3-6


 一日を終えた静かなクリニックの中で喬之介は、ひとり、それにしても紫陽花アジサイの根元に小舟を置いたのはどのクライエントなのだろうと、考えていた。


 考えながら、いつのまにか池永の考えに引き摺られるように、当然の如くクライエントが置いたことにしてしまっていることに気づいて、喬之介は苦笑する。


 そもそもクライエントとは限らないのだ、と喬之介はパソコンの電源を落としながら首を横に振った。逃げ出したどこかの飼い犬が隠したのでなければ、近所の子供の悪戯なのかもしれないし、偶然にゴミが引っかかっただけかもしれない。

 その中でもゴミと考えるのが妥当であると分かっていた。風雨の強い日があったのは確かであるし、誰かが置いたのだと考えるよりも遥かに自然なことだ。そもそも、いつから小舟があったのか分からないのである。

 

「先生、お先に失礼します」


 泉田の声に、はっと顔を上げた。

 

「お疲れさまでした」

「あ、忘れてるといけないんで……明日はオレ一日休みで、派遣さんだけです」

「うん、了解」


 言って俯き、デスクの上の書類を抽斗ひきだしに片付けていた喬之介は、視線を感じて再び顔を上げた。見れば、先ほどと寸分変わらず泉田は扉の前から動いていない。怪訝に思いながら「まだ、何か?」と声を掛ける。

 暫く何か言いづらそうに、大きな身体をそわそわと動かしていた泉田だったが、思い切ったように口を開いた。

 

「……紫陽花アジサイんとこの小舟なんですけど、あれって片付けちゃマズいですかね?」

「どうしたの?」 

「いや、なんか池永さんが……」

「ああ、そうなんだ」


 気にしていると言いたいのだろう。

 喬之介は屈み込むと、デスクの下から鞄を手に取って扉の方へ歩き出しながら「池永さんは?」と泉田に尋ねる。


「スタッフルームで、いま帰り支度をしてます。先生も、帰りですか?」

「うん、今日はもう帰ろうと思って」

「結構な雨、降ってますよ。歩いて? ですか? ご自宅の場所ぼんやりとしか分かんないですけど、意外と距離ありますよね?」

「あるね」

「じゃ、タクシー?」

「いや、歩いて帰るけど……なんで?」

「同じ方向にオレが通ってるジムがあって」


 ははッと声を出して喬之介は笑う。

「そうか。なるほど。歩いて帰るのが僕のささやかな運動なんだ、悪いね泉田くん」


 泉田は少しも悪びれた様子もなく、喬之介に向かって笑顔を見せた。


「残念。じゃあ、途中まで一緒に歩きます」

「いつもの自転車は?」

「朝から雨だったんで」


 カウンセリングルームから外へ出ようと扉に向かって歩いていた喬之介が、窓のない小部屋から明かりが漏れていることに気づき、足を止めた。

 小部屋の中を確認し、暗い部屋の中を見たくない喬之介は、きっちりと扉を閉めてから電気を消す。その間も、泉田は先ほどと同じように喬之介を待っていた。


「で、先生どうします?」

 何が、と喬之介は言いかけて質問の意味を思い出す。

 泉田の方へと歩みを進めながら「紫陽花アジサイのとこの小舟だったね。そうだなあ……僕としては、そのままにしておいてどうなるのか知りたいんだけどね」と口にする。

「意図的なものだって思ってるんですか?」

「さてね。分からないから様子を見ようと考えてるんだ」

「そうなんですね」

「で、池永さんが何か?」

「私がどうかしたの?」


 池永さんが何か言っているのかと、直接的な質問をしようとカウンセリングルームの扉を閉めたところで、不意に当の本人に背後から声を掛けられ、喬之介と泉田は飛び上がらんばかりに驚き振り返った。何も悪いことはしていないのだが、本人のいないところで話題にしていたことのきまりの悪さに、思わず二人で顔を見合わせてしまう。


「私に聞かせられないこと?」


 些かむっとした様子であるのは、いかに常日頃から無表情の池永であっても、この場合にあっては、さすがに察することが出来た。


「や、全然ですって。聞かせられない話じゃないですよ」


 泉田が身振りも激しく、顔の前で手を振りながら大きな声で否定すればするほど池永の顔が険しくなって見えるのは、気のせいではないだろう。


「じゃあ、なによ?」

「例の小舟。池永さんが気にしているみたいだから、片付けてはどうかって泉田くんに言われたんだよ」


 堪らずに口を挟んだ、当たらずとも遠からずといった喬之介の言葉に泉田は大袈裟な素振りで、ぶんぶんと頭を上下に振る。それを見て冷ややかな視線を泉田に送った池永は、喬之介に向き直ると「ごめんなさいね。気にしてるというよりも……ええ、気にしてるわね。仕事中に考えれば考えるほど不気味になってきちゃって。態度に出てたかしら? 泉田くんにまで心配かけてたなんて恥ずかしいわ」と肩をすくめて見せた。


「一緒に仕事してるんですから、心配くらいさせてくださいよ」

 

 気不味いのを誤魔化すためか、泉田はバックパックをさりげなく何度も背負い直す。

 ちら、と泉田を見て池永は、分かるか分からないからくらいの笑みを唇に浮かべた。 


「でも片付けられないんでしょう? そうでしょう先生?」


 そこで喬之介は、先ほど泉田にしたそのままにしておきたい理由を、池永にも聞かせたのである。

 聞いた池永は「そのままにしておきたいなんて理由はまあ、そうなんでしょうとは思っていたけれど……。いっそのこと気がつかなきゃ良かったわね」と言ったあとで、鞄を掛けている方の片腕を抱え込むように、自身の身体へぐっと引き寄せた。

 気づかなければ良かった、と思う落とし穴は、いつだってあちこちにあるのだが、人は案外器用にそれを避けているのだと喬之介は思う。それこそ、無数に開いているその穴の存在にさえ、人は全くのところ気づいていない。だからこそ足を踏み出した後で、跨ぐようにして両脚の真ん中に突然に現れたかに見える穴を目の前にした時、竦みあがりながら気づかなければ良かった、知らなければ幸せだったのにと自身に言い聞かせるのだ。

 

 気づこうが気づくまいが、依然として穴はあちこちに存在しているというのに。


「いっそのこと片付けちゃった方が、なにかしらのアクションがあったりしたり……しませんかね?」


 従業員出入り口を施錠していた喬之介の背中に向かって、後ろから傘で足りない部分の屋根をそれとなく気取らせぬように作っているつもりの泉田が呟く。


「思い切った意見だとは思うけど。まあ、分からなくもないかな」

「でしょう? もしあれが故意に置かれたものだとしたら、オレは誰かが動かしてくれるのを待っているような気もしますけどね」

「あら? そうなの?」

「だって、自分ではどうしようもないって感じがあるじゃないですか。例えるなら、レッカー車待ちみたいな気分……って、あれ? 池永さん、白い目でオレのこと見てません?」

「あら見てないわよ。心外だわ」

「そうですかー?」

「はい、お待たせ」


 ありがとう、と泉田を振り返りながら喬之介は自分の傘を開いた。従業員出入り口のある建物の裏側からクリニック正面へと回り通りへ出ると、何とは無しに黙ったまま三人で横一列に並び傘を広げ歩いていたが、程なくして横路地が見えてきたところで誰からともなく足を止めた。


「泉田くんは、ジム?」

「そうです。池永さんは、真っ直ぐ……?」

「ええ。雨も降っているし、真っ直ぐ帰るわ。じゃあここで。お疲れさま」

「お疲れさま。また明日」

「お疲れさまです」


 喬之介と泉田に小さく手を振ると池永は二人とは別れ、路地の中へと吸い込まれるように、その姿はだんだんと小さくなってゆく。

 街灯に照らし出された雨は白く光り、星の代わりに夜の隙間を埋めようとしているように見えた。

 「先生?」

 泉田に声を掛けられるまで、ぼんやりと雨で瞬く夜空を見上げていた喬之介は「うん」とだけ言って並んで歩き出した。

 絶え間なく落ちる雨粒が、傘に当たり心地よいノイズとなって喬之介を包み込む。

 ヒーリング効果があるとされる雨音はホワイトノイズとも呼ばれ、胎児のときに聞いた母親の心音などに似ていることから安心感を与えると云われているが、周波数が均等に混ざって出来た不規則なノイズが耳障りな音を掻き消しているに過ぎない。

 そうと分かっていても、こうして風のない夜に雨音で耳を塞がれ、傘の中に閉じ込められている感覚は、記憶にはない母親の胎内とは比べようもないのでどう違うのかは分からないが、外の世界から隔絶された繭の中にいるように感じて、喬之介は好きだった。

 

 やや俯き加減で黙ったまま、歩き続ける喬之介に泉田が、ちらちらと視線を送っていることに気づいて顔を上げる。


「何か考えごとですか?」

「えっ?」

「や、ずっと黙ったままなんで……一緒に帰るの迷惑だったのかなって」


 目が合った途端、心配そうに喬之介を覗き込む泉田の顔を見て、首を横に振った。


「違う違う。傘をさしていると雨音に引っ張られて何も考えられなくなるんだ。ぼうっとしてるだけ」

「あー、分かります。それって、よっぽど疲れてるんですよ」


 途切れることなく傘に当たる雨音の向こうから微かに聞こえる車のクラクションは、船の汽笛に似て、泉田の声も、自身の発する喬之介の声も、どこか遠くから聞こえてくる。雨の日の夜は、すべてが現実ではないような浮遊感を伴うのだった。

 不意に地面をたたく靴音が、二人分より多い気がして、喬之介は耳を澄ませた。

 足元に視線を落とす。

 喬之介の足が交互に地面を蹴る。

 その隣り、泉田の足が動いているのを目で追う。

 右、ひだり、右、ひだり、右、ひだり。

 重なるように動かす。

 同じように歩調を合わせている靴音があるようだが気のせいだろうか、と喬之介が思った時


「……とか……ですよね? 先生?」


 話しかけられていることに気づいて、我に返った。


「ごめん、全く聞いてなかった。もう一度言ってくれる?」

 慌てて泉田の方を見るも、気分を害した様子はなく、笑顔を向けられる。


「たいした話じゃないから、いいです。あ、信号って、点滅やば。オレあっちなんで、ここで。お疲れさまでした。ゆっくり休んでくださいね」


 点滅を始めた目の前の横断歩道を小走りに、雨の中でも颯爽と遠ざかってゆく泉田を立ち止まり見送っていた時、喬之介の耳に、居る筈のない三人目の靴音が同じように足を止めたのをはっきりと捉えた。

 ……つけられている。

 しかし、確かめようと喬之介が振り返った先にあったのは、突然向きを変えた不審な動きをする人とは関わりたくないとばかりに、傘で影をつくり濡れた路面を音高く足早に通り過ぎてゆく少ない人影だった。

 捉えたと思った筈の靴音は、傘の拾う雨音の向こうへと消えてしまったのか、あるいは喬之介の気のせいだったのだろうか。


 強まる雨脚は喬之介を傘の中に、ひとり閉じ込めるのだった――。

 

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