第25話 ……

 夜明けはまだ来ない。今はまだ来ることはない。

 いつかの朝焼けはきっとかけがえのない奇蹟だろう。

 ビートの唸りが讃美歌に似たポップスを海のように広く静かに流れていく。

 シンセサイザーからか細く海原を旅する鳥のような葉は夢には為り切れない。

 朝日が昇るというのに澄み切れない煩わしくも綺麗な海音だと、彼は目を瞑った。自分が拙く奏でる音にベースの旋律もドラムスのリズムもギターのアップも意味には為り切れない。



 ——この音に意味がないからだ。



 ただ風が微弱に小言するように、ただ海月が光を失いながら零れたスライムのように、ただ凝視した教室が時空に歪んで扇風機の回転に酔うように、ただそれだけの異常な日常でしかなかった。


 異常なのは彼の音だから。

 日常なのには何者にもなれていないから。


 妬み阻みイラつき卑下に拒み殺し、殺した。

 愛他的なんて欠片もない。

 いつだって自分勝手で利己的で妄執の程に恣意的。

 自己満足を自己顕示欲を自己見解を満たしたいだけ。


 ——彼は醜き人間。


 酷く貴賎的で傲然的な愚かで浅ましい音楽家。

 無様で不敬で号外な音色に浸す。躍動的、絶望的、羨望的、傲慢的、阻害的、換算的。

 彼の音楽は音になり切れない。ノイズと同じ。


 だから、今宵の音だけが特別に思えた。


 誰も知らない十八歳の途切れた天才。

 彼を唯一知っているのは、抗うことを生き様とした桜のような彼女だけ。


 濁流の如く流れ込んでくる風が楽譜の山を散乱させる。

 立てかけてあるエレキギターの弦が五弦開放のレが吹雪に切なく絶え絶えに泣くリスの鳴き声。

 本棚に乱雑に並べてあった音楽本がぼとぼとと床に落ちて、ページが時空を遡るが如くパラパラと捲れていく。

 楽譜が舞い上がる部屋の中、伸びに伸び放題の髪の毛も舞い上がる。隠れていた彼の瞳が銀光さながらに月光の丘に立つ狼の如く鋭さで、始まる街に、世界に穿った。

 首筋についた錆のような傷跡がパーカーの隙間から見え隠れする。そんな少年は吐き捨てるように呟いた。


「…………こんな世界、滅びればいい」


 その声音はガラス細工のような繊細さの中に、黒曜石の黒質と硬質が混じった死に逝くノクターンの余韻。


「音ですら満たせない世界など、何にも見出せない生み出せない与えない音楽など——消えてしまえ。

 ……それでも、お前が抗うというのなら、俺に訓えてくれ。

 ——音楽の、躍動する何かからの可能性を」


 静謐な空気は蒼い世界を包み込む。

 彼もまた夜明けより蒼の世界に生きる者であり、しかし、そこででも無為に青を呑む音楽家でもあった。

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