第16話 せめて彼女だけには向き合え

 何の変哲のない、もっと言えば物がほとんどない家の中は寒々しく、生きている温もりがあまりに感じられない。飲み物を持って行くというルナにお手伝いを申し出て、リビングに入らせてもらったが、その感想がそれだ。

 味気がない。無味無臭のよう。限りなく灰色に近い灰雪が彩を塗った世界は、海のない白い砂浜に似ている。夏だというのに気温の低い灰色の空。

 ソファーにテーブル、テレビは在れども少しばかり埃を被っている。キッチンは使っているかそこだけは生活感が滲んでいた。


「この家はわたし一人でほとんど住んでるみたいな感じだから、台所以外あまり使わないの」

「……じゃあ、ご飯はルナが作ってるの?」

「うん。って言っても昼くらいだけどね」


 テキパキと冷蔵庫からお茶を取り出してカップに注ぎ、もてなす御菓子などを探しているようだが、「お菓子はあまり食べない」と伝えると「わたしが食べたいの。あと、座って待ってて。作業じゃないからここでもいいでしょ?」とのこと。


 確かに、作業部屋はきっとルナの部屋という認識で間違いないだろう。なら、ここで話すことに異議はない。誰であれ女性の部屋と言うのは秘蔵のような世界だ。男性がむやみやたらに脚を踏み入れてはいけない絶対領域。最早神域といっても過言ではないし、遺憾でもないだろう。

 トレーに乗って運ばれてきたカップを一つ俺に、クッキーの乗った皿を真ん中に置いて向かい側の椅子に座った。夏はじめの身体はお茶を見るだけで脳髄が急に求めてくる。一息ついてルナがクッキーを一つ頬張ってから今日の議論が始まった。


「それで今日はどんなことをするんだっけ?」

「そこは忘れるなよ……まー詳しくは決まってないけど……自己紹介じゃないのか?」

「そうだったね。これから一緒に音楽活動をするんだから、お互いのことを知って親睦は深めないとだね」


 もう一つクッキーを口に入れたルナの頬は美味しそうに緩んでいた。なので仕方なく俺から始めるとする。


「まずは、名前からか?……夜乃綴琉よるのつづる芦田あしだ高校一年。家族は母、父、姉の楓と俺の四人。駅から西の大通りを行って裏通りの所に家はある」

「夜乃って言うんだ。やっぱり私と同じ年」

「じゃあ、ルナも十五?」

「ううん。私の誕生日は四月十八日だから十六だよ。綴琉はいつ?」

「俺は九月十日」


 改めて自分の事を話すのはどこか落ち着かないが、ルナとの親密度が上がり、いい作品が出来るなら惜しむことはない。寧ろ、彼女の誕生日を知れたことを嬉しく思っていもいいだろう。次はルナの番だと思っていると、ルナは訊ねる。


「家族はどんな感じなの?」

「か、家族?」


 声が詰まった俺の?にルナは頷く。


「そう。何でも訊いていいんでしょ?」


 確かにそんなことを言ったかもーとあやふやに思い出す。

 それに自分の家族関係など話さないで、ルナの関係を訊くなど間違っているもの。これは合理的な判断と見ていい。少し考えてから言葉にする。


「父は凄く気まぐれな人で、週末とかふらりといなくなることが多くて、母はのんびりとした性格。姉さんの楓は宇宙人」

「……訊いといてあれだけど……どうなってるの?」


 それは俺も思う。今までの人生を振り返って見ても、彼女たちを一言で説明するとすれば自由人。もしくは宇宙人。そのくらい皆が皆変わっているのだ。


「家は基本放任主義で、父さんは写真家で外国に行ったりもしてるし、母さんは普通に主婦だけど音楽とゲーム好き。で、姉さんが完璧超人で才色兼備の空前絶後。俺が学んできたのは全部姉さんから受け継いだことだな」

「へー。音楽はお母さんからなの?」

「そうだと思う。毎日、テレビのニュースじゃなくて音楽が流れてるのが普通だったからな。姉さんが母さんに影響受けて、俺が姉さんに影響を受けたんだったかな?あんまり覚えてないな」


 幼き頃から朝起きればニュースが電波するテレビではなく、CDプレイヤーやパソコンなどのインターネットから流れる音楽が充満していた。

 だから、その日あった出来事も天気の良し悪しも、政治の云ぬも知りようがなかった。それでも、音楽情報や番組だけは律義に流し、母は常にライブやフェスに行っていた。だから、楓と二人っきりの夜や週末が多かったし、それで家事全般は仕込まれた。

 楓はライブやフェスにはあまり行かない人だったが、一番最初に音楽に興味を持ったのは楓で、俺にその魅力を伝授してきたのも楓。今も音楽のために心理学を受講している奇天烈ぶりはあるので、本当に父も母も姉も自由人だ。


「じゃあ、音楽が好きなんだ」

「そうだな。……俺は演奏よりも聴くほうが好きなタイプ。だから、今まで楽器とかほとんど触ってこなかったけど、これから念のために腕を磨かないと、とは思ってる」

「うん。そうだね。綴琉には期待してるよ!」


 はにかむルナだが、むしゃむしゃとクッキーを口に掘り込まれているので不思議な感覚に陥ることはない。咀嚼し終えたルナはお茶を啜って喉を潤した。


「じゃあ、私ね」


 そう言って、胸に右手を当てて自己紹介を始める。その所作一つでルナの纏う空気が変化したように感じた。


「わたしの名前は月森七歌つきもりなのか。苗字から取ってハンドルネームはルナ。因みにムーンじゃなくてルナにしたのは、そっちの方がカッコイイし綺麗だから!」

「次いでに神様の名前だけど……」

「それで、誕生日は言ったから……好きな食べ物はリンゴと甘い物で、嫌いな食べ物はバナナと納豆。好きなアーティストは『Arrivederci(アリヴェデルチ)』。動物は猫派で狐が好き。映画は——」

「ちょっと待ってー!」


 どんどん溢れんばかりの川の氾濫の如くの情報に制止の一声にぽつんと七歌は口を止める。そして、自分の行いを改めたのか少しばかり羞恥で顔を紅くして両手で塞いだ。


「あ、その!わたし……!」

「別にそれはいい。ウザイとかそんなんじゃなくて、俺の処理が追い付かないってだけ」


 緊張のせいだろけど、典型的な早口になるが発動しているよう。耳横の髪を触る癖は緊張の時に多い。それくらいは見てきた俺だから、ルナもまた緊張しているんだと知る。だから、一度整える時間を与え、互いに配慮していくのもいい関係性だろう。

 どこかで誰かが呟く。——始めからそうしていれば、傷つけることもなかったのにな。

 ドロドロとしたベノムをバレないように吸い込んだ大量の酸素で浄化する。気づかないふり、認めない諦め、拒む選択。胸の奥が歪んでいくことを俺は知らない。

 羞恥の赤から顔を上げたルナは恥ずかしそうに、へへへっと苦笑い。


「わたし緊張すると早口になっちゃうみたいだね」

「後、髪を弄る癖もあるよ」

「うそ⁉」


 俺が指を刺した所を見ると確かに今でも指が無意識に触れている。咄嗟に引っ込めたが手遅れ。また苦く笑うルナこと七歌に俺も釣られてほろ苦い顔をした。


「もしかして、クッキーを沢山食べてたのも緊張を解すためとか?」


 何となく浮かんだ疑問だが、ルナは「うん?それは食べたかったからだよ」との事らしい。本当に甘い物が好きみたいだ。俺はクッキーを食べてないので甘いかは知らないけど、お菓子が好きとかは当てはまりそう。彼女の情報を復習しながら質問を考えて。


「じゃあ、呼び方はどうしたらいい?」

「ルナか七歌ってこと?」

「そうそう。コードネームとホントの名前、どっちがいいのかなって思って」


 すると、彼女はう~んと腕を組んで悩み始めて数秒で仰いでいた顔を元に戻し、俺をみた。少し瑠璃がかった瞳を多分初めて知った。


「活動中はルナで、プライベートは七歌にしよ」

「わかった。じゃあ、今はルナにしておく」


 一応活動への打ち合わせでるので、コードネームで呼ぶことを決めた。

 それは内心、女性の名前を直ぐに呼ぶのに度胸がなかったから。主にそれが大きい。そんな俺の心情を知ってか知らずか、不敵に笑ったように見えたのは気のせいではないらしい。

 前に乗り出したルナの垂れる髪も鎖骨の先までもが見える胸元も、より一層大きく見える宝石のような瞳に長いまつ毛と整った顔立ちに綺麗な鼻筋。彼女という美貌の黄金比が今までにない角度によって気づかされる。そして、紅い唇が動いた。


「わたしの名前呼んで見てよ」

「は?」


 まだ理解できていない俺にルナはもう一度言う。


「わたしの名前を呼んでくれない」


 雑踏を水槽で魚としたような、静けさを保つ水中の魚たちのように、俺の時は流れる。

 彼女を見て、見て、みて、気づく。

 これは恋でも愛でも友情でもない。そう、夜の中の関係性。だから、戸惑うなど変なのだ。レイナでさえ、直ぐに名前を呼ぶことが出来た。彼女以上の関係性を築いていくルナの名前を恥ずかしくて呼べないなど、荒唐無稽。バカバカしいことこの上ない。

 だから冷静に落ち着いて、水槽から身の乗り出した。水面を煌めかせる蛍光になど見向きもせずに、ただ流れる音楽に身を任せて呼べばいい。確かめるルナの名を、言の葉に乗せた。



「——七歌」



 三音だけは夏の夜空の夕暮れに、ストリートから聞こえてくる音を無に、この家の中を停滞させたような、はたまた動き駆けたような沈黙に包まれる特別だった。見つめ続ける七歌は俺を見つめて、見つめて、見つめて…………嬉しそうに綻んだ。


「……え?」


 軽く驚愕する俺に七歌は述べる。


「嬉しい。……誰でもないわたしを知ってくれる君が呼んでくれて……!」


 嗚呼、そろそろ知らないといけないのだ。きっと逃げていた真実と特別に現実を受け入れるために。

 でも、その前に喜怒哀楽の喜楽の七歌の名前をもう一度呼んだ。儚い彼女の名を口に弾ませた。


「……七歌」

「なに?」

「少しだけでも……聴かせてくれないか?」

「……いいよ。私の過去うたを聴かせてあげる」


 眩しい夕暮れはようやく、俺たちの生きる夜へと星を輝かせた。街の灯りで見えることのない星の輝きを。

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