第三話  綾乃と亜里沙

 1


午後の三時である。

綾乃は、大桟橋ターミナル駐車場に停めると、再び店に向かった。

陽の光で見る『Blue』は、明らかに夜の中に佇む装いとは違っていた。まるで、健康的なカフェにしか見えないのだ。闇の持つ淫靡さが無くなっている。

重い扉を引くと、野村の声がした。

「すいません。まだ、準備中なので・・・」

「分かってるわ」

「あっ、あんたは・・、昨日の・・・」

「そう、アマデカだけど…」 

「け、刑事さん・・・、それで、ご用事は・・・、」

「やっぱり『MDMA』だったって証拠を、野村さんに見せに来たの…」

「すみません、つい出来心で・・・」

「私は、『マトリ』じゃないから、そんなにビクつくことはないのよ」

「はあ、・・・」

「苦い珈琲でも頂きながら、野村さんに横浜のクスリ事情をお聞きしようと思ったの。私は、強行犯専門だからあまり詳しくなくて…」

「そういうもんですかね・・・」

「この横浜が、麻薬の中継地と呼ばれるようになった理由はどうしてなの?」

「・・・それは、やはり横浜が戦後のジャズの中心地になった事ですかね」

「どういう事かしら?」

「ほら、ビリー・ホリデーみたいに、ミュージシャンと薬は結びつきやすいんですよ。ジャズにはやっぱり『インプロビゼーション』が必要ですから。それと、戦後アメリカ軍が駐留したことも大きいですよ。軍隊は、恐怖感を除くためにヘロインを使っていたし・・・」


「そうなんだ…。野村さんが扱ってる『MDMA』について教えてくれない…」

「刑事さん・・・、扱ってるなんて人聞きの悪い。俺なんて、ほんの小遣い稼ぎですよ。一錠5、000円ってとこじゃ、ボランティアみたいなもんで・・・」

「クラブなんかで、売買されてるみたいだけど、どういう事かしら?」

「アマデカさん・・・、こりゃ失礼‼」

「いいわよ何だって…、それより早く話して」

「いわゆる錠剤って言うのは、『ラブドラック』だから、女の子に飲ませやすいってことかな。要するに、敷居が低いってことさ。覚醒剤なんかに比べてもね」

「日本に入って来るルートは?」

「生産国は、オランダやベルギーなんか、ヨーロッパ系が多いかな。バイヤーが直接スーツケースに入れて密輸したり、でも最近は、国際郵便で送られて来るケースも増えているみたいだけどな」

「それじゃぁ、ヤクザが生業とするなら、どっちなの?」

「当然、覚醒剤でしょ。日本のクスリの70パーセントを占めているんですよ。

日本が世界最大の消費地なんだから、ヤクザが手を出さない訳がないですよ」

「ありがとう。クスリ絡みの殺人事件が起きるとしたら、やっぱりヤクザが絡んだ犯行の可能性が大きいのね」

「えつ、アマデカさんは、殺人事件の捜査中なんですか?」

「それは、言えないけど。また、情報を教えて、今回の件は不問にしてあげるから…」

「良いですよ。その条件なら・・・。今度一緒に、楽しみま・・・」

「ふざけないで!手錠かけるわよ!」


  2


 午後4時の数分前である。

綾乃は、出勤前の麗香に確認したいことがあった。麗香の携帯に、電話を入れた。

「…麗香さん、成宮です。水上警察へは行ったのね…?」

「…ええ、直樹だったわ…。死因を調べるために、まだ返してくれないって…」

「そう、仕方ないわね。犯人を捕まえるためにもう少し、我慢してね。直樹さんのご両親とは、連絡がついたのかしら?」

「ええ、明日の朝一番には来られるみたいだけど…」

「そう……、麗香さん、お店に出る前に、少し話が出来ない?」

「はい、大丈夫ですけど…。いま関内ですから…」

「良かった。じゃあ、『馬車道十番館』にしない? 今から、30分後に…」

『馬車道十番館』は、明治の建築様式を参考にして建てられた5階建ての西洋館である。綾乃は、パーキングに車を停めると、1階の喫茶室に約束の時間より少し早めに着いた。中は、吹き抜けになっており、アーチ状のステンドグラスから優しい光が差し込んでいる。麗香は、入り口から遠い席ですでに待っていた。

泣きはらした瞳であることは、すぐ分かった。自然に綾乃の眼にも滲んで来るものがある。


「麗香さん、出勤前なのにごめんなさいね」

「いえ、犯人逮捕に繋がるのなら、構いませんから…」

綾乃は、ウエイトレスに二人分の『クリームコーヒー』を頼んだ。

「…直樹さんと、恋人関係になったのは、3カ月前からだと言ってたわね。

初めて来た店で、すぐに恋人関係になるなんて常識的に考えてもあり得ないから、

直樹さんは、どのくらい前から『エンジェル』に通っていたのかしら?」

「私が、初めて直樹を接客したのが、確か6か月ほど前からだったから…、

そのころからだと思います。最初は男の人と二人でしたけど…」

「その時の彼の印象は、どうだったの?」

「堅い仕事だと言っていたし、優しい感じで…、こういう男の人の彼女になれたならと正直思ったんです。仕事にも疲れていた頃だったし…」

「彼も、思いを寄せてくれたのね」

「ええ、なぜか相性が良くて、すぐ相思相愛に…」

「周りの人たちは、知ってたのかしら?」

「いえ、お店では、お客様との恋愛は禁止されていたんです。ですから……」

「普通、そういう関係だと接客は無理になると思うけど…」

「ええ、でも直樹がいつの間にかオーナーに気に入られたらしく、社長付の運転手になったんです。ですから、私たちは堂々と会えることになって…。当然前の仕事はやめることにしたと、言ってましたけど…」

直樹は、『厚労省』の役人であり『マトリ』なのは、否定のしようのない事実である。この職を投げうってまで、クラブ・オーナーの運転手に成り下がる決心が出来るものなのか。例え、麗香との愛のためだとしてもだ。


「麗香さん、あなたオーナーの情報に詳しいかしら?」

「いえ、あんまり。名前が、ピエール・滝田としか…」

「明らかに偽名ね。ふざけすぎてるわ!」

「確かに、胡散臭そうな白髪の老人ですけど…」

「麗香さん、私がホステスとして採用されるのは無理かしら?」

「う~ん、年齢を偽れば大丈夫だと思いますけど。何しろ暗いですから…、」

「今の冗談だから、気にしないで!」

「えっ、本気かと思いましたよ。警部補も冗談言うんですね」

最後は、楽しい会話となったが、直樹の真の目的を探らなければならないのだ。

綾乃は、店を出ると『エンジェル』に関する情報を集めるために、一旦加賀町署に戻ることにした。


 3


「古畑巡査部長、馬車道にある『エンジェル』って言うクラブのオーナーの素性について調べてくれないかしら?」

「エンジェルが何か?」

「殉職した捜査官が、『エンジェル』について調べていた形跡があるの。そのオーナーの裏の顔や関連する企業のことを知りたいの」

「なるほど・・・、了解です」

「今日も遅くなりそうだから、その間、少し仮眠取らせてもらうわ」

綾乃は、仮眠室で一時間ほど眠ろうとしたが、頭が冴え眠ることは出来なかった。

「どう、何か分かったかしら?」

「本名は、滝本崇継、66歳、『麻薬及び向精神薬取締法』違反で二度ばかり逮捕されていますが、すべて不起訴となっていますね。5年前と1年前ですか・・・。 現住所は、明らかにされていませんね。クラブの経営状態としては、この10年ほど赤字のようです。でも、かなりの資産家のようで、クラブの方は趣味の延長か、別の目的があるように思えるのですが・・・」

「…ありがとう、巡査部長。捜査の方向性は、間違っていなかったわ」


「警部補、ちょっと、気になることがあるのですよ。県警の『国際薬物対策課』が動いているようだと、うちの『薬物銃器対策班』からタレコミがありまして・・・」

「どういう事? じゃあ、『麻取の横浜分室』と『県警』が同時に、いわゆるダブル捜査をしているってこと? それ程大きな『ヤマ』だとは、思えないけど……」


 滝本崇継を捜査対象にするにしても、まだ情報量が足りないのだ。綾乃は、それを補うために、以前『エンジェル』に勤めていた渡邊亜里沙から話を聞く必要性を感じたのである。綾乃は少し躊躇いながらも、『みなと探偵事務所』に電話を掛けた。躊躇いの理由は、自分でもまだ分かっていない。

「はい、『みなと探偵事務所』です!」女性の明るい声が聴こえて来た。

「…加賀町署の成宮です」

「あっ、どうも…」

「直樹さんが遺体で見つかったことは、もう野島さんから聞いていると思うけど」

「ええ、とても許せないわ…」

「いま詳しい事は言えないけど、あなたが以前勤めていた『エンジェル』の滝本オーナーのことで、少し話を伺いたいのだけど…」

「オーナーのことですか…?、私は構いませんけど…」

「じゃあ、食事がまだだったら、食べながらで…どう? 私が奢るから…」

「えっ、! ちょっと、待ってください」

携帯越しに、所長の野島に許可を得ている亜里沙の声が聴こえている。

「亜理紗、行って来ると、良い! 綾乃によろしく言ってくれ‼」

綾乃と呼び捨てにする野島の声が、かすかに聴こえて来た。懐かしい記憶が、胸の中ではじけた。「もしかしたら、私はまだ……」という思いが胸を締め付けている。


「古畑巡査部長、『エンジェル』の事で、聞き込みをしてくるわ。今日はもう戻らないかも…」

「了解です。あれ!警部補、化粧濃くないですか? これから、デートとか?」

「馬鹿言わないで! 仕事なんだから……」

綾乃自身、念入りに化粧をし直した理由が分からない。


亜里沙は、すでに『你好』に来ていた。面識はなくとも綾乃には、すぐに分かった。亜里沙も小さく片手を挙げながら、会釈をする。


「あれ、綾乃さん、珍しいわね。6年ぶりかしら……?」            急にママが懐かしそうに、綾乃の顔を見ながら言った。

「確かに、そうね。そんなに経ってしまったのかしらね」

「そうなんですか! 誰と来たかは、聞きませんけど…」

亜理紗は、初対面にも関わらず、綾乃を茶化した。

「あなたが、渡邊亜里沙さんね。成宮綾乃です。今日は、ありがとうございます」

「いいえ、とんでもないです。お噂は、古畑巡査部長からお聞きしています」

「あら、どんなことを古畑は、言ってるのかしら?」

「男でも尻込みしそうなことを、平然とやってのけてしまうって……、あっ、失礼しました」

「いいのよ、亜里沙さん。裏表のないのが、あなたの持ち味だと思うから…」

「ほんとに、ごめんなさい」

「でも、野島さんは、あなたに会って救われたのだと思うの」

「それは、どういう意味ですか?」

「あなたの屈託のない明るさかしら……」

「私の方こそ、野島さんに会って救われたんです。この人なら信用出来るって……」

「亜理紗さんも、随分つらいことを経験したのね」

「野島さんなんかと比べたら、わたしなんか……、」

「亜理紗さんは、それが何であったのかを知っているのね?」

「ええ、少しだけですけど…、奥様の失踪事件を捜査する中で、結果的に警察組織に裏切られることになったって…」

「あなたは、若いけれど、世の中を見通す力を持ってるわ。野島さんが、あなたを選んだ理由の一つね。そして…、可愛らしさかな。私には、ないものね。結局、私でなくて良かったってことね……」綾乃は、亜里沙に会って心から納得出来たのだ。

「えっ、成宮さんも辞めたいと思ったことが?、そうは、見えませんけど…」

「いえ、あったわ。私にだって…。権力の裏側を見てしまったせいね…」

「でも、辞めなかったんですね」

「そうね。でも私には、逆に権力が必要だったのよ」

「何となくですけど、少しは分かる気がします……」


「あっ、そうそう、肝心な事を聞くことを忘れてたわ。亜里沙さん、食事しながらにしましょう」

「はい、お腹すいちゃいましたから」

『你好』は、庶民的な中華料理の店である。『青菜炒め』『水餃子』『酢豚』など、極めて定番的な料理が年季の入ったテーブルの上に並べられた。

「オーナーの滝本さんについてだけど、何か捜査に繋がりそうなことはないかしら?    

 亜理紗さんが、やめてから二回ほど薬事法違反で逮捕されているの。だけど、二回とも不起訴なんだけど…。これって、何処からか、大きな力が働いたとしか……」

「私が働いてた時も、反社との付き合いはあったと思います。だって、『VIPルーム』には、それらしい人たちが屯していたし…。オーナー付きの運転手さんが、彼らの送り迎えをしていましたから」

「当時から、お店が薬物の中継地として使われていた可能性は?」

「それは、まさかなかったと思います。マネージャーもしっかりした人だったし」

「亜理紗さんが、辞めた前後にオーナーの周辺で変わったことはなかったかしら」

「……確か…、クルーザーを買ったとかで噂になってましたけど…」

「えっ、それは、大きな買い物ね」

「綾乃さん、オーナーがそれから二回も逮捕されたなんて、絶対何かありますね」

「確かに、関連がありそうだわ」

「維持していくために、お金が必要になった…。そこに反社のつけ入るスキが…」

「亜理紗さん、それはありね。さすが優秀な探偵さんだわ」

「いえ、私なんかまだまだですから……」

綾乃と亜里沙は、一緒に食事を取りながら他愛ない恋愛の話や事件に対する推理を披露し合うことで、こころの距離が急速に縮まっていくのを感じていた。警察官と民間人として立場は違っていたとしても、見ている方向は同じなのだ。それを二人に学ばせてくれたのは、他でもない野島耕介という存在であった。


 4


「亜理紗さん、今日は突然呼び出してごめんなさいね。捜査を進めて行くのに、すごく重要な情報をもらったわ」

「私の方こそ、ありがとうございました。綾乃さんて、怖い人かと思ってましたけど、全然違ってた」

「えっ、そういう風に私を見てたの? 自分では基本的に優しい人間だと思っているんだけどな」

「ええ、確かにそう思いました。ほんとに強い人は、人に優しいって……」

「ありがとう亜里沙さん。わたしも、もう少し頑張れそう……」

「あっ、思い出した。クルーザーの留めてある場所」

「何処なの⁈」

「たしか…、『ベイサイドマリーナ』とか、言ってたわ」

「それって…、金沢区の白帆にある……?」 

「綾乃さん、そうだと思います」


『横浜ベイサイドマリーナ』は、金沢木材跡地に1996年第三セクターによって造られたアジア最大級のマリーナである。横浜の中心地から、30分も掛からない距離にあり、利便性は高いはずである。

「綾乃さん、きょうはごちそうさまでした!」

綾乃は、屈託のない亜里沙の顔を美しいと思った。

「亜理紗さん、野島さんを絶対離さないでね」

「は~い、死が二人を分かつまでね…。おやすみなさ~い」


夜もすでに遅い。しかし、綾乃は亜里沙を見送ると、深夜の加賀町署に戻っていった。


 


第四話『横浜ベイサイドマリーナ』へ続く

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