸だけでなくY軸にも同じく作用する。つまり剣の持ち主以外であれば、地下十メートルまで沈めば固い地盤に足がつく。逆に言えば剣の持ち主は際限なく沈み続け、やがて中間層マントルを突き抜けてこの星のコアに到達することになる。それまで剣の効果が続けば、の話ではあるが。


 カイは沈んでいく黄色い鳥たちを見下ろしながら、ぺっと血を吐き出した。鳥たちは地面に挟まれているせいか呼吸音と叫び声を断続的に発するのみで、それは出来損ないの合唱のように「オッオッ」と響いていた。さながらカイはこの壊れた合唱団コーラスの指揮者といった所か。何故カイだけが沈まずにいられるかと言えば、それは左手に持ったもう一振りの剣の能力によるものである。


機械仕掛けの猫狸ベリィ・グッド・シング

 この剣を持つ者を、あらゆる接地面から三ミリメートルだけ浮かせる。一見すると非常にささやかで何の役に立つのかも分からないような異能であるが、しかし一度実行すれば非常に長い時間持ち主を浮かせ続けられるため、水の上を歩くことも地雷原の上を軽快二重跳躍スキップしながら通り抜けることもできる。

 持ち主ごと地面の下に沈んでしまうという致命的な欠陥を抱える界面活性ジョイと組み合わせることで、機械仕掛けの猫狸ベリィ・グッド・シングの異能は一気に凶悪なものと化す。これらはどちらもかつてカイが解析依頼を受けた剣であったが、依頼主にがらくたであると判断され二束三文で譲り受けたのだった。


 剣問師はその職業柄、常に危険に備えねばならぬ。剣とはこの世ならざる異界の力を形にしたものであるが故に、物によっては剣自体が異界の連絡通路ポータルとなって、解析中に怪物をこちらへ呼び寄せてしまうこともあるのだ。異界の怪物に対抗できるのは同じく異界の能力しかない。そういった事情から、彼ら剣問師はいくつかの剣で武装しているのが常なのである。


 たましいを奪われ、異界の影を与えられることで怪物と化した人々が、カイの駆ける先々で道を塞がんと立ちはだかる。しかし彼が近付けばただそれだけで、あらゆるものは地の底へと埋葬されていく。豪奢な建物も、完璧に計算された配置の植栽も、なにもかもが地面の下に沈んでいくのを横目で見ながら、カイはひた走る。

(目に映る限りでは紫金の国は壊滅状態だ。今更、己が少しくらい地ならしをした所で大して変わるまい)

 もはやそのように開き直らねばやっていられないほどに、彼方に飛び去った漆黒の薙刀による被害は甚大であった。看板の文字は異界語と思しき形に歪み、信号は何かを訴えるかの如く七色の明滅を繰り返す。飼い主を見失いトボトボと歩く犬の尻から黄色い鳥が生え、力なく一声鳴くとそのまま地面に沈んでいった。

 こうして見ると剣が勝手に改変指令プログラムを実行した地点、すなわちあの高級宿ホテルから遠ざかる程に影響が強くなっているようである。カイ自身が異界化の影響を受けていないのは実行地点に関係があるのか、あるいは彼が解析前の準備として異界の呪を防ぐための剣を実行していたためか。


空間除呪の首飾りクローリン・ダイオキサイド

 どう見ても身分証明証スタッフパスのような首飾りネックレスだが、これも立派な剣である。この剣の周囲二メートル半ほどの空間を清潔に保ち、異界の呪をある程度軽減・無効化する。こちらの世界の微細病原体ウイルスや毒ガスなどもかなり無効化してくれるため非常に使い勝手の良い剣である。これはかつて剣競売オークションに出品されていたもので、カイはこれを落札するために貯金を全てはたき、借金までした。しかし大金を積んででも手に入れるべき逸品であることは言うまでもなく、カイも過去幾度となくこの剣には救われてきた。

 余談であるが、この剣には類似した形状の他の剣が数多く存在し、その中には碌に効果のないものや、逆に呪を呼び寄せてしまうような剣まであるため、剣競売オークションのような公的な場所以外で購入しようとすればまず粗悪品を掴まされることになる。良質な効果を持つ剣を見つけること自体が難しいため、カイがこの剣と出会えたのは非常に幸運だったと言える。


(今もこの剣がなければ、あるいは真っ先に己が黄色い鳥になって無様な鳴き声を上げていたかも知れぬ。いや、それとも一応はあの漆黒の薙刀と経路パスが繋がっているから影響を受けないだけだろうか)

 その推測ではカイがいた部屋や建物が異界化していなかったことの説明がつかないが、そもそも異界の力は道理の分からぬものである。この世の人間がうだうだと考えても仕方のないことなのかも知れぬ。

 遠目に触手のようなものが生えつつあるらしい高層建築などを見ると、異界の瘴気がこの国に充満していると考えてもおかしくはなかった。予め空間除呪の首飾りクローリン・ダイオキサイドを起動しておいたのは間違いではないだろう。まあ仮に異界の瘴気が満ちているとすれば、この国の人間は既に全滅しているということになってしまうが……。


(なんということだ。この先にあるのは……あの漆黒の薙刀が停止した位置は、どうやらこの紫金の国の国守館ではないか。国主の周囲は強力な剣を持つ守り人が固めているはずだが、さて。彼らが無事だったとしても鳥になっていたとしても、どちらに転んでも最悪であることには違いないぞ)

 しばらく走り続け、ようやく目的地を明確に絞り込める段になって、今更そんな事実が判明する。カイは思わず頭を抱えた。

 仮に守り人が漆黒の薙刀を叩き落としていれば、カイはその薙刀を取り戻すために守り人と戦わねばならぬ。話し合いなぞ無駄だろう。というか、その剣を返してくれと言った時点で、こいつがこの国を壊滅状態にした張本人かと悟られる。一度の死罪程度では到底あがなえぬ、歴史に残る大罪人の出来上がりである。

 では守り人がことごとく黄色い鳥になっていれば良いのかと言えば、それもまた困った話になる。仮にも力ある国の守り人が太刀打ちできなかったとなれば、一介の剣問師に過ぎぬカイの手に余るのは間違いない。そして何より不味いのは、その場合は十中八九、国主も黄色い鳥へと変貌しているだろうということだ。鳥に国を動かすことはできぬ道理である。紫金の国が破綻すれば、経済的な繋がりを持つ他の国々をも揺るがすことになる。その影響はカイという個人がどうこうできる範疇を軽く飛び越えており、場合によっては彼の依頼主である夜の国、その城主である紅の手によって口封じのために切り捨てられるのではないだろうか。

 そこまで考えてカイはぶるりと身震いした。紅を敵に回すのは不味い。アレは表向きは遊女上がりの細腕といった顔をしているが、その本質は剛利合理ゴリゴリの武闘派なのだ。カイは偶々たまたま彼女の戯れに付き合わされて手合わせをする機会があったが、あらゆる剣を駆使しても一太刀入れることすら叶わなかった。紅の持つ規格外の剣は言うまでもないが、しかしそれ以上に、彼女自身の腕っぷしがただただ単純に強いのだ。恐らく紅が素手であったとしても、当時のカイでは勝負にならなかっただろう。子供でも剣を持てば軍隊を蹴散らせると言われているが、それほどまでに強力な剣という反則級の力アドバンテージも、紅を相手にする場合に限っては決して過信できるものではなくなってしまうのだ。

 つまりそれほどまでに紅は危険なのである。漆黒の薙刀のことなぞ放り出して、何もかも知らぬ顔で逃げ出すという選択肢はそもそも最初からなかったのだ。彼女との契約を破ることだけは絶対にあってはならぬ。常日頃から死を意識して生きているカイをして、紅を敵に回す可能性というものは決死の覚悟を抱かせるに足るのだった。


 国守館に踏み入る直前、カイは界面活性ジョイを停止した。いっそ建物ごと沈めてしまおうかと一瞬本気で考えたものの、そうすると肝心の漆黒の薙刀まで地の底に埋まってしまいかねないからだ。此処から先は真剣ガチでの斬り合いとなる。手を空けるために機械仕掛けの猫狸ベリィ・グッド・シングも停止して外套コートの内側に収納した。

 案の定と言うべきか、予想外と言うべきか。国守館の中には人の気配が一切なかった。そして見るからに建物の異界化が酷い。赤黒い肉と白黒緑の機械が融合したような壁、肉の芽が咲いているかのような照明器具、ひたすら異界語の放送を繰り返す音響設備スピーカー……時々こちらの世界の言葉が混じるのがまた嫌悪感を催す。異界式機械の小さな手が無数に生えた階段を四つほど駆け上がった所で、ようやく目当ての反応が目の前まで迫ってきた。異様な機械音を発する扉一枚が空間を隔てている。扉の表面の一部が剥がれてぐるぐると回る歯車が覗いているが、それは明らかに人の指のように見えた。気味の悪いことだなと思いながら、カイは扉を蹴破り国主の部屋へと侵入する。

 守り人の姿はなかった。そこにはただ四体の鳥がいた。ただしその色はどす黒く、こころなしか筋肉質のように見える。四体のうち一体は小刻みに鳴き続けており、二体は泰然自若としている。残りの一体は何故か口から水を吐き出し続けている。「Oa... Oo...」「Orororoororo...」という鳴き声の二重奏が、嘴を大きく開けたまま無表情に立ち尽くす二体の鳥をより一層不気味なものに見せている。

 カイは金と黒で装飾された鞘入りの刀を外套コートの内側より素早く取り出すと、これを右手で抜き放ち、あっという間に四体を斬り伏せてしまった。この刀も剣打ちによって作られた異界の力であるが、今はまだ起動すらしていない。純粋にそのままでも恐ろしく切れ味が良いため、カイはしばしばこうして普通の刃物として扱う。刃は抵抗なく鳥の肌に食い込み、スポンと間抜けな音を立ててその身を両断した。鳥の中身は空洞だった。床に散らばった鳥には目もくれず、カイは漆黒の薙刀の在り処を検索サーチする。おかしい。位置はこの場所を指している。しかし何もない。何も……そう思った時、床に散乱する鳥の欠片たちが蠢き、一箇所に集まった。それはもぞもぞと人の形を取っていく。

「よおよよヨうKoooようKoそおおおおAAAAA紫金NOOOOくニえ!!!!」

 温厚そうな中年男性の形になったは目をちぐはぐな方向に動かしながら止めどなく涎を垂れ流し、両手を刀に変形させつつ歓迎の姿勢ポーズでカイに突進してくる。その姿は恐らく紫金の国の国主を模したものであろう。彼も完全に漆黒の薙刀に取り込まれてしまったようだ。こうなってしまってはもう、遠慮はいらない。

可愛憲法ヴァージン・マリー起動。実行、愛される小動物スモール・アンド・キュート

 カイは躊躇いなく金と黒で装飾された剣の異能を解放した。と同時に、外套コートの内ポケットから小さなクマさんの鍵束付属人形キーホルダーを取り出し、剣の柄に装着する。途端にカイの全身を金と黒の力場オーラが包み込み、その身体能力を劇的に向上させた。鞘から刀身を走らせて一閃。いわゆる抜刀術である。その勢いは凄まじく、剣に振り回されるように半回転しそうになる体をカイはどうにか押し留めた。振り抜いた右腕にぴしりと痛みが走る。クマさんの鍵束付属人形キーホルダーでは、やや可愛過ぎたらしい。


可愛憲法ヴァージン・マリー

 持ち主の可愛さに応じて攻撃能力強化バフを与える。単純シンプルにして強力な異能だが肉体の耐久力は変化しないため、強化されればされるほど素の肉体にかかる負担が増大する。かつてこの剣の持ち主であった男はその威力を限界まで試してみたいという欲望に駆られ、自らゆるふわ可愛い衣装アクシーズファム一式を身にまとい戦場にて抜刀したところ、敵味方問わず彼を中心とする半径約二十メートル以内にある全ての物質が切り裂かれ、彼自身もまたその威力カワイさに耐えきれず、腰から上が一〇八〇度回転テン・エイティした末にフリルたっぷりの服を着た上半身だけが竹とんぼのように空高く飛んでいったという。そんないわく付きの剣は持ち主を殺す呪いの妖刀とされ、長らく使い手がいなかった。それから長い年月を経て夜の国の城主である紅の蒐集品コレクションとして収められていたそれを、ある依頼の報酬としてカイが引き取ったのである。彼の再解析と実験によりこの剣は少量の可愛さであれば十分実戦使用可能であると判明し、それ以降カイの基本武装として採用されている。


 可愛憲法ヴァージン・マリーの一閃を受けた敵は四分割の輪切りにされて宙を舞った。クマさん人形キーホルダー程度の可愛さでさえ、たった一振りで三度の斬撃が発生したのだ。全身を少女人形的装束ロリータで固めて化粧メイクを極めれば、あるいはあの紅に一太刀届かせることも可能かも知れぬ。恐らくその反動で体は絞った雑巾のようになるだろうが……。

 右腕の痛みを紛らわすために下らぬ妄想を挟み込んだカイの思考を遮るように、目の前を飛ぶ国主の体が急激に変化していった。四分割された肉体はそれぞれが黒い球体となり、宙に浮かんだまま凄まじい熱量を発し始める。これは恐らく、爆発する。カイの脳裏に即座に未来が映し出される。これも可愛憲法ヴァージン・マリー能力強化バフによって付与された直感力の賜物である。カイは迷わずその場を離脱し、更に剣の柄にうさぎさんの人形キーホルダーを追加して抜刀した。ずるり、と景色がずれる。国守館そのものを斬ったのである。この一撃でカイの右腕は使い物にならなくなってしまったが、斬り裂かれた建物からやすやすと脱出することはできた。

 ドン、と臓腑を押さえつけるような振動がカイの体を襲った。振り向けば、四つの光の筋が夜空へと昇っていく。もうすっかり夜が更けていたのか。そんな場違いな思考は次の瞬間、色とりどりの光に塗りつぶされた。


 花、であった。

 夜空に開く大輪の花。

 打ち上がったものは四つだけであったはずなのに、その花は開いては消えて、を幾度となく繰り返す。様々な色を湛えた光の粒が夜空狭しと咲き乱れ、尾を引いて流れ落ちては消えていく。

「美しい……」

 思わずカイの口から溜息と共に賛美の言葉がこぼれた。

 花火。それは夜の国では決して上がらぬものである。理由は明かされていないが、夜の国の城主がこれを厳しく禁止しているのだ。しかし他の国で、例えばこの紫金の国などで花火を見た者は、これは夜の国にこそ相応しいものだと思わずにはいられないだろう。夜空を画布カンバスとした一夜限りの芸術である。これを夜の国の空いっぱいに打ち上げられたら、さぞかし美しいに違いない、と……。


―●○●―


「なるほどのう。思いがけず楽しい土産話じゃった」

 夜の国、天守の一室にて。カイは依頼を受けた日と違わぬ姿勢で城主の紅と対面していた。相変わらず甘い香に満ちた空間である。しかしこの香りは不思議と心を落ち着かせ、未だ完治には至らず痛みと熱を持つ右腕の疼きまで紛らわせてくれるらしい。カイは震える心の内をおくびにも出すことなく、紫金の国における漆黒の薙刀の解析について淡々と報告を済ませることができたのだった。

「それで、剣は回収できたのかえ?」

「は。こちらに」

 カイが差し出したのは、手のひらに収まるほどの大きさの黒くて丸い玉であった。あの花火が上がって暫く経った後、スウと前触れもなくカイの目の前に降りてきたものである。それが姿を変えた漆黒の薙刀であることは、経路パスの繋がっているカイにはすぐに分かった。

 紅の左右に控えていた向かって左側の女がその玉を回収し、紅に渡すと、彼女は面白そうにそれを指でつまんで弄ぶ。

「なかなか愉快なことになったようじゃな。わらわも見てみたかった」

「紅様、紫金の国はもはや……」

 あの後。花火が終わり、剣が停止した後も、紫金の国が元の状態に戻るようなことはなかった。異界化した街並みは見るに堪えない姿のまま、人間もほとんど生き残ってはいなかった。巨大な財と武力を持ち合わせていた紫金の国は、たった一本の剣によって滅んだのである。

「国の体裁を保つどころではなかろうな。まこと不幸なであったなあ」

 妖艶な笑みを浮かべる紅の顔は、とても一国を滅ぼす原因を作った者とは思えぬ。しかし、とカイは考える。恐らく紅は最初からこうなることを織り込んでいたのだ。その上で、紫金の国を乗っ取る算段までつけていたのであろう。空恐ろしいものである。不幸な事故によって一夜にして滅んだ国、その原因の全てを引っ被せられ、口を封じられるのではないか、という点だけがカイにとっては不安であったが、しかし紅の悠然たる態度を見ていると、どうも杞憂であるらしいと思えてくる。全く味方にすればこれほど心強いものもない。……まあ、そもそもカイが紫金の国を滅ぼすことになったのは、紅の依頼が原因であるのだが。その辺りは考えないようにするのがこの国で上手くやっていくこつであることもカイはっている。

 しかし一つだけ。あの紫金の国の騒動の中でたった一つだけカイの心の中に生じた疑問が、今もしこりのようにその存在を主張し続けていた。

「ひとつ、伺いたいことがございます。個人的な疑問なのですが……」

「仕事以外の話かえ? そちにしては珍しいことよ。よい、此度の褒美じゃ。申せ」

 普通であれば、紅に謁見するというだけで大事である。その上で、許可されていない発言や質問をすることなど、とてもではないが考えられぬこと。しかしカイはどうしても確認しておきたかった。己にあれだけの仕事をさせたのだから、これくらいの無礼は良いだろうという計算もなかったと言えば嘘になる。

「その黒い剣が生まれる切っ掛けとなったのは、影を与えるまじないと奪うまじない、それを同時にかけたことによるものと記憶しておりますが……」

「そうじゃな」

「そのまじないを、一体かけたのでございますか?」

「ふむ」

 紅は記憶を探るように天井を見た。

 そう、あの漆黒の薙刀が生まれる原因となったのは彼女の戯れであり、それは相反するまじないを同時に行使するというものであった。であれば、そのまじないを一身に受けた人物が存在していたはずである。恐らくは咎人、それも特大の罪を犯した者であろうという所までは想像できる。だがカイはそこに引っかかりを覚えた。それは紫金の国で最後に見た美しい光景が導き出した予想であった。

「ああ思い出した。あの男はそう、確かじゃったな。この夜の国でこっそりと花火を打ち上げる計画を練っておった不届き者じゃ」

「左様で、ございますか」

「それがどうかしたかの?」

「いえ、ふと気になったものでして」

「相変わらずそちは面白い男じゃの。まあ良い、此度はご苦労であった。十分に体を休め傷を癒やすが良い。残りの報酬はいつものように振り込んでおこうぞ」

「は。有り難く……」


 天守を辞したカイは数日前と同じように夜空を見上げながら息を吐いた。腕の痛みが思考を冴え渡らせる。なるほどやはりあの剣は、元となった男の念が宿っていたらしい。この国で花火を打ち上げること。それが男の願いであったのだろう。

(まあ場所は違ってしまったが、願いの半分くらいは叶えてやれたと思ってもいいのではないだろうか。これで満足してくれれば良いのだが)

 人間として死ぬことも許されず、異界の剣と成り果てて――表現する術を持たぬ身となって尚、己の願いを見事夜空に表現してみせた名も知らぬ花火師に、カイは畏敬の念を抱きながら帰途につくのだった。

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