第28話 愚痴を吐くことを恐れた優しすぎる少年

 放課後。直ぐに詠美先生の所に行きたい俺だったが、なぜか今日に限って掃除当番に任命させられ、他に選ばれた人は気づいた時には自然消滅ならぬサボったらしい。

 よって教室の掃除を俺が一人でやる羽目になった。

 何だか今日はついていない。軽く愚痴りたくなるが、相手もいないのにぐちぐち言っていると心底くだらなく思える。


 愚痴といった話題は一つのコミュニケーションであり、この手の話題は共感できる部分が多くよく使われている。

 人間は相手を認めるよりも批判するほうが得意だ。

 誰かが自分よりも上の存在だと定義すれば、自分が相手よりも下の存在と認めることに他ならない。誰しも弱くなんてありたくない。蹴り落としてでも、利己を振り撒いてでも、誰かを利用してでも、自分が特するように、存在意義を力をカーストの差で見比べ、認識するために、人間は批判する。

 だから、愚痴も悪口も嫌味も罵倒も、そんなものは幾らでも出てきて、だから弱肉強食と呼ばれるのだ。

 これも一つ社会の法則。そう思えば、それら全てが馬鹿らしく思えてくる。

 結局は、自分がそれよりも劣っているから批判するのだ。負けているから、勝てないから、評判を下げる。

 俺も変わらない。社会をゴミと罵り、人間は卑劣で醜悪だと吐き出している。

 ああ、その通りであり、それもまた勝つことができないからだろう。

 だから、一つ、自分を嘲笑することだけが許されるんだと思う。自分を卑下して自分を貶めて自分を罵ることだけが、愚痴などというものの裏返しではないだろうか。


「なんて、考えた所で、人間はそう簡単に変われないだろうが」


 愚痴が浅ましいと思っていても、やはりストレス発散で愚痴ってしまう。

 悪口が自分を安心させる。貶める行為が自分の地位を守ってくれる。卑下する心が諫めてくれる。

 結局は結局で、どうしたいかだけだと思う。

 大きくため息を吐いて、さっさと掃除を終わらせようと、塵取りを持ってしゃがもうとしたその時、ガラガラと前方のドアが開き和希が姿を現した。


「あれ?まだ残ってたのか?」

「あーうん。もう掃除終わる所だけどな」

「なら、俺が掃いてやるよ」

「頼む」

「おうよ」


 素直に申し出を受け入れ、片手に持っていた箒を渡してしゃがみ込む。和希は一か所に集めてあったゴミを更に小さく寄せていく。


「そう言えば、携帯は返してもらったのか?」


 押し出されるゴミが塵取りの中に収まる。


「まだ。掃除終わったら行く。……職員室でよかったっけ?」

「ああ、それか国語準備室じゃねー」

「国語準備室?」


 聞きなれない教室の名前と、なぜ国語?と首を傾げれば、ゴミを全て塵取りに入れ終えた和希は答える。


「詠美先生は文芸部の顧問なんだよ。今は確か……一人か二人だけが所属しているとか。で、そこでよく作業してるって他の先生が言ってたな」

「へー。それどこ?」

「別塔の二階。美術室とかの辺りだ」

「あーあそこな」


 まだ入学して三ヶ月しか経っていないので、校舎の隅々までまったく把握できていない。

 選択科目で美術を取っているのだけなので、別塔のこともよくわかっていないが、三階へ上る時にそれらしき部屋を見たような記憶だけがある。

 二階は図書室と書道部の部屋があった気がする。

 そんな曖昧な記憶であれ、情報通の和希が申すなら大丈夫だろう。

 集め終えたゴミを飛ばさないように慎重に立ち上がり、ゴミ箱に捨てた。


「そう言えば、お前は何か用事があったんじゃないのか?」

「おーそうだった。実は美玖みくに数学の宿題忘れたから取ってきてッてパシラれてんの」

「わざわざ櫻井さくらいのためにねー」

「昔からあいつには逆らえねーからな」


 そう苦笑いする和希だが、どこか安らぎを感じる。

 櫻井美玖は和希の幼馴染であり、俺と冬斗と同じ中学出身だ。

 気の強い子で何かと周りに突っかかることが多いが、それは素直になれない裏返しだと俺らは知っている。

 パチリとした大きな奥二重の眼に整った顔立ち、耳上でサイドテールにしていてバスケ部に所属している。彼女の髪は陽に当たると焦げ茶色になり、それを弄られることが多く、余計に強く見せようと意地を張る性格になった。

 そんな彼女に相も変わらず接し続けているのが和希だ。和希は「逆らえない」と言っているが、本当の所はほっとけないのだろう。

 サッカーを諦めて無様に干からびた俺を、今だ友達だと言ってくれる彼の純粋な心があるから、だから美玖を一人にしない。俺はその心根にひどく憧れてしまう。


「なんだよ、その眼……」

「優しいなって思っただけだ」

「だしょ!俺実はめっちゃ優しいんだよ!」

「それを自分で言うからモテないんだろ」

「ぐっ!正論をつくなよ……笑えねーだろ」


 そう言いながらも笑う彼を心から眩しく尊敬の念を抱く。そんな彼に俺は励まされてきたのだから。

 美玖の机からノートを取り終えた和希は教室を出て行こうとして、ふと足を止め振り返った。


「どうした?」


 何か忘れ物でもしたのか。けれど、和希の表情はどこか揺れていた。


「綴琉はさ……サッカーを諦めたんだろ」


 その話題に一瞬、言葉がつまりかけるが、慌てて「あ、ああ」と声にだけはした。

 きっと少しの戸惑いも彼には冬斗と同然に見抜かれていて、それでもその話を続けるのは真剣以外にどんな心意気があるのか、今の俺にはわからない。


「あのさ……サッカーを辞めたら……どんな世界が見えるんだ?」


 どんな世界……そんなの、灰色の世界だ。それが俺の答えである。

 だけれど、これは俺の問題であり、和希の問題とはなんら繋がりはない。

 それに、このことを話すのは躊躇してしまう。灰色と言ってしまった時、きっと歯止めがきかなくなりそうだから。

 俺は嘘が嫌いで偽りたくない。だけど、今の和希と冬斗との関係を壊したくないと、心のどこかで願っている。酷く傲慢的で恣意的な願望。自分一人が思うままに生きているだけの、身勝手な作為。

 だから、俺は誤魔化す。嘘ではない。偽ってもいない。本音で言える範囲で誤魔化す。


「俺には静かに思えた」

「静か……?」


 訊き返す和希に今一度頷く。


「急に熱が冷めた感じだったと思う。今までサッカーのことばっかり考えてたのに、それをしなくなったらそれ以外のことを考えて、でもそれはサッカーみたいに情熱があるわけじゃない。だから、なんていうか静かだった。硝子一枚挟んだ向こう側でいるような感じ」


 実際は静かを通り越して虚無の域だったが、自分の言葉に異議はない。そうであったと思うし、硝子を強化ガラスにして茨を撒きつけたのは俺だったというだけ。

 心根の壁を俺が作った。そこだけに違いがあり、それ以上は同じだ。

 熱意があったサッカーを辞めた時、冷めていった情は悲しかった。それは静かに環境を包み、虚無に脳髄を奪った。

 そんな過去の情景が遡ってきそうで、直ぐに首を振って和希を見れば、彼は抜け殻のような表情で「そうか……」と零した。

 その一言には大切な色々が混ざっている気がして、落ち着かない。


「大丈夫か?」


 そう問えば、はっとした様子の和希は慌てて作り笑いを張り付ける。


「おう!ちょっと、お前がみた世界を知りたくてな」

「本当に、それだけか……?」


 本当は引き下がりたいが、俺と変わらず友達でいてくれる彼の力になりたいと思うのは、烏滸がましいことだろうか。今更の偽善だと嗤われるだろうか。

 けれど、和希は苦しそうな顔で何度も口を開けかければ詰まった言葉の圧迫に口を閉ざしてしまう。


「…………ごめんな」

「………謝んな」


 そう言うと、和希は僅かに笑って教室を出て行った。

 彼のその後ろ姿がとっても小さく見えて、なんだか道に迷っている少年だと、俺の胸は心配と不安に駆られた。

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