手がかりと助力

「……きょう。ブラッドリー卿!」


 峡谷に吹き荒れる風に混ざって、どこからか声が聞こえてくる。いつもは朗らかで屈託のないはずが、なぜか緊張と焦りを帯びている。まるでを無意識下の混濁の中から残酷な現実へと引き戻すように、何度も、何度も耳を騒がす。


「……ブラッドリー卿!」

「―っ?!」


 その瞬間、リュシアン・ブラッドリーは目が覚めると当時にがばりと起き上がった。と同時に、一秒たりとも忘れたことの無い名を叫ぶ。


「シエナ様!!」


 だが、そのありったけの声も風の前ではむなしく掻き消されてしまった。周囲には、ビュウビュウと冷たい風の吹く峡谷が広がるばかり。白金の髪を靡かせた釣り目がちの少女は、どこにも居ない。代わりに視界に入ってきたのは、ただでさえ下がった眉尻をますます下げた童顔の青年―あの後、行方が分からなくなっていたセシル・オルコットであった。


「えーっと……。あの、大丈夫……ですか?」


 彼は困惑したように白い頬をかきながら、騎士の尋常でない剣幕に気圧されて、たじたじとなっている。その姿を認めると、リュシアンの口からは知らず知らずのうちに安堵と落胆の入り交じった溜息が漏れていた。


「オルコット卿……か。無事で何よりだ」


 同時に、あの屈辱は決して悪夢などではなく現実なのだ、とまざまざと思い知らされる。彼は居ても立っても居られなくなり、すぐさま立ち上がろうとしたものの、ふらりとよろめいた。視界がまだぼんやりと霞んでいるのは、吸い込んだ煙が抜けきっていないせいだろうか。


「……本当に大丈夫ですか?」

「ああ、面目ない。少し煙を吸い込んだだけだ。」

「ええっ? け、煙? !  一体ここで何があったんですか?!」


 対する教育係は、驚きのあまり水色の目を白黒させている。まるでここで何があったのか初めて聞くような口ぶりに、リュシアンの方が息を呑んでいた。そもそもセシルが先に馬車を下りてからのことは、誰も知らない。順当に考えれば、彼もまた御者と同様、忽然と消えたと思われていたのだ。


「……あなたこそ、馬車を降りてから何があったのだ」


 するとセシルは目を閉じ、記憶を遡るように逡巡した。あたかもそこだけぽっかりと欠けてしまったピースを想像するかのように、頭を捻りながらたどたどしい説明を始める。


「……正直、あまりよく覚えていないんです。馬車を降りた時はすでに、御者台はもぬけの殻で。様子を見に行こうとした後からの記憶がないんです。……気づいた時には、少し離れた場所―あそこに倒れていました。」


 ぽつりぽつりと話すその姿は、普段の明るく自信に溢れた物言いとは異なり、何ともおぼつかない。リュシアンは今の話と自らの遭遇した出来事を総合すると、やがて苦々しげに結論づけた。


「では、御者は姿を消し、卿も蛮族にやられたということか。」

「そのようですね……。ところで、あの……殿下は?」


 シエナがここに居ない。それが何を意味するのか、答えは問わずとも明白だ。身構えていた質問に、騎士は無意識のうちに拳を握り締めていた。あたかも、主を守りきれなかった自らを戒めるかのようだ。彼は自らの不甲斐なさを思うと、塞がったはずの切創がズキズキと痛んだ。乾いた血で汚れた掌が、何とも痛々しい。


「……姫様は、あの蛮族どもに奪われた。奴らと戦ったものの、卑劣な手段と数に押され、負けたのだ。俺のせいだ。本当に……すまない」


 自らの失態を明かすばつの悪さとシエナを奪われた無念に、リュシアンは声を詰まらせた。対するセシルも薄らと察してはいたようだったが、最悪の事実にしばらく二の句が継げずにいた。


「……いえ。ブラッドリー卿には何の落ち度もありません。急ぐことばかりを考えて、あのルートを選んだ僕のミスでもあります。」


 どんよりと重たい空気が流れる中、やりきれない彼らを嘲笑うように風が変わらず吹き荒れる。落ち始めた夕陽は赤土をさらに赤く染めあげ、二人の影を色濃く落としていた。

 ややあった後、セシルは意を決したように口を開いた。


「じきに日も暮れます。まずは王都へ使いを出して、指示を仰がなくては」

「王都から連絡が来るまで、何日かかる?  姫様の一大事だ。早くお救いしなくては」


 未だ満身創痍のリュシアンは、土汚れた服を払うと、ふらつく足取りにも構わず、さっさと歩き出そうとした。


「早馬を飛ばしたら、王都までは片道五日くらいでしょうか。援軍を出して頂くにしても、陛下の判断を仰ぐ必要がありますので……すぐには厳しいかと。許可が下りたとしても準備があります。おそらく二週間は―」

「そんなに待てるものか! 俺は、乗り込む準備を整える」


 話にならないと言わんばかりに、リュシアンはセシルを置いてますます足を早めた。二人の距離は、見る見るうちに開いていくばかりである。

 ふと、向こうから微かに馬の嘶きが聞こえてきた。どうやら、乗ってきた馬車がそのまま残っているようだ。二頭の馬は繋がれたまま、その場で立ち往生している。


「……馬車は無事か。不幸中の幸いだな」

「ま、待って下さい、ブラッドリー卿!」


 馬をほどく後ろ姿に追いつく。溌剌とした顔を曇らせたセシルは、もはや正気の沙汰ではないとでも言いたげに呆れ返っていた。


「まさか、今からお一人で行かれるのですか?」

「この間にも、姫様がどんな目に遭わされているのかもわからないのだぞ!」


 リュシアンが今にも胸ぐらを掴もうとするばかりの勢いで振り返る。その鋭い灰紫の瞳には怒りと焦燥が宿っていた。そこで怯むかと思いきや、教育係は至って冷静だった。


「……気持ちはわかります。けれど、奴らはブラッドリー卿を負かして殿下をさらったのですよね?  なら、また同じ轍を踏むだけでは?」

「―っ!」


 このまま一人で突撃しても、再び敗北するだけ。そう図星を突かれると、騎士はぐっと答えに詰まった。


「だが、そんな悠長に待っていられるものか……。」

「王都への伝令を頼んだ上で、僕達は僕達で策を練りましょう。殿下の居場所も、敵国の地理もわからないんですから、少しでも情報を集める必要があります。」


 砂漠の国であるということ以外に、アル・シャンマールに関する情報は少ない。シエナが連れていかれた場所が不明なのはおろか、当たりを付ける検討材料すらないのだ。


「それもそうか。……この近くに、街はあるか?」

「『シルティグアイム』という寂れた街があります。日が暮れるまえに、引き返しましょう。幸い、馬は無事ですし」


 峡谷を後にする。本心では一刻も早く砂漠の中へ駆け出したかったが、無策ではあのザイドという男が口にした通り、砂の海へと沈むだけだ。リュシアンはシエナが奪われた場所をしっかりと目に焼き付けるように振り返りながらも、敵を前に敗走するような苦渋を味わっていた。


「……覚えていろ。俺は必ず、姫様をお救いする」


 確かな誓い。幾度となく繰り返したその約束を果たすため、彼は今にも叫び出したくなるほどの不条理に身悶えしたかったが、ぐっとこらえながら駆け出した。




                 ***



 黄昏時のシルティグアイム。アレスの最東端に位置し、先の峡谷のほど近くにある小さな街だ。ここは不毛の大地とも呼ばれ、乾ききった土壌のせいで作物は育たない。そのため長らく無用の地とされ、アレスにおいて厄介者扱いされている混血の者や貧民らが流れ着く場所でもあった。


「アルシャンマールの情報? んなものはないね。ほら、帰った帰った」

「そう、か……」


 リュシアンは王都へ伝達に行くというセシルと別れた後、さびれた酒場に向かったが、収穫はなく肩を落とした。そんな彼には構わず、古びたカウンターを拭く恰幅の良い店主は、露骨に面倒な顔をして追い払うように手を振った。


「うちだけじゃなく、ほかの店も同じだよ。数日前からこの近くで演習か何だか知らんが、王都から大勢の騎士さんがやって来て、みんなピリピリしてんだ。ったく、とんだ迷惑だよ」


 その瞬間、店を出ようと扉に手をかけていたリュシアンの動きがぴたりと止まった。


「……騎士、だと?」

「そんなに気になるなら見に行ったらどうだい? 何人かは街にいるはずだよ。」


 ここで聞くとは思いもよらなかった単語に動揺する。王都からの手紙には当然、騎士団がここへ演習に来ている、などという話は書いていなかったはずだ。しかしながら、シエナを救い出すなら渡りに船というもの。こちらは人手不足な以上、助けを乞わない手はない。


「……そうか。失礼する」


 彼が店を出ると、街にはほとんど人気がなかった。薄汚れた店の看板の他には、こそこそと周囲を伺うように出入りする、まばらな住人たち。リュシアンが異様な街の雰囲気に怪訝な顔をしていると、どこからか静寂を破る蹄の音が響いてきた。


「ブラッドリー卿〜〜!」


 街の重苦しい雰囲気を無視する溌剌とした声の持ち主は、先ほどまで一緒だったはずの教育係である。彼はダークブロンドのくせ毛をなびかせ、馬の手綱を慣れない手つきでぐいっと引いた。


「オルコット卿?! てっきり、もう出発されたのかと―」

「それどころじゃないんですよ〜〜! よいしょ、っと!」


 危なっかしい様子で馬から降りようとするのを慌てて制するが、当の本人は高揚しきった様子で一気にまくしたて始めた。


「なんと、王立騎士団がこの街の近くに滞在してるらしいんです! どうやらここらで、辺境騎士団との合同演習があるみたいで。ちょうど早馬もいたので、王都への伝達も代わりに頼んでおきました。」

「なるほど……店主の話は本当だったのだな。」


 ともすれば、あとは助力を乞えるかどうかだ。王都からの連絡を待つにしろ、すぐ近くにいる戦力を割いてもらえるなら、アル・シャンマールへの出撃も容易いだろう。


「はい。団長が側近を連れて、ちょうどこの街を視察に来ているところと出くわしました。」

「……そうか。なら、俺が直に頼もう。なら、きっとわかってくださるはずだ」


 リュシアンはセシルが駆けてきた方向を見やる。そして、数年ぶりに再会する顔見知り―いや、それどころか血肉を分けた兄である、騎士団長の厳めしい顔を思い浮かべていた。


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