YOKOHAMA DRIZZLE NIGHT 第一話

prologue


大桟橋は、霧雨の中であった。

日没にはまだ早い時間であったが、すでに夜の帳は降りている。

若いカップルの顔が、狭い傘の中で時折熱く重なっている。けだるい夜が始まったのだ。しかし、季節は十分に春先の寒さを引き摺っている。

女の潤んだ瞳の中には、ランドマークタワーやコンチネンタルホテルが煙った夜景の中に浮かび上がっているはずである。

「誠!、見て! 何て綺麗なの……」

「ほんとだ! 澪、海を見てごらん。イルミネーションが綺麗に水面に反射している・・・」

若い二人が、初めてのデートに横浜の夜景を選んだのも納得出来るのだ。霧雨の中ではあったが、それはむしろロマンティックな気分を高める演出効果があった。


 大桟橋は、国際客船のターミナル機能を持ち、『くじらの背中』と言われる屋上広場は、24時間開放されていて、夜景の撮影が目的のカメラマンや恋人たちにとっても恰好のオアシスであると言えた。

大桟橋の舳先に行くほど、ウッドデッキの傾斜がきつくなってくる。男の指が女の細い指に絡まると、それに応えるように女も強く握りかえす。

「わたし、お腹がすいちゃったわ……」

「実は、この下にあるレストランの予約をとってあるんだよ。良いタイミングだね」

「まあ、うれしいわ。大分寒くなってきたし、早く行きましょ」

男は、女から絡めた指を解くと、思わせぶりに腰に手をまわす。


 ウッドデッキの不安定さに、女が視線を足元に落とそうとした。その時、水面に何かを発見したようである。

「あら…、誠…、あそこに何か浮いているわ。イルカかしら……」

「イルカ?・・・、そんなわけないだろう・・・」

「……誠…、人間のかたちしてない?…」

「うそだろう?・・・・、」



午後6時30分、『横浜水上警察署』に緊急指令が入った。

この警察署の規模は県下最小であるが、横浜の港湾を守るのが重要な任務である。

「大桟橋西側先端、レストラン『サブゼロ』の海上50m先付近、黒い浮遊物を若い男女が発見したとの通報あり、直ちに確認をお願いします」

「了解しました。直ちに水上署所属警備艇を一艇確認に向かわせます」


横浜水上警察署裏手には、交通地域課所属の10艇ほどの警備船艇が常時待機しており、港湾内はもちろん近くの河川も警備対象となっていた。            『神1しょうなん艇』が直ちに現場に向かった。海はそれほど荒れておらず、浮遊物の回収も手順通り速やかに行われた。港は、昼間の健康的で心躍るような楽しさに比べ、夜になると闇が闇を呼び、隠されていた暗部が鎌首を持ち上げてくるのだ。   この所轄区域内でも年間数十名もの身元不明者が発見される現実があった。決して、特異な事件でもないのである。

 翌日の早朝8時30分には、署内の二階にある第一会議室に、刑事課長水島雄介を中心とした対策本部が置かれることとなった。直ちに鑑識班から身元不明者に対する鑑識結果が、集まった20数名の捜査員たちの前で情報開示されたのである。



 1



前日の午後8時30分。仕事が一段落し、加賀町署を退署しようとした成宮綾乃の携帯に着信があった。

電話番号は、表示されているが登録されている番号ではない。

「はい、……成宮です…」

成宮綾乃は、警察官なのである。詐欺の電話であれば、むしろ『飛んで火にいる何とやら……』、というものであった。

「成宮警部補さんでしょうか?……」

女の声は、不安げに震えている。それ程若くはなさそうである。

「はい、成宮ですが……、どういったご用件ですか?」

「それが…、お話を聞いて頂きたくて……、」

「分かりました。でもその前に、名前を言ってもらえるかしら?」

「……、突然のお電話をごめんなさい。わたしは、秋元麗香と申します…。ある人から、万が一、彼と連絡が取れなくなった時には、加賀町署の成宮警部補にご相談をするようにと伺っていたものですから……」

「ある人とは、どなたですか?」

「探偵事務所の野島耕介さんです……、成宮警部補とはお知り合いだと伺っていて」

「野島耕介…さん…、確かに存じてますが…、それで、私に何を……」

「そのことは、直接お会いしてお話をさせて頂けないでしょうか?」

「分かりました。余程の事情がありそうね。では、これからということでどうかしら? 場所は…、秋元さんが決められて良いわ」

「ありがとうございます。では……、警部補は大桟橋入口近くにある『Blue』というバーをごぞんじですか? わたしはそこでお待ちしてますので…」

「分かりました、了解です。では、後ほど……」


 バー『Blue』は、象の鼻パークから山下公園を結んでいる山下臨港線プロムナード下の大桟橋入口からわずかに入った左角にあった。ベージュ色のモルタル壁に蔦が絡んでいる様子は、異国情緒漂う古い横浜の象徴のような佇まいである。

綾乃は、年季の入った木製の重い扉を開けた。中の照明は落とされていて、暗さに目が慣れるまで、数秒を要した。 紫煙の先に、バーテンダーらしき若い男が カウンターの前に立っている。眼光は、なぜかしら鋭い。

 綾乃は、バーテンダーの後ろのバックバー(酒の棚)に目をやった。酒の種類は整っていそうであるが、すべてのラベルが前を向いている訳ではなかった。よく出る数本の銘柄の瓶が無造作に置かれている。一流の店ではなさそうだ。

                           カウンターの右手奥に若い女が一人、煙草を吸いながら座っている。綾乃の姿に気が付くと黒い『ashtray』の中でもみ消した。  

女は、30をいくつか越えたくらいであろうか、ショートカットの髪が大きな眼に良く似合っている。カナリア色のワンピースに白いカーディガンを肩から掛けていた。

「……麗香さんね」綾乃は、確認しながら女の前に立った。

「…あっ、はい。成宮警部補さんですか?…」

立ち上がって、会釈する麗香の眼がさらに大きく開かれた。

「ええ…、成宮です」

「わたしの想像していた婦人警官さんと、あまりに違うのでびっくりしてしまって…,ゴメンナサイ」

成宮綾乃は、42歳。身長は、170cm。セミロングの髪には軽いウエーブが掛かっている。今や制服である黒のスーツは、『セルッティ』のミニタイトである。

 浅黒い顔のバーテンダーが、綾乃に興味ありげに近づいて来た。

麗香のカウンターには、『gin and tonic』が置かれている。銘柄は分からない。

「私もジントニックをもらおうかしら…、『Tanqueray』でね」

バーテンダーは、かすかに首を縦に振ると、綾乃から視線を外さず離れて行った。


「麗香さん、何があったのか手短に話してもらえないかしら?」

「はい、わたしはいま、馬車道の『エンジェル』というクラブでホステスをしているのですけれど、その店で知り合った彼が一週間ほど前から連絡が取れなくなってしまっていて………」

「そうなの……、彼の名前は何て言うの…? 歳はいくつ?」

「川端直樹です。 たしか…、38ぐらいかな……」

「38ぐらいという事は、まだ付き合いが浅いのね」

「ええ、3カ月ぐらいです…」

「野島耕介さんとは、どういう関係なのかしら…」

「野島さんと彼は昔からの知り合いらしく、色々と相談に乗ってもらっていたようなんです。勤め先は違っていても、何か同じような仕事をしてたとか……。      たまたま、何回か食事をご一緒する機会があって、万が一彼の身に何かが起きた時には、加賀町署の成宮警部補に相談するようにと言われていて……、それで今回…」

「だいたい分かったわ。食事は、三人で…」

「いえ、いつも四人でした。彼女は、野島さんをとっても尊敬しているようでした」

「彼女というのは?…」

「野島さんのパートナーというか…、渡邊亜里沙さんです。彼女も『エンジェル』で働いていたこともあったので、わたしとは、顔見知りだったんです」

「ふ~ん、そうなのね。野島さんは元気そうだった?」

「ええ、でも何か彼と同じような目をしてて…」

「麗香さん、あなたは本当に直樹さんの仕事が何なのか分からなかったのね?」

「はい、堅い仕事だとは思っていましたけど…」

「……ここだけの話だけど、彼は捜査官であることは、間違いないわね」

綾乃は、声を落とすと囁くような声で言った。

「じゃあ、直樹は、なぜわたしにそのことを……」

「理由は分からないけど、何か事情があったとしか……」

バーテンダーが不意に現れると、にやけながら綾乃の前にグラスを置いた。     気のせいかグラスの中身がわずかに濁って見える。淀んだ空気がグラスに触れると、水滴となって、流れ落ちて行く……。



 2



 綾乃は、グラスに口を付けると、ジンとは違う苦みを感じた。バーテンダーが目をそらせた隙に、革製のトートバックの中に、口に含んだ液体のすべてを吐き出した。

「綾乃さん、大丈夫ですか?」

不審な綾乃の行動に驚いた麗香が、声を上げた。

「急に、車に乗って来たことを思い出したの…。乗ったら飲むなだからね…」

綾乃は、麗香を安心させるために小声で平然と返した。

「それより麗香さん、彼の特徴を教えて…」

「彼は……、やや筋肉質で、身長は、180㎝ぐらいかな。髪は、短髪で黒縁のウエリントンタイプの眼鏡を掛けていて……」

「……もう少し、身体的な特徴はないかしら、麗香さんしか知らないような…」

「……そういえば、左肩の後ろと前に大きな傷があって、わたしが聞いても笑ってごまかしてたけど…」

「前の傷の方が大きかったの?」

「ええ、後ろに比べて大きかったわ…」

「良い情報ね。それは、『貫通射創』といって、後ろから何らかの銃で撃たれて出来た傷だと思うわ。普通の人なら滅多にないことだから、特異な特徴になるのよ」

「そうなんですね…」

「麗香さん、きょうはもう遅いから明日の朝から、調べてあげるわ。何かあったら連絡するから…」

「成宮警部補、よろしくお願いします」

「麗香さん、外では成宮だけでいいのよ」

「あっ、すみません」

綾乃は、タクシーを呼んであげると、麗香を先に帰した。


薄暗く紫煙漂う『Blue』の中には、カウンターの左端に小太りの男一人と、バーテンダーそして、綾乃の三人が残されている。綾乃は予め、何かが起きそうな予感がしていたのだ。

バーテンダーが、にやけた顔で綾乃のカウンター前に立った。

「お嬢さん、グラスには、まだ半分も残っていますよ。お口に合いませんでしたか?」口調は優しいが、歪んだ凄みが感じられる。堅気ではなさそうだ。

「わたし、お酒に弱くて…もう足元がふらふら…。それに、もう40を越えてるおばさんですから…、お嬢さんなんて言われると、恥ずかしくて…」

「驚きました。とても40過ぎには見えませんよ」

「お世辞だとしても、言い過ぎよ。明日も早いしそろそろ失礼しようかしら……」

「そうはいきませんよ。ここに来た理由を言ってもらいましょうか?警部補さん」

「話を聞いてたのね。でも、今日は目的が違うから帰らせてもらうわ」

「はい、そうですかって訳にはいかないんですよ。警部補!」

「分かった。教えてあげるわ。ここが『エクスタシー』の中継場所だってタレコミがあったのよ。今日は、その下調べってことかしら……」

「何だって! いい加減なことを言うと、海に浮かぶことになるぜ。何処にそんな証拠が……」いきり立つほど人間は本性を出すものである。


「証拠はもらったわ、このバッグの中にね。明日には、手入れが入ると思うけど、悪く思わないでね」

「なにい~、おい新庄! こいつのバッグを奪い取れ!」

「野村さん、ほんとに良いんですか? おばさんでも、一応警察官らしいし…」

「はったりかも知れないから、全部脱がしてでも調べるとするか・・・」

「分かったわ、野村さん。だからバッグには手を触れないで…、まだローンも終わってないし、傷でもつけられたらたまらないわ」

綾乃は、バッグの中身をすべてカウンターの上に並べた。化粧バッグ、スカーフ、

名刺入れ、スマホ、充電器、携帯ポット、特殊警棒、そして手錠である。

「アマデカ! 何処に証拠があるって言うんだよ。カマかけると痛い目に合うぜ」

「後ろめたいことがなければ、そんな言葉遣いにはならないはずね。      野村さん!あなたは、私のジントニックに『MDMA』の粉末を入れはずよ。目的は、何だったの?」

「黙れアマデカ!おい、新庄、少し痛い目に合わせてやれ!」

新庄が綾乃の前に立つと、いきなり張り手が綾乃の左頬に炸裂した。たまらず綾乃の身体がスツールから転がり落ちると、無残にざらついた床に這いつくばった。

「でかい口をきいたって、所詮おんなだよ。男の腕力に敵う訳がない!」

新庄が、上着に手を掛けると、綾乃を無理やり引き起こした。

「このスーツもローンが終わってないし、もっと丁寧に扱って………」

「何~! 野村さん、この女ただものじゃないですよ」                                     綾乃の唇が切れていて、鮮血が白いシャツの上に流れ落ちている。


綾乃の髪が、新庄の手で強く後ろに引かれた。のけ反る綾乃の手が偶然にも、カウンターの上に置かれた冷たい特殊警棒に触れた。

綾乃に迷いはなかった。それを掴むと、新庄の左肩に振り下ろした。

不意を食らった新庄の膝が崩れると、綾乃の長い脚が、的確に顎を捕らえた。

もんどり打った新庄の身体が、テーブルに叩きつけられると意識を失ったように、動かなくなった。

「野村さん、カウンターから出て来てくれないかしら……。このままじゃ、決着がつかないわ」

野村は、『BEEFEATER』の瓶を握ると、カウンターを飛び越え綾乃に襲い掛かって来た。綾乃の特殊警棒が下から振り上げられると、野村の男の部分を直撃した。

野村は、たまらず悶絶すると床の上で痙攣を繰り返している。


 その時、突然木製の扉が開かれると、二人の若い巡査が飛び込んで来た。

「どうしました? 今匿名の通報があったのですが?・・・」

背の高い方の巡査は、息を切らしながら綾乃に尋ねて来た。

「あら、お巡りさん。いいところに来たわ。この男達が突然喧嘩を始めてしまって……。何か事情がありそうだから、聞いてあげて…」

「はあ・・・、あなたは怪我をされているみたいですが、大丈夫ですか?」

「あ、これ? 自分でカウンターにぶつけてしまって…。だから問題ないわ。

お二人は、どちらから来られたの?」

「私たちは、水上警察大桟橋の交番員ですが、それが何か・・・?」

「問題があったら、後日伺うから…」

綾乃は、巡査たちに見られないようにカウンターに広げられていたものを、素早くトートバッグの中に仕舞った。

「じゃあ、私はこれで…」綾乃は、帰り支度をして巡査たちに言った。

「ちょっと、待ってください。少し、伺いたいことがありますので・・・」

「その必要はないと思います。ね、お二人さん」

「・・・、・・・・」

野村と新庄が無言で首を縦に振った。その顔は、今だ苦痛に満ちたものである。

綾乃は、背の高い巡査に名刺を渡した。

「あなた達のために、これを置いていくわ」

名刺を受け取った巡査が大きな声を出した。

「・・・、加賀町署の・・・、成宮綾乃警部補、これは、失礼しました!」


 綾乃が『Blue』から外に出ると、対岸にある『赤レンガ倉庫』は相変わらず霧の中であった。すでに真夜中の12時を過ぎている。滲んで見えるイルミネーションだけが、眠らない港街の鼓動のようだ。

 綾乃は、大桟橋客船ターミナル駐車場からグレーの『MAZDA6』を引き出すと、

 みなとみらいから首都高速に乗り、保土ヶ谷ICを経て横浜新道に入る。フロントグリル内に装備された『前面警告灯』を点灯させると、深夜の高速を海に向かって疾走した・・・。



 第二話に続く



 作者のことば


 久しぶりの『成宮綾乃シリーズ』です。

本来のハードボイルド路線なので、スッキリと、そしてハードに物語が進んで行くと思います。ミステリー要素はありながら、プロットは簡潔にです。


 なんと、『みなと探偵シリーズ』の野島耕介と亜里沙も登場します。これって、少し豪華すぎる気もしますが・・・。何となく『DC映画』のような・・・。

とりあえず、もう書き出しちゃいましたので、後は登場人物に委ねたいと思うのです。

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