第33話 きっとまだ知らない。それでも——

 楓さんとお母さんのさんと一緒に晩御飯を戴いてから、私は一人浴槽でゆったりしていた。


「はぁー気持ち」


 語尾がふにゃふにゃになりそう。やっと一人の時間で、思ったよりも気をつめていたらしくいつも以上にリラックス感が神経を走る。肩上まで浸かった私は先ほどの会話を思い出していた。


「ニュース代わりに音楽を一日中流してるだなんて、どんな感じなんだろう?」


 夜乃家の仕来りに興味と同時にニュースはスマホでいちいち確認するのだろうか、とくすりと笑ってしまう。


「楓さん、すごくきれいで優しい人だったなぁー。楓さんがお姉さんだったら……って!わ、私は何を考えているのよ⁉」


 確かに楓の魅力はピカイチでファッショモデルをバイトでしているというくらいに、誰よりも美しさを滾らせていた。

 それに加えて優しくて気さくで、ちょっとだけ楓さんと暮らす想像をしては、その時はお義姉さんなんじゃ、と浮かんでぶるぶると頭を振る。

 落ち着いてから普段は買わないファッション誌を買ってみようかなと思う。そこに楓さんが載っていると想像をすると嬉しくなった。


「あと、綴琉がピーマンが苦手だなんて知らなかったわ。ふふ、かわいいところもあるのね。それなのにコーヒーが飲めるのが不思議だわ」


 喫茶店や自販機では必ずブラックコーヒーを飲んでいたので、私はてっきり苦いのが好きだと思っていたけど、どうやら違うみたいだ。確か苦いの種類が違うとかなんとか。

 私はコーヒーの苦さがいけるのならピーマンでもゴーヤでもなんでもいけるんじゃないかと思う。

 因みに私は甘党なのでコーヒーはカフェオレじゃないと無理。


「綴琉が小さな時に楓さんにべったりだったなんて、想像できないわね。……ちょっと見てみたいわ」


 学校ではクールって感じで評価されているのに、まさかのシスコンだったとは誰も夢には思わない。

 それも、綴琉の姉があの夜乃楓だ。絶対王者にして女帝、女王、女神に仏。人間の才能、容姿、スペック、その他全てを超越した怪物だ。

 べったりだなんて想像できない。

 我が道を走り続ける楓と物事や関係性に達観した捻くれ者の綴琉。きっと、こんな言葉では言い表せないほどに色々なことがあったのだと思う。私にだって言えない過去も今とは性格が違う私だってある。だから想像するのはやめた。


 それに、綴琉のことを考えるたびに胸の辺りがチクチクと痛い。ギュッと絞られたみたいな苦しさが込み上げてくる。思い出す悪夢に涙ぐみそうになって、必死に太腿を抓った。

 赤くなっていく腿の後は、キスの傷跡のようで、今はそうだったならと幻想して幻滅する。


「やっぱり……なんで、まだ好き、なのよ……」


 それ以上に感じたドキドキが自覚させるのだ。彼のことをまだ好きだと。

 それがほんとうに煩わしい。苦しいだけなのに悲しいだけなのに痛いと知っているのに、胸の高まりも熱のほとぼりも意識してしまう環境や彼の背中や姿も、私を激しくビートする。パーカッションとフェイザーがオクターブを徐々に上げていき、フォルテッシモの重音がドクドクとマグマのように唸り、鬨声の様に熱情が逆流してくる。

 それは私の身体や耳に頬を赤く染め、沸騰した乙女のようだ。


「も~!なんでなのよ⁉なんでっ⁉……こんなにも意識してしまうのよ!」


 ジャバッン——っ。

 私は浴槽から飛び出してシャワーで冷水を詫びる。


「きゃっ!つめた」


 想像以上に冷たくて少し暖かいくらいのぬるま湯にした。

 曇った硝子に映る私のプロポーションは、私自身でもそんなに悪くないと思う。キュッと引き締まった腰に無駄のない裸体。くっきりと見えるデコルテにすらっとした脚。肌の色も健康的な白さで顔だって学校じゃ上位に入るはず。

 楓さんと比べればまったく歯が立たないだろうけど、同年代だったら自身を持って綺麗だと言える。

 一つ欠点があるとすれば、今だ発育最中の小堀な胸だ。胸を下から掌に載せるが、そこまでの重量はなく肉付きも普通で落胆する。


「…………綴琉は、どんな女性が好きなのかしら?やっぱり、七歌みたいな可愛らしい子が好きなのよね……」


 やがてぬるま湯は恋熱すらも冷ますように私の裸体を雫で埋めた。

 シャワーを止めて濡れそぼった鏡に映る自分は、傷だらけの虐められたかのような幼気な少女にしか見えなかった。




 お風呂から上がった私は楓さんに借りたシャツとショートパンツを着て、彼女の部屋をノックする。すると直ぐに「いいよー」と返事を返ってきたので恐る恐るとドアを開いた。

 覗き込むように部屋の中を見るとベッドに腰かけていた楓さんが「遠慮しなくていいよ」といって招いてくれたので、私は自然な姿勢になるように「お邪魔します」と言ってドアを閉めた。

 どっしりと本棚に並んだ本のジャンルは様々で統一性はなく、勉強机には大学の参考書や文献資料などが乱雑に広げられており大学生って感じがする。そんな博識学者の堅苦しいような部屋ではなく、ベッドの脇や部屋の隅や化粧台には可愛らしい小物や縫いぐるみが彩り、極めつけのエレキギターとアコースティックギターと楽譜の山が夜乃楓だと存分に主張していた。


「物多いでしょ」

「あ、じろじろ見てしまったすみません」

「いいのよ。だってこれが私の努力の証だもの」


 その言葉は誇らし気だった。迷いなく謙虚もなくはったりもなく、きっと誰にもわかってもらえない唯一の生きてきた成果と居場所なんじゃないだろうか。

 楓さんが学校や社会でどのように扱われ見られてきたのか、知らない私でも容易く間違えなく想像できる。尊敬と敬意、憧憬と羨望、諦観と確定、存在の規定と格差の隔離、嫉妬と陰口の全て。

 容易に様々な彼女を見る姿が眼に浮かび、その裏や定義の勝手な陥れや強制がどこからとも聞こえる。

 持つ者が持たざる者からどのような態度を取られるのか、それは私自身もよく知っている。

 だから、楓さんの言葉に共感した。共感と同時に私とは比にならないのだろうと、辛くなる。


「どうしてそんな顔をしているの?」


 意識が戻されはっと顔を触れどもわからない。


「どんな顔をしてましたか?」

「……とても辛そうな顔よ」

「辛そう……」

「そう、まるで私の気持ちを肩代わりしているような、そんな表情だったわ」


 私は上手く答えられなくて視線を逸らしてしまう。そんな私を見ていた楓さんは弟を見るような儚げな笑みで自分の隣を叩く。

 彼女の視線に引き寄せられるように、私は無言で楓さんの隣に腰を下ろした。

 私と同じシャンプーの香りがした。


「私は昔からかっこよく生きたかったの。だから誰にも知られないように血を吐くほど努力をして好きなことに全力で取り込んできたわ。誰も家には呼んだことのないのよ。綴琉以外にレイナちゃんが始めてなの」


 その特別に光栄の極みと頭を下げて膝間付けばよかったのだろうか。それとも至極恐縮でございますと私の一番の宝物でも授ければいいだろうか。

 けれど、女神が願うものはそんな悪銭なことじゃない。もっときっと普通なことなんだ。

 私にできるのは楓さんの話を真剣に聞くこと、それ以外にはないような気がした。


「ほんとにただカッコよく生きたいだけに、熱を出して倒れたこともあったわ。部屋に籠りきって脱水症状になったり、運動のし過ぎでドクターストップがかかったこともあったっけ」

「そんなに頑張ってたんですね」

「馬鹿みたいでしょ。努力をいっぱいして、誰にも知られないように繕って、で無理がたかって熱出してお母さんとお父さんに心配ばっかりかけて……」


 遠く昔を浮かべる彼女の顔は穏やかだった。激しく悔いているというわけでもない。ただ、話している。そんななんでもない純粋さに川から流れてきた桃すら救えなくなる。


「それでも諦めたくなくて、弟に自慢の姉だって見せつけたくて……だから今の私はいるの。これまでの私もいる。その原点がここなの。天才なんかじゃないわ。女神ほど綺麗じゃないし、天使みたいに優しくもない。私は私、夜乃楓なのよ」


 誇らし気に胸を張ったその凛々しさや凄然とたピンと伸ばした姿勢が彼女の意志であり、決意の成せる自分自身の辿り着いた姿なのだろう。

 だから、私はもっとずっと惚れた。もっとずっと楓さんのことが好きになった。


「私はそれでも、楓さんに憧れます。楓さんが好きです。……まだ何時間しか話していませんけど……」

「別に時間は重要じゃないわ。だって、そう言ってくれるレイナちゃんを私も好きだからね」

「楓さん!」


 彼女の優美な微笑みがしがらみすらも全て解かすように、私の喉の奥は痙攣と噴火に荒れ狂った。


「……それはあの子も同じなの」

「あの子……綴琉のことですか?」

「そうよ。あの子は私よりもずっと弱いから色々なことと闘ってるの」

「闘ってる……」

「でも、弱いから胸の内を隠してしまうの。最近は少しだけマシになってきたと思ったら、今日でしょ。きっと、レイナちゃんも私も知らない綴琉がいるわ。それでも……貴女は関わり続けられる?」


 私は巻き戻しをされたかのようにあの日に戻っていく。

 初めて出逢った体育祭の日。一緒に生きてくれると言った彼を信じて、最高の青春を送るんだと私は始めで心が楽になった。

 それからの日々は楽しくて大変で本音しか言わないから喧嘩もしたけど、ずっと心地よかった。互いに受け止め合える関係性が嬉しくて、私を許容してくれる彼に惹かれていった。

 でも、悪夢はやって来た。彼の本性を垣間見た。

 欲望のままに私を拒絶して侮辱する彼を知った。

 私とは違う生き方を目指していると心が痛くなった。

 彼の心が私じゃない誰かに向かっていて、そのために切り擦れる醜さを知った。

 それでも……私から逃げる弱さを見た。私を傷つけたことを罪として迷い続ける誠実さに息が詰まった。

 きっとまだ何を知らない。私は綴琉の口から何も訊いていない。七歌の心の内を訊いた今、もう彼に偏見はほとんどない。


「だから、大丈夫」


 私はほとんど無意識にそう呟いた。けれど偽りない真実で、それが答えだった。


「私はまだ、自分の気持ちを受け入れたり、理解したりできてないけれど……それでも、綴琉を信じたい!綴琉がどんな悩みを抱えていても、私じゃどうしようもなくても……それでも話をしたいの!ちゃんと話し合ってわかりあって、それでちゃんと一緒に生きたいから!」

「…………」


 楓は思った。

 ——嗚呼、なんて強い女の子なのだろう、と。


 私は愚直にしかきっと生きられない。

 そこまでコミュニケーション能力が高いわけでもないし、誰とでも分け隔てなく接することなんで無理だ。

 私は私が一緒にいたいと、これからも友達や親友や恋人でいたいと思える人にしか、こんなことは言えない。私は言葉にするしかできない。

 綴琉や七歌が言葉だけじゃ伝えきれないと思って、言葉じゃなくて音楽を奏でいることを知った。でも、私の音楽はみんなに届ける希望でありたい。奇跡を信じて明日を望めるような、顔を上げられるような音楽でありたい。

 だから、私はそこにいる誰かに話しをする。

 だってそれは二人だけの、誰かとだけの秘密で歩み寄りだから。


 地盤の緩んだ大地から発芽する。自分を支えてくれるような地盤じゃない。水も豊富過ぎるし発芽を食べにくる虫もいる。

 それでも、そんな環境であっても芽吹く。発芽は茎を伸ばし蕾をつけて花を咲かせる。

 別に緩んだ地盤じゃなくてもコンクリートでも樹々の隙間でも屋根の上でも本の中からでもいい。

 私はそんなふうになりたいんじゃないかな。

 強く正しく俯かないで在れるように。


「レイナちゃんは……綴琉のことが好きなのね」

「うっ~~!」


 思わず悲鳴に近いような羞恥の産声を上げてしまい、楓さんはくすくすと口元を抑えた。


「な、なんで……そう思ったんですか……?」

「うん?だって、綴琉を思う気持ちが恋する乙女の情熱なんだもん」

「~~~っ!な、ななななっ⁉べ、別にそんなに情熱的になんて」

「目は口程に物を言う。その通りだったわ。でも、レイナちゃんの口も目以上に語ってたわよ」

「うそー⁉」


 信じられなくてきっと真っ赤に染まっているだろう頬に両手で囲む。頬が熱くて手が火傷してしまいそうだ。

 楓さんは意地悪気ににやりと口角を上げて私の頭を撫でてくる。


「わふぅ」

「も~う!かわいすぎる‼綴琉になんてもったいない!いっそ、私と結婚しない」

「え⁉し、ししししないですー!てか、綴琉ともその……け、……んとか……ぅぅぅぅ~⁉」


 一度想像してしまえば、それは麻薬のような幸せを仄めかせ、私の精神を貪る勢いでバラ色に染めてくる。

 けれど、直ぐに現実に戻ってはあの淡く夢見るような幻想に茹でタコ状態へとなった。


(け、結婚……なんて、そんなのまだまだだし、それに、付き合ってもいないのよ。ていうか、私なにを考えて⁉いや、そりゃあ、綴琉と、その……つ、付き合いたい気持ちは……ある、けど……)


 いったい自分は何を考えているんだとばかりに何度も何度もかかしがシーソーする勢いで、頭を振った。

 そんな私を見つめる彼女の表情は幸せのそれであったのだと、きっと彼女自身だけが知っている。

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