忍び寄る影

 アレス王国の都フェリドールは、またの名を「薔薇の都」とも言われている。国章でもある薔薇の花は歴代国王に愛されてきた所以もあり、王宮に留まらず街の至る所に植えられていた。そのため、ひとたび王都に足を踏み入れれば、たちまちむせかえるほど甘い薔薇の香りに包まれるのである。


 王宮を出たリュシアンも例にもれず、鼻孔をくすぐる薫香に精悍な顔をしかめていた。王宮内も香水が混ざったような匂いで、お世辞にも良いものとは言えなかったが、そこで彼は騎士団時代には感じたことのなかった違和感に初めて気付いた。暫くこの香りを吸っていないと、異様な甘ったるさに頭が痛くなってくるのだ。むろん、頭痛の原因はそれだけではなかった。シエナの安否や蛮族の次期王暗殺をはじめ、先ほど目にした謎の令嬢や兄のことなど、悩みの種は当面尽きそうにもない。


(……休んでいるわけにはいかない。かと言って、今から剣技を磨いたところで、たかが知れている。なら、以前オルコット卿に以前叱咤された通り、「騎士」であることにこだわらず、何か策を見付けなければ―。)


 焦燥ばかりがリュシアンを追い越し、何歩も先を駆け抜けていくようだ。セシルからは先に帰っているように言われていたものの、公爵邸に戻ったところで出来ることなど何もない。結局、彼はこうしてはやる気持ちを抑えることができずに、ただ漫然と当てもなく歩いていた。


 王都フェリドールは、かつて目にした港町や寂れた国境とは異なり、段違いに洗練されていた。モダンな石畳の先には、パンや焼き菓子、手芸品、宝飾店、帽子、靴屋といったありとあらゆる店が並び、いずれも値段からして明らかに庶民向けではない。現に、道行く人々は洒落た中流階級以上の貴族か、さもなければ金を持った旅人が多いようだ。

 むろん、彼はそんな洒落た店になど用はなかった。では、鍛冶屋や武器屋を当たればいいのだろうが、ありきたりな剣しか置いていないことなど、行かずともわかった。


(剣でどうにもならないのならば―いっそ、火でも付けるか?)


 血のように赤々と燃えさかる炎が脳裏に浮かぶ。乾燥したあの地なら、さぞかしよく燃えることだろう。混乱させれば隙が作れるかもしれない。けれども、そんな考えが過ぎった瞬間、彼の心臓はどきりと跳ね上がった。

 火をつける―? まるで蛮族のように卑劣極まりない発想が浮かんだことが、自分でも信じられなかった。 彼の心に刻まれた、生き様も同然の騎士道を捨てるのには、並々ならぬ抵抗があったはずだ。蛮族を討つために、自身も蛮族に成り下がるなどあってはならない。そう考えていたのではなかったか。


 いつのまにか、鳶色の髪をじっとりと濡らすように、リュシアンの額には大粒の汗が噴き出していた。砂漠で浴びた太陽の熱が、じりじりと刺すような痛みに変わる瞬間が蘇る。フェリドールはすがすがしい晴れ模様のはずが、頬を伝い首元へと滴る汗でじんわりと濡れるにつれて、全身をかきむしりたくなるほどの不快感に襲われた。

 リュシアンは慌てて石畳を駆けると、広場の噴水の傍へと倒れるようにしゃがみこんだ。間近ではざあざあと涼しげな水音が聞こえている。にも関わらず、視界の端にはめらめらと燃え上がる炎がちらつき、呼吸が少しづつ荒くなった。混濁の中、彼はあることに思い当たっていた。


(……だが、あの時俺が手段を選んでいなければ……。姫様は救えたはずだ。)


 カティーフへ奇襲をかけた時は、城壁で迎え撃たれ、放たれる火矢に足止めを食らった。だが、敵は城内には火を放たない。あの時、何らかの方法で城内に火をくべれば、戦況は変わったかもしれない。


(……馬車で襲われた時も。初めから俺が姫様を連れ、敵に背を向けて逃げていれば……あちらも姫様には手を出せなかったはずだ。)


 だが、そのどれもを押しとどめたのは、彼の中に宿る騎士道精神に他ならなかった。騎士たるもの、いつでも正々堂々と、剣のみを用いて一騎打ちで戦うものであれ。一度胸に刻んだ信条はそう容易く裏切ることはできない。けれども、それゆえあるじを危険な目に遭わせてしまったのだと悟ると、今までの苦難は無駄も同然だったのだ、と突きつけられているような気がした。


(もしや俺は……自分のせいで、こんなことに?)


 そうだ。母国を離れたアル・シャンマールという蛮族の地で、いかに卑劣な戦い方をしようと、誰が気に留めるだろうか。ましてや、味方はセシルを除き一人もいないのだ。さらに、そのセシルからも今までのやり方を改めるようにと説かれている。敵地でうまく立ち回るには、剣術大会で打ち負かされたあの騎士のようなずるがしこさも、時には必要だったのだろう。リュシアンは今になって、自信の実直さを恨めしく思った。


 今の彼は後悔に苛まれ、その思い付きが失敗した場合の危難など頭になかった。いや、考える余裕もなかった。いよいよ自分を見失いかけた騎士は呆然自失のあまり、憎らしいほど晴れやかな空を仰いでいた。水飛沫の向こうからは、薔薇を抱いた乙女の彫像と目が合う。瞳の見えない空虚な瞼は、遥か頭上から彼を咎めるように見下ろしているようだった。


(だとしたら、俺は今まで何を―)


 前後不覚になっていたリュシアンは、背後から感じる視線を察知できていなかった。音もなく彼へと迫っていたのは、旅人らしきマントを羽織り、鼻から首元を覆うように長いシルクの布を巻き付けた人物だった。中肉中背であるほかは、体型も、男か女かもわからない。旅人かと言われればそれらしくも見えるが、それにしては今の今まで、まるで存在感がなかった。人通りが多い場所とはいえ、互いの肩が触れ合う距離まで近付くと、さすがのリュシアンも我に返り、男の方へと視線を向けた。


「―っ?!」


 アレス人にはよく見られる、亜麻色の髪。だが、長い前髪の奥に気だるげな三白眼を見つけた瞬間、目を疑った。ここにいるはずない―いや、いてはいけないはずの男に驚き、咄嗟に飛びのく。リュシアンが剣の柄に手をかけたまま、さらに一歩、二歩と後退したところで、人目を引いていることに気付いた相手は、心底から億劫そうにため息をついた。


「あー……ちょっと場所変えてもいいっすか?」


 そして、蛮族の男は返事も聞かずに歩き出した。一瞬、その無防備な後ろ姿に剣を振り下ろしてやりたい欲望に駆られたが、男の狙いもわからない以上、王都で騒ぎを起こすわけにはいかない。やむを得ず、リュシアンは渋い顔のまま後を追った。


 そそくさと先を急ぐ蛮族は、その気構えとは裏腹に、動きは風のように俊敏だった。影のように人々の合間をすり抜け、瞬く間に石畳の道を進んでいく。ぼうっとしていたらすぐに見失ってしまいそうで、騎士は慌てて目印となるシルクの布を注視した。男は見る見るうちに王宮とは反対側の街の入口へと進み、どこで手に入れたのか、門番に通行証を見せて門を抜け、ついに街の外れまで来た。


 鬱蒼と繁る森。先程までの喧騒はどこへやら、人っ子ひとり見当たらない。現に、アレス王国の者でも、訪れるような酔狂は滅多にいない。ざあっと響き渡る木々のざわめきは、まるで獲物を待ち受ける獣の呻きのようだ。この世のものとは思えぬ薄気味悪さに、リュシアンが怪訝そうに辺りを見回していると、その一瞬の隙に、蛮族は煙のように姿を消してしまった。


「おい、待て!」


 すぐに生い茂る草木をかき分け、森の内部へと入っていくと、ようやく入り組んだ木の影に男の影を見付けた。人気のないところにおびき出すとは、まさか罠かと躊躇したが、引き返す理由は無い。

 リュシアンが覚悟を決めてじりじりと距離を詰めていると、いまいち緊張感に欠ける嘆息が聞こえてきた。シルクの布を口元まで下げた優男は、かつて砂漠のオアシスで書状を託してきた者と見て、間違いなさそうだ。


「さっさと済ませたいんすけど……。まず、その物騒なもんを出すのは、やめてもらってもいいっすか?」


 開口一番気だるげな様子に、出鼻をくじかれる。相変わらず、やる気も覇気も感じられない割に、隙のない佇まいだ。リュシアンは相手に会話の主導権を握らせまいとと、掌に食い込むほど強く柄を握り締めていた。灰褐色の三白眼は、こちらを見ているようでどこも見ていない。わけもわからずこんな所まで連れてこられた不満を抑えきれず、騎士は苛立ちながらも問いただした。


「―何の用だ。」

「ただの確認っすよ。手紙、届けてくれたんすね?」


 確認と言う割に、男の口調は確信に満ちている。警備の厳重な王宮の中に忍び込めたとは思えないが、いつから、どこから見張られていたのだろうか。この蛮族には、以前シエナの居所を教えてもらったとはいえ、そうやすやすと気を許すつもりはなかった。


「……さあな」


 彼が灰紫の瞳を伏せたのを、是と受け取ったのだろう。間髪入れずに、世間話でもするような気軽さで尋ねてくる。


「国王の反応はどうっすか?」


 すぐさま、リュシアンの脳裏には次期王の暗殺を命じられたことがよぎったが、努めて表情を変えずに切り捨てた。


「お前に話すことなど、何もない。」

「そりゃないっすよ。おひいさんがうちの王都にいるってこと、ちゃんと伝えたんすよ?」

「お前の情報が、本当かどうかの保証などない。」

「そうっすか。ま、そんなことはどうでもいいんすけど」


 もっとしつこく問い詰めてくるかと思いきや、あっさりと引かれて拍子抜けする。気だるげな男は、何も興味がなさそうな語調のまま切り出した。


「式の日取りが告知されたんすけど……聞きたいっすか?」

「……」


 恐らく、あるじと蛮族の次期王との結婚のことだろう。あの忌まわしい提案を思い出すだけで、身の程知らずとも言うべき腹立たしさに、かっと頬が熱くなる。あのように不本意な結婚を、シエナが望むはずがない。それでも、今は喉から手が出るほど情報が欲しいのも事実だ。リュシアンは固唾を呑んだが、またも敵国に教えを乞わねばならないのは、どうしても癪だった。


「……お前は俺たちに有利になる情報を与えて、何がしたいんだ。俺がそれを聞いて、乗り込むように仕向けているのか?」


 この男の意図がまるでわからなかった。裏切り者だとしたら、自国に何か個人的な恨みでもあるのだろうか。あるいは、単なる罠か。押し黙ったままの男に、リュシアンは畳み掛けるように詰め寄った。


「所詮、蛮族か。お前たちの主への忠誠などその程度なのだろう。笑わせるな」


 蛮族の表情は変わらない。相変わらず気力を感じられない面構えでありながら、その三白眼は反撃の機会を伺うように騎士を見据えている。ややあってから、男は深いため息をついた。早くこの場を切り上げたい。そのいかにも億劫そうな振る舞い以外、何を考えているかは何一つとして見て取れなかった。


「……どこの組織も、一枚岩だと思ってるんすか?」

「なんだと?」

「あんたのようにどこに行っても忠義を持つのは勝手すけど……。あんただって騎士団長さんと殺し合ってたじゃないすか。」

 

 過去の自分を引き合いに出され、返事に窮する。確かに、あの時シエナを守るためとは言え、兄と剣を交えたのは事実だ。同じように、敵国にも不和がある可能性に思い当たると、リュシアンは息を呑んでいた。もし、この男も組織に何らかの不満を抱えているとしたら、逆にそれを利用出来るかもしれない―。不気味にざわめく木々が、悪魔の囁きのように耳を撫でていく。やがて、彼は突き動かされるように尋ねた。


「……お前は裏切り者なのか? だとしたら何のために―」

「これが招待状っすよ。良ければ来てくださいよ。証人として。」


 彼の問いかけを封ずるように、またも突き出された書状。それを目にしても、相手の言わんとすることは即座にはつかめなかった。


「……は?」

「身内が誰も来ない結婚式なんて、おひいさんがかわいそうだってことで、ザイド様が気を回してくださったんすよ。感謝してほしいっすね。おひいさんは立場上家族を呼ぶのが難しいんで、せめてあんたらだけでも、ってことらしいっすよ。」


 わけがわからない。いったい何をとち狂えば、剣を交えた敵を招待できるのだろうか。馬鹿にしているのか。あるいは、今度こそ罠なのか。騎士は混乱としたまま、書状に付いた敵国の国章をまじまじと見つめていた。湾曲した剣の間から覗くこぶの付いた馬は、彼を挑発するように勇ましく蹄を向けている。


「なぜ、俺が―」


 と言いかけたところで、リュシアンははっと口をつぐんだ。

 男の言うことが真実だという保証はない。しかしながら、仮にこの招待が罠だった場合でも―その時は、こちらが騙せばいい。今までのように、何も知らない愚直な騎士のふりをして、次こそは必ずや一矢報いてやるのだ。相手からのこのこと誘いにやって来るとは、僥倖だったかもしれない。口元がおのずとほころびかけるのを、騎士は慌てて引き締めていた。そうして、卑劣ともいえる考えが出ぬように、ぎゅっと口を真一文字に結ぶ。


「……どこまで本気にしていいものか、見物だな。大方、油断させて殺すつもりだろう」

「どうっすかね。そんじゃ、俺はこれで」

「おい、まだ話は―」


 男の方はリュシアンの反応などまるで気にも留めぬ様子で、そのままふらりと木々の間へ立ち消えた、かのように見えた。

 けれども、何か言い残したことでもあったのか、男の動きに合わせてシルクの布が翻った。もしや腹の内を読まれたか。咄嗟に視線をあさっての方向へ向け、気付かないふりをする。

 相手が口を開くまでの間、息が詰まるほどの緊張が走る。静寂の中、ばくばくと弾む心臓の音がうるさい。自らの鼓動が、辺り一帯に響き渡っているのではないかと危ぶむほどだ。


「あ~……もう一人の方にも、よろしく伝えておいてくださいよ?」

「……?  な、なんだ。そんなことか」


 図らずも思い付きが顔に出たかと焦ったが、セシルのことを指しているのだと気付くと、騎士はひそかに胸をなでおろしていた。


「言われなくても、お前のことは報告させてもらうが―」

「そうっすか。なら、いいんすよ。……じゃ、そういうことで」


 今度こそ、男は木々に紛れて忽然と姿を消した。じっと目を凝らしても、その影はどこにも見当たらない。ようやくほっと安堵したリュシアンは、震える手で招待状を両手の中に包んでいた。


(待ってください、姫様。やっと―やっと、あなたをお救いに行けます。)


 あたかも、薄闇の森に差し込む一筋の光が見えたようで、彼は再び空を仰ぐ。木漏れ日は、冷え切った面持ちに暗いまだらの影を落としていた。

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