2.スパイになるのも楽じゃない

 スパイになる事を了承したその日に私はモラード男爵の屋敷に連れ帰られ男爵の奥様にポイと預けられた。詳しい説明はしてあるのだろうか。


 モラード男爵夫人は男爵と同年代のおそらく40代。少しやせ気味で背は高め。私も結構高い方だが同じくらいある。私の事を足先から頭の上まで見てフルフルと首を振った。


「まぁ、まず湯浴みからかしらね」


 という訳で、男爵家侍女に手伝ってもらって生まれて初めて風呂に入るところから私のスパイ教育はスタートした。


 奥様の若い頃のドレスだというドレスを何着か貰い、いらない宝飾品をお借りして侍女の手を借りて身に付ける。こんな豪華装備を身に付けた事などある訳なく無意識に手が震えた。化粧までされた私を見て奥様は「あら?」と声を出した。


「それなりに見えるじゃない。お化粧は偉大ね」


 見た目にダメを出されないで良かった。確かに自分で姿見を見ても「誰だこいつ?」と思っちゃうくらい化けている。いつもは乱暴に縛るだけの赤茶の髪はきれいに結われて上げられているし、水色の目はいつもよりぱっちり。まぁ、貴族令嬢まともに観察した事が無いので男爵令嬢に見えるのかは分からないけど。


 さて令嬢に擬態するための教育が始まったのだがこれがもう大変だった。何しろ歩き出し方からダメが出るのだ。男爵夫人は私が何をやってもそれは違うこうしなさい。あれは違うどうしなさいと延々と修正を入れてくる。歩き方程度ならまだ良い。食事のマナーに関しては椅子への近付き方からダメが出て食事にありつくまでに空腹で倒れそうになった。


 立ち振る舞い、言葉遣いと並行して社交に必須だというダンス、楽器まで教わる。無茶にもほどがある。更に「自分の名前くらい書けなきゃまずい」という事で簡単な読み書き。目的からして貴族と会話が出来なきゃ困るという事で話術。カストラール帝国の事やフレブラント王国の基礎知識。持ち込む商品の知識も勉強する必要があった。


 正直言って寝る間も無いんですけど?私の幸福公務員生活を返して下さい。とはいえ食事は流石に美味しいし(マナーは骨が折れるけど)、お風呂は気持ち良いし、ベッドもびっくりするくらいフワフワ。お嬢様生活を全く楽しまなかったと言ったら噓になる。男爵夫人は慣れたら気の良い方で、マナー講師の役目があるので甘くは無かったが親しく接してくれた。私がカストラール帝国に旅立つ日には涙を流して別れを惜しんでくれた程だった。


 そうして二週間の詰め込み教育を受けた後、私はモラード男爵とその偽奥様、偽お兄様と共にカストラール帝国へと向かった。



 ちなみにモラード男爵はモーガン・エルマ・シュトラウス男爵という事になっている。当然私も偽名を授かった。イルミーレ・ナスターシャ・シュトラウス。大層な名前だが由来は大陸の神話に出てくる女神からで、貴族女性としては比較的ありふれた名前の組み合わせらしい。


 同行するお母様、役の女性は貴族の未亡人で軍で働いている人だった(軍で働いている女性の半分はそういう未亡人らしい)。40代の中肉中背、髪の色はくすんだ金色。にこやかな女性で、私の事をどこかのお嬢様と勘違いしているらしくフランクに接してくれた。偽名はエレメラ・ハウン・シュトラウス。本名は知らない。私も名乗らなかった。


 もう一人は軍の騎士の一人で、身分は騎士の息子。私のお兄様役。こげ茶色の髪を短く切ったやはり中肉中背。偽名はカルステン・エラン・シュトラウス。この人も明るく私に優しく接してくれる人でほっとした。


 この四人で馬車に乗り、ガタゴト揺られながらカストラール帝国の帝都まで向かった。馬車は3台あるのだが後二台は商人を装うための商品で一杯なのだ。他に護衛の騎士が二人、雇った侍女が二人。騎士は御者を兼ねている。侍女は荷物の隙間に乗っている。


 目的地までは野宿したり休養のために宿に丸一日泊まったりしながら10日も掛かる。男爵やお母様はヘロヘロにくたびれていたが、騎士として鍛えているお兄様と、使用人生活で床に寝るなど当たり前の生活を送ってきている私は特に何と言うことも無かった。



 こうしてやってきたカストラール帝国帝都ヴァルシュバール。いかめしい城壁に囲まれた壮麗な都市だった。遠くから見ても城壁の端が見えないくらい広い。良くは分からないが、ワクラ王国の王都より遥かに大きい事は分かる。


 巨大な門をくぐり抜け街中に入る。道幅は広く開放的だが立ち並ぶ建物は最低でも3階建て。城壁内に意外と高低差があるようで、遠くに丘が幾つか見えた。馬車の窓から見える範囲でも人通りは多く人々の表情は明るい。


 ちなみに、カストラール帝国に入国してからこの帝都に至るまで、主要道路は舗装されていた。王国内はガタガタ酷く揺れていたのが帝都に入った途端に静かになったのでビックリしたものだ。この帝都に至ってはほんの小さな路地まで舗装してあった。王都で舗装されているのは王宮の周辺の貴族街だけだ。不思議なのは街中にゴミや汚物が落ちていない事だったが、後で聞いたところによれば路上を清掃する仕事があるのと、汚物は下水道とやらに流しているのだそうだ。


 私達は宿を取り、お父様は早速商人を通して帝国の貴族たちに売り込みを始めた。フレブラント王国の商品は帝国まであまり入って来ないため興味を持つ帝国貴族は多いらしい。そのせいか程なく貴族と渡りが付いた。


 普通の商人ならその貴族の家に品物を持って行くだけだが、貴族商人の場合は品物を販売するのも社交の一環だ。茶会、晩餐会、舞踏会などを開催し、その中で品物を紹介、販売する。私達の場合は主催は渡りが付いた帝国貴族の男爵にしてもらい主催お礼金を払った。


 最初の販売会は舞踏会である。同時にそれは私イルミーレ・ナスターシャ・シュトラウス男爵令嬢の社交界デビューでもある。私はモラード男爵の奥様からお借りしてきたドレスと宝飾品を装備し、侍女に化粧をしてもらい気合いを入れた。


 出陣前に偽家族で打ち合わせを行う。我々はカストラール帝国に数ヶ月滞在予定でその間になるべく多くの社交をこなし情報収集を行うつもりだった。男爵は貴族の当主、お母様は貴族の奥様、お兄様はご令息やご令嬢、私もご令嬢やご令息と誼を結び、カストラール帝国の内情の情報を集めるのだ。具体的には、貴族社会の情勢や帝国の政治的方針、帝国軍の規模や編成、人材、重要視している方針は何かなど。その他何でも良いから得た情報は細大漏らさず報告するようにと言われた。


 もっとも男爵は一人だけ軍人ではない私にはあまり期待していないらしく「君は大人しくして、くれぐれもボロを出さ無いように」と言われた。分かってますとも。


 つまるところ私はおまけ、賑やかしらしい。まぁ、お兄様と一緒にいて笑ってれば良いでしょ。頼りにしてますよお兄様。多少気が楽になった私はエスコートしてくれる予定のお兄様の腕に手を絡めた。それを見てお兄様がぎょっとしたような顔をする。


「?何かおかしかったですか?」


「いや、おかしくは無い。そうでは無くてだな・・・」


 何だか顔を真っ赤にしてアワアワしている。


「ご緊張なさっているのは分かりますが、ほら、お父様とお母様に遅れてしまいます。行かないと」


「あ、ああ、そうか、そうだな。行かねば」


 お兄様は緊張も露わに一歩を踏み出す。あんまり緊張しないで欲しい。私に伝染するじゃないか。


 男爵の奥様に教わった事を思い出す。顔は上げ、柔らかく笑顔。男性の半歩後ろをつかず離れず。背中を伸ばし、腰が振れないように、爪先から着く様に気を付けて歩く。優雅に。慌てず、ゆったりと。気品を。


 などということを自分に言い聞かせながら歩いて行くとドアが開いた。男爵とお母様と並んでホールに入って行く。


 モラード男爵邸でダンスの練習したホールの数倍の大きさの大広間だった。天井には煌めくシャンデリアが幾つもぶら下がって、ホールの中は昼間のよう。うわ、こんなの見たこと無い。お仕えしてたお貴族様の邸宅にも無かったし、兵部省の大広間より広い。確かここも男爵邸の筈なんだけど。


 だが、ここでもの珍しげに周囲を見回したり感嘆を露わにしてはならない。奥様に散々言われた。社交の場では考えや感情をあからさまにしてはならないと。


 私は何て事ありませんよ、とただ微笑んでいたのだが、なんと男爵もお母様も驚きも露わにキョロキョロ周囲を見回している。え~?ダメじゃん。お兄様に至っては驚愕した表情を浮かべて立ち止まっている。コラコラ。私はエスコートされている手でさり気なくお兄様を引っ張った。


 後で聞く所によれば、軍務が忙しい男爵は勿論、未亡人のお母様も何年も社交界に顔を出していないのだそうだ。お兄様など実は私と同じく社交界デビューだったそうな。頼りにした私がバカだった。とにかくこれでは社交界慣れしていない田舎者丸出し。社交界が商売の場である貴族商人としては不自然過ぎるだろう。私は不信感を抱かれやしないかと冷や汗を流しながら笑顔をなんとか崩さずにいた。


 しかし主催代行の男爵様は特に怪しんだ様子も無く、私たちを大きな声でフレブラント王国から珍しい品々を携えてきた友人だと紹介してくれた。友人?まぁ、そういうことになっているのだろう。


 優雅な曲が流れる中私とお兄様は予め並べられていた私たちが持ち込んだ商品の所に行く。本当の目的は情報収集だが、名目は商品の販売だ。特にこの商品はモラード男爵がほとんど私費で揃えたらしく、売れないと中々にモラード男爵家の財政が厳しいらしい。お世話になった奥様のためにも販売の方も頑張らないと。商家で働いていたこともある私の販売スキルを見せてやる。私は密かに気合を入れた。


 もちろん、大声で売り込む訳にはいかない。商品に興味を持って近づいてくるお貴族様にそっと近づいて、挨拶や世話話をしながらさりげなく商品の悦明やおすすめをするのである。


 一人のご令嬢が宝石に興味を持ったらしい。私はお兄様の所を離れご令嬢に近づいた。


「ご機嫌よう。お嬢様。わたくしはシュトラウス男爵の娘、イルミーレと申します。わたくし共の商品に興味をもって頂いてありがとう存じます。何かお気に召すものがありまして?」


 私はドレスのスカートを軽く摘まむといわゆる淑女の礼をした。この礼の仕方で淑女の格が分かると言われ、私はモラード男爵夫人に徹底的に仕込まれた。なるべく優雅に堂々と。


 相手のお嬢様は私の礼を見て一瞬目を見張ったが、すぐに自分も礼を返した。


「わたくしはレルージュ子爵令嬢ハリウスと申します。お声を掛けて頂き恐縮ですわ。・・・そう、この白い宝石が珍しいと思いまして。なんですの?これ」


「ああ、それは真珠でございますね。暖かい海でしか手に入らないものでございますのよ」


「石なのに海にあるのですか?」


「石と言っても厳密には石では無いようでございます。貝の中からとれるそうですわ」


「まぁ、それは不思議なお話ですわね!」


 あっさりお話は盛り上がって、私はしばらくレルージュ子爵令嬢と楽しく商品トークを繰り広げ、最終的に小さな真珠一つをお買い上げいただいた。毎度あり。


 レルージュ子爵令嬢が立ち去ると数人の令嬢がそそそっと寄って来た。商品に興味はあるけど異国の商人に声を掛け辛かったのだろうか。レルージュ子爵令嬢が楽し気に話しているのを見てハードルが下がったものらしい。


 男爵とお母様、お兄様を見るとそれぞれお客様と何か話しているようだ。異国からの商人は物珍しいから話を聞きたがる人も多いのだろう。情報収集が上手く行っていると良いのだが。私は当初の予定通り令嬢たちに商品の解説やエピソードを披露し、なるべく仲良くなれるように振舞った。貴族の社交界など狭い社会だから、この先社交を行えば同じ人間と何度も会う事になる。なるべく良い関係を結べれば今回売れなくてもこの先のお買い上げが期待出来る。


 私はスパイ活動の事はすっかり忘れて令嬢に商品を売り込むことを楽しんでしまっていた。まぁ、私はあんまりスパイとしては期待されていなかったようだから良いでしょ。だって、商品が売れると嬉しいんだもの。次々と売れる商品に内心ホクホクしていると、ホールの入り口付近がざわめいた。


 私はなるべく無作法にならぬよう、そっと振り向く。するとそこに何だかキラキラしい物体が立っていた。いや、あれは人か?


 私がそう認識すると同時に私の周りにいた令嬢たちから黄色い悲鳴が上がった。


「アルステイン様だわ!まさかこの夜会にいらっしゃるなんて!」


 ほうほう。あのピカピカしたのはあるすていんさまと言うのだな。私は良く見ようと少し目を凝らそうとして、いやいや、奥様にそれは悪い癖だから治しなさいと言われたのを思い出して止める。


「こ、公爵閣下がこんな小さな夜会に?」


「どういう事だ?フレブラント王国との関係を陛下は重要視しているという事なのか?」


 そんな感じのざわめきも聞こえる。ほうほう。あの人公爵なのね。え?この夜会が小規模なの?帝国って凄いわね。閣下と陛下は違うのかな?


 私が聞き耳を立てている間に大きな歩幅でアルステイン様とやらはアッという間に近付いてきていた。私のすぐ前で足を止める。目を凝らさずに見える距離に来て私はようやくキラキラした公爵閣下の御顔を確認する事が出来た。


 やべぇ、イケメンだ。イケメンイケメンと同僚の下働きが騒いでいたのでイケメンは何の事か知っている。そう、顔が良い男がイケメンだ。


 イケメン。私が知る限り過去最高のイケメンだ。こいつはすげぇぜ。嘘くさいくらいイケメン。イケメンイケメン。いや、それしか出て来なかった。


 背は高く、女性としては長身の私より頭一つ高い。痩せているようにも見えるが肩付や立ち方はしっかりしており、かなり鍛えているだろう。姿勢も美しい。軍服と思しき黒に金糸の刺繡の入ったかっちりとした服を着ている。


 髪は短め。その色は艶のある銀で、それがシャンデリアの光を反射してキラキラしているのだ。輪郭は整い、鼻梁はシャープ。薄い唇は儀礼的な笑みを浮かべている。が、目は笑っていない。切れ長で大きな目。エメラルドグリーンの瞳が案外真面目な光を讃えて私を見下ろしていた。でも、あの瞳の光は嫌いじゃないな。


 きれいな瞳の真面目そうな公爵閣下。それが私の第一印象だった。


 いけない!見とれている場合じゃなかった。相手は公爵様。失礼は命取りになる。私は身分が高い人へ向けて用の淑女の礼を思い出しながらスカートを摘まみ、背中を丸めないように頭を下げた。


「初めまして。ご挨拶をさせて頂けますでしょうか?」


「許す」


「ありがとうございます。わたくしはシュトラウス男爵令嬢、イルミーレ・ナスターシャと申します。以後お見知りおきを」


「うん、私はイリシオ公爵アルステイン」


「公爵閣下のご尊顔を拝した奉り恐縮至極でございます。遠きフレブラント王国より珍しき品を携えここに至りました。縁あって帝国での商売を許されましただけでも僥倖でありますのに、公爵閣下のような尊き方へのご面識を授かるとは、大女神ジュバールのお導きとしか思えません。女神への感謝と公爵閣下のご繁栄をここに祈らせて頂きます」


 私は胸に右手を当てて略式の祈りを捧げた。


「神に祈りを」


「感謝を。男爵令嬢」


 と、このくそ長いやり取りが古式の初対面の挨拶である。王族との初対面でも無い限りまずやらないと言われたが、一応、と教えられた。奥様に感謝である。


 顔を上げて公爵様を見ると何だか面白そうに笑っていた。?あら、何か失敗してしまっただろうか?


「なにか?」


「いや、その古式の口上が良くスラスラ出てきたなと思ってな。今時滅多に使わぬから練習も無しに出来る者は少ないぞ」


 そうなの?なら別に失敗じゃないのよね?私はにっこり笑った。


「もちろん練習いたしましたわ」


「ふむ?其方の身分で王族皇族に目通りする機会など無かろうに」


「ふふ、ですから閣下にご披露する機会があって良かったですわ。練習の甲斐がありました」


 私がそう言うとなぜか公爵様は目を丸くし、それから実に楽しそうに破顔した。


 あ、この人素で笑うと年齢なりの若さになるのね。こっちの方がイケメン顔より良い感じだわ。私もお返しに演技で無く普通の笑顔を見せる。私たちは素の笑顔で、二人でしばらく笑い合った。


 これが、私とアルステイン・サザール・イリシオ公爵様との、運命の出会いだった。






 


 

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