〈五〉



 領地の谷は一旦街区を挟んで分断され南北に続くが、試験で使われるのは街より北側の峡谷だ。降りるのとは逆の向かいはのっぺりとして傾斜のまったくない突兀とっこつ、その石壁と城側から続く断崖との狭間に深い大地の亀裂が空いている。


 谷底から吹き上がる凍てついた風はすでにどこかなまぐさいものを含んでいるような気がした。岩肌に草木は見えず、霧で霞んだ遥か下に繁茂している森がうっすらと見え隠れしていた。


 崖の縁で見下ろしていた天波は振り返る。長い髪は邪魔にならないよう纏め、片耳に羽を揺らす。

「ひとまず、期限は四日だ。それ以上になれば一度引き返して状況を報告しに城へ戻る。打ち合わせどおり二人一組に別れて探索する。定刻には私に鳥を飛ばすこと。緊急時には苣火のろしを焚き谷から上がること。もし麅鴞ホウキョウと会敵した際にも交戦せず、崖上に退避せよ」

 面々は頷いた。得物を掲げる。

「行くぞ」


 天波は最も北の崖を受け持った。最北といっても、谷が途切れているわけではない。大地に空いた巨大な溝は絶壁に沿ってこの世界をぐるりと一周しているとわれている。北の境界は、ここまでが領地に影響を及ぼすと定めている範囲にすぎない。ひとまずはこの外縁から中へ向かって探索を進める算段だ。

 天波と組んだのは同じ伴當の男、若いが長く務めており肝も座った重鎮だ。二人で崖を降りながら下に向かって濃くなっていく霧のなか、頭を巡らす。


 試験で使われるといってもきざはしなどない。全てが太古の昔のままの峰叢ほうそう、湿って光る黒い岩壁を慎重につたっていく。一歩踏み外せば命はない。

 途中鎖を掛けられるところに出くわし、速度を増して下へ下へと進んだものの、谷底に降りるだけで半日仕事、ひるを過ぎてすでに谷の奥には陽は入らず、夜のように闇が揺蕩たゆたっている。


 天波とて何度か降りているとはいえ、複雑に入り組んだこの谷の概要を掴むのは並大抵のことではない。季節で景色は変わるし、崩落や落盤によって地形が新たなところもある。しかも年中霧がけぶっていて見通せない。

 見上げれば細い狭間に白い空が見えた。とんでもない深さなのだと分かる。天波は最後の岩棚を勢いをつけて飛び降りた。

 地の底は枯葉で覆われた湿地、茶黒く変色した灌木かんぼくが鬱蒼として気味の悪い静けさに包まれていた。


「鳥の声がしない。獣の気配もない。こんなところだったか……?」

 続いて降り立った男が怪訝にあたりを見回す。天波も険しい顔で濃霧のなかを踏み出した。確かに恐ろしいまでの静寂に包まれている。聞こえるのは落ち葉を踏みしめる自分たちの足音だけ。新年に来た時はからすが鳴き、鼠がそこかしこに走っていたものだが、いまはひとつも姿を見ない。

 やはり以前とは空気が違う。自分の気が逆立つのが分かる。ずしりと重い緊張で神経を尖らせた天波らだったが、拍子抜けなことにそれからその日は何事もなく調査を終えた。



 日暮れにほらを見つけ夜営する。火をおこせば余計に闇が深くなる気がして、天波は仲間の作ってくれたかまどを木の枝で覆い、必要最小限の灯りにした。

「それだと互いの顔も見えないぞ」

 と言われたが、火は暖を取るためだけでいい。あまり光を傍に置くと敵が来た時に目を馴らすのに時間がかかる。

 荷に寄りかかって浅く眠り、翌朝自然と目覚めた。谷は暗いままで時の感覚が狂いそうになる。頭上の割れ目から覗く色でおおよその時刻を把握し、周囲を探索しながら南下を続けた。



 西の開けた草原で奇妙なものを見つけたのは昼頃だった。

 転々と散らばる塊に足を止める。黒々としたむくろは横倒しになりあるいは千々に弾けて散らばっている。

「……羚羊れいようの群れだな」

 天波は手近のひとつにしゃがんだ。

「凍って変色している。けっこう古いものだ。しかしこれは……」

 不可解な死骸を観察した。欠けた部位は肉食獣その他に襲われたような咬傷ではなく、かといって剣や斧で断ち斬られたようでもない。どれもまるで、たとえるなら乾酪かんらくさじで掬い取ったかのごとく、切断面は滑らかにかれており、それが広い平原に点々と放置されていた。


「同じだ…………」


 隣で息を飲む声を振り仰ぐ。男は冷や汗を垂らしながら平原を見渡す。

「崖の上で見つかった五十四人とまるで同じだ」

 その言葉に、では、と改めて死骸を見る。

「やったのは同じ奴ということか。だがこれは少なくとも三月みつきは経っている。まだここにいるかはわからない」

 地形図を広げて自分たちのいるおおよその場所を把握する。

「ここらへん一帯は洞穴が多い。全てを調べてはいられないから、大きいところだけ満遍なくあたって図を埋めていこう」



 しかしながらこの日も特になんの異状もなく、天波らは比較的大きな溶洞ようどうで夜を明かすことにした。



 少し奥まで進んでみたがかなり長く続いていそうで途中で引き返す。洞内の出口近くで火を焚いている男の向かいに腰を下ろした。

「もしかしたら、ここらは中で繋がっているのかもしれないな」

 小枝を折って火にべていた相手は囲巾えりまきに顔を埋めながら微かに頷く。様子に首を傾げた。

「どうした?」

「……なあ、隊長。南のやつらから鳥は来たか?」

「いや、まだ見ていないが」

 そういえばと外を見た。すでにあたりは深い暗闇でしんと静まっている。

「遅くはないか?昨日はもう来ていた頃だ。……まさか」

 男は顔色を失くして天波を見た。それには笑ってみせる。

「気にしすぎだ。そのうち来るさ。もし来なくても襲われたと決まったわけじゃない。私が起きているから、もう休んでくれ」


 火を小さくして膝を抱えた。耳に提げた羽飾りに触れる。一族の使う伝書鳥は一度においを覚えさせればどんな迷路にいようと行くべき主のもとに辿り着く。来ない時は、飛ばされていないか、外敵に襲われたかのどちらかだ。もしかしたら緊急事態で南に苣火が上がるかもしれない、と空を探す。だが、今日は月が無い。この視界のないなかで煙が見えるかは定かでなかった。

 鳥が来なくとも今日は一晩中起きていようと思っていた。なにか、心の奥にもやとした嫌な感じがある。こんな日は眠らないほうがいい。



 しかし、そう思って軽く閉じた瞼を再び開いたのは微睡まどろみに包まれた目覚めの間際、突如として耳をつんざく悲鳴が意識を突き破って体を揺らしてからだった。


 反射で伏せて顔だけを上げ、闇に目を凝らす。火はいつの間にか完全に消えていた。ただ聞こえるのは凄まじい絶叫と、何かがうごめくおぞましい気配。天波は全身が粟立つのを感じた。しらず多量の汗が噴き出す。


 今まで感じたことのない気だった。言うなればこれは戦慄。斬り合いで背を取られ、刃が身に迫る刹那のような。一瞬たりとも気を抜いてはいけない、意識を外せばそこで終わる、そんな絶望をあおる殺気が周囲を包んでいた。叫び声は左右の耳を往来する。何も見えない漆黒の空間、声は洞内に反響して増幅し、一層焦燥を掻き立てた。


 助けを求める男の声に天波は居所を知ろうと口を開く、が、喉が凄まじく開かない。どうして、と手で首を押さえた。愕然とした。震えた全身はまるで言うことをきかず、剣に添えた手は面白いほど小刻みに振れ、柄がさやと触れ合い細かな金属音を立てる。覚えるかぎり、今までこれほどの恐怖を感じたことがなかった天波は己の状況を把握するのにしばらく時がかかった。


 叫び声はなおも続いており、噛み合わない歯を鳴らしながら洞の出口と思われるほうへ匍匐ほふくした。


(だめだ――これでは)


 ようやく恐怖よりも焦りが大きくなり、胸元の懐剣をまさぐる。探り当てたそれを握り締め、口に腕を食んで切っ先をふくらはぎに突き立てた。

 衝撃と痛みが全身を駆け巡り、さらに強く腕を噛む。耳の中で血流の巡る音がする。大きく息を吸い込んだ。通った喉から咳として吐き出しながら呼び掛ける。


李酉りゆう――――‼」


 助けてくれ、と声が響いた。それで地面を蹴って洞穴から転び出、受け身を取りながら剣を構えた。


 わずかに夜闇の白んだ外、霧になにか巨大なものが雲のごとく動く。もくりとしたその中に白刃の光を見て瞠目どうもくした。きらと輝いたのは木々を越えた頭上、まるで吊り上げられたかのように李酉が宙で剣を振り回していた。何事かをわめき、哀願して泡を食っている。到底届かない高さに天波は硬直してただあえいでいるしかなかった。


 なんだあれは、と働かない頭は疑問と恐慌だけが支配する。左右に瞳だけを泳がせ、そして見つめた先、浮いていた彼は瞬きで闇に飲まれた。紗幕の向こうにさっと隠れたかのごとく姿は視界から忽然と消えた。虚を突かれ、思わず構えを解いて見回す。水を浴びたように汗が流れ落ちていく。


 まだ、いる。荒い呼吸をしずめようとなるべく息を長く吐いた。闇の向こうで微かにくぐもった音がする。肉の上から骨を砕く時のような。

 天波はゆっくりと屈み、闇一色の中空を睨み据え、体勢を低めたままひたすら自身の息を殺した。ごうん、と低く、鳩尾みぞおちにずんと沈む、



(…………かねの音…………)



 びりびりと空気の震動を感じるままにひたすら息を止めていた。やがて、ただならぬ気配は現れた時と同じように突如霧散して消失した。


「――――っ…………‼」


 やっとのことで息を吐き出し激しくせながら見回す。もう周囲は何の変哲もない暗がりとなっており、動くものも自分以外何も無かった。

 蠢く影は完全に消え去ったが、李酉さえ跡形もなく消えた。警戒を解かないままじりじりと後退じさり、洞穴の焚き火の燃え跡まで戻る。びっしょりと濡れた顔を荒く拭ってようやく力が抜けて座り込んだ。

 いまだ神経は逆立っている。岩壁にぴったりと背を寄せ、剣を抱き込んだ。震えてかじかむ手を揉みながら、真っ暗で孤独な一晩をうたた寝もできずに明かした。



 結局、朝が来ても李酉は戻らず、装備品のひとつすら見つからなかった。他の仲間から来るはずの鳥もいまだ羽音さえない。天波は谷へ降りた初日と変わらぬ様相の不気味な森を見渡した。昨晩、李酉は何かと戦っていた。そのあたりを検分するが、やはり何の痕跡も見つけられない。

 どうする、と悩んだ。一度崖上へ戻るべきか。あのおぞましい気は間違いなく今まで感じたことのないもの、おそらく――ほぼ絶対に、麅鴞だ。やはりいたのだ。

 会敵はしたがこちらを攻撃もせずにすぐ去ったのはなぜなのか。もしかすれば、と考えたくない疑念が浮かぶ。

 私を生かしたのは、もしや、より獲物の多い場所へ案内させようとしているのではないか。李酉だけを殺し恐怖を植え付け、逃げ帰るのを待っている?いや、奴は受験者の遺体を崖へ上げて積んだ。登り方が分からないわけでも、人の多いところへ行けないわけでもない。

 なら、これは…………。


もてあそんでいる、ということか?」


 口に出してみて、これほどしっくりと来るとは思いもよらず渋面をつくった。

 よく考えれば試験に挑んだのはいずれも重臣候補の能力の高い者たち。頭脳も武技も長けており獣から身を守る方法ももちろん知っていた。しかしそのほとんど全てがここで死んだのだ。とすれば敵は彼ら以上に強く、どうにか隠れていた者をも探し当てられるほど頭が良い。


 ――――狼に、虎に、鳥になった。もしくは継ぎいだようになり、木々に擬態した。


 鈴丞の証言がよみがえる。そうして五十四人は不意打ちされ罠にめられ、あの闇に食われた。

 そして自分も今、まさにその寸前。

 ふつうに考えるならすぐに退散して助けを求めるべきだ。そう決めて探索に出たし、それが定石だ。

 だが、と眉間を揉んだ。背筋が強ばりすぎて痛い。腰を叩きながら絶壁を見上げる。あちらが遊んでいるつもりなら、登っていく途中で襲われ落とされる可能性も無きにしもあらず。むしろ無防備な状況を自分からを作り出すのは危険すぎる。もしくは上で待ち伏せているかもしれず、そうなれば敵はそのまま領地へ流れて行きはしないか?


 やはり谷から出ないほうがいい、と結論した。とはいえ玩具にされいたぶられるのをまんじりと待つのはごめんだ。何とかして危機を伝えなければならなかった。


 火口ほくちはまだ絶えていない。それでその日からまる三日、動かず苣火を焚き続けた。



 昼のあいだ少し眠り、夜はできるだけ火を盛大に燃やした。ありがたいことに季節は秋中頃、すでに枯れた落葉がたんまりあり、燃料には困らない。しかし食糧は尽きた。洞穴からなるべく離れない範囲で簡易の兎罠や鳥黐とりもちを仕掛けてなんとか飢えを凌ぐ。化物がいるせいなのかほとんど捕れはしなかったが、一日一食はなんとか確保できた。相変わらず麅鴞はやってこない。いつまたあの闇が自分を殺しにくるのかと張りつめどおしで、せっかくありついた肉も旨味など毛ほども分からないまま、こなすように噛み下した。



 四日目夕刻、極度の緊張で疲労が激しい。頭がもやついたまま収穫に見合わない時間狩りをし、少し眠ろうかと思ったところで頭上から大声が響いた。



「お嬢――――‼‼」



 聞き馴染んだ男のそれに慄然とする。慌てて見上げれば、崩れた岩棚が積み重なっているほど近くの丘から再度呼ばわる声がした。


 やがてそれを越えて急いで降りてきたのはまごうことなき下僕。


「たっ、潭凱⁉」

「お嬢!ご無事ですか⁉」


 けたのか、泥まみれになっている。駆け寄ってきてほっと安堵した表情を見せたが、顔を合わせた途端叱責してきた。

「何かあったらすぐ戻るよう探索隊には指示していたのではないのですか!なぜお嬢だけとどまっているのです⁉」

「潭凱、なぜ来た。ここは危険だ」

 だから来たんです、と拳を握った。「予定では四日間という話だったのでしょう?それが、期日を過ぎても一向に帰ってこない。これは何かあったのだと皆大騒ぎです。それで迎えに来たのです」

「まさか勝手に」

「そんなわけないでしょう。きちんと許可は得ました」

「そうか…………」

 ともかくも久方ぶりに人の声を聞いて不覚にもへたりこんだ。潭凱も慌ててしゃがむ。

「火を上げ続けて正解でした。でなきゃ居場所が分かりませんでした」

「ああ……良かった。それで、他の者たちは。李酉を見たか?」

 潭凱は顔をしかめる。「戻ってきたのは三人です。李酉どのとあと一人は姿を見ていません」

 そうか、ともう一度呟く。二人食われたのか。

「降りたのはお前だけか?」

「すぐそこの崖上で数人待機しています。さ、行きましょう」

 ともかく頷いて火を消した。敵が来ないうちに、とかす後について洞穴から離れ、岩の丘を登る。

「さあ、お嬢」

 上からやはり泥まみれの手を差し出され掴まる。なんだか、どっと疲れて彼が来てくれたことが相当に嬉しかった。しかし引っ張り揚げられているうち、同時にとんでもなく申し訳なくなってくる。

「潭凱、無理をさせたな。当主や伴當たちに請願するのは大変だったろう」

 寒いのか、不慣れな状況でやはり緊張しているのか、握った手が氷のようだ。

 潭凱は苦笑した。「無茶をする主を持つと大変です」

「世話をかける」

「帰ったらこってりお説教ですよ」

 ああ、とやっと笑い返せば、あっちです、と案内してくれる。手を繋ぎあったまま森を抜けた。


 上に迎えが待ってくれているという崖は、はじめに降りたところとは少しずれている。

「登れますか?」

「ああ。心配ない」

「何かあったら下で受け止めますので」

「頼む」

 ここまで来たらもう何がなんでも帰りたくなり、いそいそと壁に手と足を掛けた。わずかな段差に体重を乗せ、ゆっくりと進む。腰に繋いだ鎖だけが命綱、だがそれも心許ない。


 びゅうびゅうと風が吹く。ふと見下ろせば結構な高さまで来ていた。耳許で羽飾りがちりちりと揺れ、纏めていた髪がほどけてしまう。


「た……潭凱。悪いが少し休憩したい」


 頬に当たる風が今にも凍えそうに冷たい。天波はすぐ右手にある突起を示した。あそこならば二人で座れるほど休める。潭凱は頷くと素早く横を通り過ぎ、先にそこへ到着して手を伸ばした。

「さあ、お嬢」

「すまない、助か、る」

 信じられないほど力強く引っ張られ、我に返るとすっぽりと腕のなかにいた。

「お、おお。お前、疲れ知らずか、けっこうな時間登っていたのに」

「お嬢こそ、よく落ちずにここまで。下でひやひやしていました」

 舐めるな、とはにかむ。「これでも私は登虎をくぐり抜けた伴當だぞ」

 そうでした、と潭凱は優しく微笑んだ。いつになく柔らかな顔を見上げて軽く腕を叩く。

「ありがとう。もう大丈夫だ。それにしてもずっと冷えているぞ。珍しいな」

 幼い頃から彼の手はいつもぬくかったのに。按摩あんまをしてもらうのが大好きなのはそのせいもある。全身を動かして崖を踏破しようとしており、慣れている自分さえ軽く息切れして体が熱いが。

「もしかして、具合が悪いんじゃないのか。顔色も良くないし……」

 すると、ずい、とその顔が間近まで迫った。

「ど、どうした?離してくれ」

「お嬢。逃げますか。俺と一緒に」

「え……」

「逃げましょう」

 潭凱はもう一度同じ言葉を繰り返した。

 なぜ今、そんなことを言う。天波は肩に手を置いた。

「言ったはずだぞ。一族を是正していくためには、一石を投ずる者が必ず必要だと。私は逃げない。逃げたくないんだ」


 不思議そうにぱちぱちと瞬いて覗き込んでくる。


「俺はお嬢のことをひとりの女として愛していますよ」

「……は⁉なっ、何を言って」


 驚くと、すう、とあからさまに首筋を嗅がれ、天波は、ひっ、と喉を引きらせた。

「なっ、何だ、何してる⁉」

 慌てて胸板を押したが、下僕はなおもぽかんと口を半開きにしたまま。


「潭凱?」


 ぴちゃ、と水に触れた。


「え?」


 体に回された逞しい腕を見る。依然、汚れたまま泥を落としもせず――――黒い液が、ぴちょん、と肘から垂れた。

 ずるり、と落ちた。


「…………は…………?」


 何も理解できず向き直り、――即座に飛び退いた。

 黒い滂沱ぼうだの涙が男の両眼から溢れ出、瞬く間に眼球ごと溶け落ちて黒い眼窩がんかを覗かせる。

 天波はさらに離れた。


「潭凱⁉」


 もう片方の腕もべちゃりとげる。どろどろと皮膚が流れ出した。えた、どこか甘い腐臭が噴き上がる。たまらず顔を逸らしたところ、口だったはずの唇のない黒い穴が伸縮した。


「お、嬢、さま、天、波おじょ、さま、たい、ちょ、隊長、たい、狼家の、狼、ろう、天波、て、んは」


 壊れた機械人形のように聞き馴染んだ声でこちらを呼んだ。ずるずると黄ばんだ骨があらわになってゆく。天波はやっとのことで絶叫した。


「な…………な…………⁉」


 とろけた肉塊は黒く腐ったままよどみ周囲は水溜まりになる。驚愕してさらに退り、腕で鼻と口を覆う。胃酸が喉をりあがってきて吐きたくてたまらず、顎の下の痛みをなんとかなだめてさらに距離をとろうとした。しかし、すでに背後には地面が無かった。

 自分の汗が音を立てるほどつたって視界をさえぎる。頭を振り、塊を睨んだ。


「お前が、麅鴞か…………⁉」

「ニ……ク」

 ごぼごぼとおぼれるような響き。

「ス、ガタ…………カタ、チ…………」


 塊がさらに質量を感じさせないものになっていく。むく、むく、と丸くなり、言いようのない危機を感じて目を離せない。この、感じ。切迫して、今にも何かが――――。


 ぼくっ、と影からひとつ、巨大な眼玉が飛び出た。それに気を取られ呆然とした、瞬間、黒い影が八方に破裂した。


 ごぅん、と横隔膜にめり込む打鍾だしょう。宙を舞った天波は重力にともなって頭を地に向けて下降しはじめる。爆発した黒いものが一旦伸び上がり、鋭いむちのように獲物目がけて集まってくる。

 空中であることを忘れ反射で身をよじって応戦しようとしたが、さっそく最初の一本が足首に巻きついた。悲鳴を叫ぶ間もなく凄まじい勢いで釣り上げられ、宙ぶらりんになる。思考はすでに追いつかず、本能で抜剣し無我夢中で絡みついた何かを払う。束の間、揺さぶりが止まった。斬れた、と思った瞬間、再び風を切って落下した。


「あっ……ああぁああ‼‼」


 ――――死ぬ………………‼‼


 みるみる枯葉を敷き詰めた大地が近づいてくる。叩きつけられ打ち身で済む高さではなかった。そして何を覚悟する暇もなかった。


 体の力が抜けた。それだけは分かった。





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