第8話 武士たち2

「ハヤ、彼らを小屋に!」

 やはり放ってはおけませんでした。短く言ったキドは大声をあげながら走り出ました。

 目を覚ました武士たちは、腰を抜かさんばかりに驚きました。目と鼻の先に山のように立ちはだかる大熊がいたのです。


 キドは大熊の前に回り込むと、男たちが焚いていた燃えかすを投げつけました。大熊は牙を剥き出し、丸太のような腕を振り上げて突進してきました。その鋭い爪を擦り抜け、森の暗みに駆け出しました。

 怒り狂った大熊はキドの後を追いかけていきます。その合間にハヤが小屋の戸を開けました。

「さあ、中に早く」

 しかし、男達は小屋に入ろうとはしませんでした。弓を構え、大熊の背に狙いを定めたのです。

 

 キドは走りながら次々と矢を放ちました。

 ≫ ≫ ≫ ≫ ≫ ≫

 それらは男達が構えていた矢の先に、続けざまに命中しました。矢の一本はすでに放たれた後でしたが、大熊の脇腹に突き刺さるほんの手前、稲妻のように飛来した矢が弾き飛ばしました。

 キドは駆け戻りながら、呆気に取られている男たちに怒鳴りました。

「何をしている。ここに来たのはあいつだけではない。森をよく見ろ!」

 木陰からは、少なくとも三匹の大熊が顔を覗かせていました。男達は荷物をその場に置いたまま小屋に逃げ込みました。

 迫り来る大熊を間近に見ながら、キドとハヤも走り込み、堅く戸を閉じました。壁板を掻きむしる爪音や小屋を揺るがす咆吼ほうこうの中、男たちは身を硬くして立ち竦んでいました。おそらく野獣に取り囲まれたことなどなかったのでしょう。


 大熊の気配が消えたのを確かめてから、キドは囲炉裏に火を起こしました。ハヤは沸き上がった湯に軽く炙ったクマザサの葉を入れ、皆に配りました。


 一息ついた所で口髭をたくわえた男が向き直り、丁寧に頭を下げました。

「お二人には何とお礼を申し上げたらよいものか…。それにしても、先ほどのあなたの弓の腕前、ほとほと感服いたした。弓の名手、キド殿とお見受けする。我々はあなたを城に迎えにきたのだが」

 キドは男の言葉を最後までは聞きませんでした。

「確かにわしはキド。わしは聞きたい。あなたたちは先ほど、熊に矢を射かけた。もし矢が命中し、あいつが息絶えたなら、なんと声かけし、あの世に見送ってやるつもりだったのか」

 口髭の男は、聞かれていることが分からないとばかり首を傾げました。他の男たちも眉をひそめています。


「自ら招いた災いを省みようとせず、奪おうとした命に与える言葉も持たれないのか。あなたたちとわしは生きる世界が違う。あなたたちは、ここでどれだけ山の怒りを買わずにおれるだろうか。わしは、あなたたちの住まう所で、どれだけ正気を保てるだろうか」

 キドの問いかけは、厳しさと信念に満ちた断りの言葉でした。男たちから頭と呼ばれる口髭の男は、何も言わずに頷きました。


 いたずらに大熊たちの胃袋を突ついたこの日に山を下るのは、あまりにも危険でした。キドの勧めもあり、武士達は山小屋で一夜を過ごしました。


 翌朝早く、出立する前に、口髭の男は二枚の銀銭ぎんせんをキドに手渡しました。

「いずれは夫婦めおとになるお二人と見ました。キド殿、昨日のお礼です。一枚はあなたに。もう一枚は美しいハヤ殿のために」

 一度、咳払いをし、他の男達が外に出たのを見計らって続けました。


「おいえは無くなったとはいえ、武家の姫君であったことには変わりませぬ。せめて山里のおなごほどの衣を買ってあげて下され」

 どうやら擦り切れて色褪いろあせたハヤの衣に、見知った紋を見たようでした。

 キドは咄嗟にハヤを見つめましたが、ハヤはまるで関わりのないような顔をしていました。


「ハヤ殿は、今やあなたと同じ世界に住まわれている。わしらとのしがらみは、もはや、過ぎ去った昔のこと」

 男はにこやかに笑い、背筋を伸ばして頭を下げました。武士達は都へと戻っていきました。



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