5-4


 「みんなで快気祝いするって決めたの忘れないで、さっさと帰ってきてよね。お祖父ちゃんだけじゃなくって大量の夏野菜も一緒に、秋パパを待ってるんだから。枯れちゃった分、モリモリ食べて元気にならなきゃ。でしょ? 喬ちゃんもだよ? 分かった?」


 病院から祖父の家へ向かうタクシーの窓の外、目にくっきりと濃い鮮やかな夏空は、喬之介が高秋の運転する車の後部座席から見た、あのときの空と良く似ていた。

 青い空に浮かぶ真っ白い入道雲が、よくある子供の絵日記で見るように、山のようなひと塊りに盛り上がっている。

 喬之介と二人で話したいことがあるから先に茅花だけ帰って欲しいと高秋が告げたのは、タクシーに乗り込んで直ぐのことだった。それを聞いて可愛らしく頬を膨らませた茅花が、憎まれ口とも言えない台詞を口にした後に渋々といった様子で頷き、途中で二人を降ろしたタクシーに乗ったまま一足先に家へ帰る姿を見送った後である。


「コーヒーでも飲むか」


 目と鼻の先にあるカフェチェーン店に向かって歩き出しながら、喬之介はあの夜、到着した二台のパトカーによる赤色回転灯の明かりで、祖父の家の周りが賑やかに照らし出された時のことを思い出していた。

 あのとき奇跡的に戻ったと思われた高秋の意識は、ほんの一瞬のことに過ぎなかった。サイレンの音と共に駆けつけた警官が家の中に入るや否や、素早く惨状を確認し、怒号を浴びせながら抵抗を見せることのない須見を取り押さえた時には、高秋の意識は既に再び失われた後だった。

 須見がパトカーの後部座席に押し込まれるのと前後して、高秋は救急車で病院へと搬送される。

 病院へ緊急搬送された高秋は、意識不明、頭蓋骨の陥没とあって即手術となるも幸いなことに、脳組織への損傷は見られなかった。それでも術後まる四日間、意識を回復することなく喬之介たちを心配させたものの、その後意識を回復、安静期間とリハビリを経てこの度、無事退院となったのである。


 赤色回転灯の明かりが、明滅を繰り返しながら辺りを赤一色に染め上げたあの夜。

 警官に取り押さえられた須見が、地面に顔押し付けられ、両手を後手に拘束されながらも禍々しい笑顔を浮かべて言い放ったひと言を、喬之介は忘れられずにいる。


――「これから、ですよ。先生を正しく幸せにすることは出来ませんでしたが、幸せになりたい人は、他にもいっぱいいるんです。そうでしょう? 驚くでしょうね。私が選ばれた特別な存在だと知って、私に出来ることを教えたら、その人達はどうするのか気になりませんか?」


 赤く染まる夜の中、爛々と目を輝かせ、歯を剥き出し奇妙な笑顔を張り付かせたまま須見は、喬之介の前から姿を消した。

 その須見の姿に喬之介は、何故か――或いは、これからだという須見の台詞が引き鉄になったのだとしても――終わりを見ながらも同時に、何かの始まりを見ているようだと言った母親の言葉を思い出すのだった。



「……すっかり、夏だな」


 ふっと柔らかく笑う気配に、喬之介は口をつけていたコーヒーカップから唇を離すと、声のした方へと顔を向ける。

 コーヒーを前に窓際のスツールに肩を並べて腰を下ろした喬之介と高秋は、会話のきっかけを探し、長い間、互いに黙ってカップに唇を寄せたまま、窓の外を見るともなしに見ていたのだった。


「あの日……覚えてる? あの日に、車の窓から見た空と良く似てるなって思ってた」

「何もかもが嵐が洗い流したような、嘘みたいに真っ青な空だったな」


 忘れられる筈もない、あの日。

 これからだって忘れようもない、あの空。

 答える高秋の声には、痛みと懐かしさが滲んでいる。もちろん、喬之介もまた同じ。


「……何から聞きたい?」


 正直に言えば、喬之介は何から聞けば良いのか、何が聞きたいのかも分からなかった。何ひとつ聞きたくないと思う一方で、出来るならば何もかも知りたいと思うが、そんなことはまた、不可能だとも分かっていた。

 両肘を突き、手で包むようにして持つコーヒーカップに唇をつける。とっくに冷めてしまっているコーヒーをほんの少しだけ口に含むと、窓の外を眺めた。

 温くなった液体が喉を滑り降りてゆく。そうやって時間を稼ぎながら、無意識のうちにアイスコーヒーにしなかったのは、氷が溶けて薄くなる前に話のきっかけを掴めそうになかったからだと、分かっていたことに今更ながら気づいて自嘲気味に頬を緩める。

 喬之介が微かに笑ったことを目敏く気づいた高秋が「ごめんな」と小さく謝った。


「……何が?」


 言って喬之介は、コーヒーカップの中を覗き込み、そこに小さく映る自分の顔を見つける。両親の特徴を、それぞれ受け継いでいる自分の顔を。


「俺が、ライターなんて落としたから。そんなことなければ……」

「そうだけど、そうじゃないよ」


 高秋がライターを落としてしまったことは、成る程、これこそ単なる偶然に違いないのだろう。

 そしてその偶然が齎した結果の始まりを遡るならば、どこまでだって遡ることが出来るのだ。喬之介の母親がライターを高秋に贈らなければ、或いは母親と父親が出会わなければ。

 そうやって後ろを振り返り、枝葉に分かれた幾つもの道を、偶然に導かれるようにして選んで来たここまでに至る道を、眺めながら頭を抱える。

 あのとき、あんなことさえなければ。

 起きたことの結果だけを振り返り見るなら、全てが必然であったかのように思える。

 だが――


偶々たまたまライターが落ちていたにせよ、掌の中にあったライターを使って火を付けたのは、僕の意思だった」


 喬之介には『火を付けない』という選択肢もあったのだから。

 物事とは、まるで誰かの見えざる手によって配され、動かされているかのように進み、様々な偶然によって引き起こされるものではあるが、都度つど選択しているのもまた、自分なのであると喬之介は、気付かされたのだった。

 偶然が導くことは有るにせよ、岐路に立たされた時、どちらか一方に向かって足を踏み出すのは自分自身の意思である、と。


「お父さんは、どうなったの?」

「……分からない。最後に見た時は生きてたけどな。俺がしたのは、兄貴が手に掛けようとしていた茅花を奪い取って抱き抱えたところで立ちこめる煙に気づいた。急いで戻ったら火の海を前に立ち尽くすお前を見て……そのままお前の手を引いて、家から出るのが精一杯だったんだ」


 確かめなくても、分かっていた。

 喬之介が、父親を死に至らしめたのだ。

 愛する人を手にかけた時に、すでに心は死んでいたのだとしても。

 両目をきつく閉じる。

 どのくらいそうしていたのか。喬之介が視線を感じて再び目を開けたとき、高秋は窓の外を眺めていた。その横顔からは、何も読み取ることは出来なかった。

 

「……ずっと不思議だったんだけど、なんで、あの日にお父さんは帰って来たの? アキ叔父さんが来たのは、どうして?」

「何日か前に、兄貴に呼び出されてたんだよ。互いに都合がつくのが、あの日だった。三人で話そうって。義姉さんに言ってなかったのは、俺も知らなかった」


 突然現れた高秋を前に、喬之介の母親がどのような反応を見せるのか、父親は知りたかったのだろうか。

 それほどまでに、父親を疑心暗鬼に取り憑かせる何かが、あるのだとしたら……。


「やっぱり茅花は……アキ叔父さんの子だったりするの?」

「まさか……違うよ。兄貴も疑ってたが茅花は、俺の子じゃない。兄貴は信じていないようだったけど、彼女とはそんな関係には一度だってなってないんだから」

「でも……ということは……」

「……ああ、ずっと好きだった。初めて会ったときから、ずっと。だからと言って、どんなに願ったって俺は兄貴にはなれなかった。兄貴の代わりにも、なれなかった」

「ずっと……?」


 だけど、ひょっとしたらと言いかけた言葉を、喬之介はコーヒーカップの縁で口を押さえ苦い液体と共に飲み込む。

 高秋と一緒にいるときの母親の姿を思い出しながらも、それは憶測では決して口にしてはいけない言葉だと小さく首を横に振った。

 

「俺たちは思い違いをしてたんだ。俺たち、というのは祖父さんと祖母さんだ。お前らが祖父さん達と折り合いが悪かったのは、兄貴の所為なんだよ。兄貴は確かに優秀だったかもしれないが自尊心が高くて、いつだって傲慢で、周囲の人間とは上手くいって無かった。だからそんな兄貴が、唯一の理解者である義姉さんを閉じ込めて孤立させているように見えたのは当然だった。籠の鳥だって……周りが口を出せば出すほど、酷くなっていった。だけど、義姉さんは籠の中に囚われていることを嫌がってなかった……それどころか……」

「……うん。分かるかもしれない……二人は、長く共依存の関係にあったんだね」


 その二人の特殊で歪んだ関係を、正しくないと世間はいうだろう。

 だが、誰にとっての正しさであるのか。

 籠をじ開け、小鳥を空に向かって放った後、自由になったことで小鳥は幸せになったに違いないと満足げに思う人達は、広い世界を不自由だと感じる小鳥がいるとは、思いもしないのだろう。

 籠の中でしか生きられない鳥もいるのだ。


 それでもおそらく喬之介の母親は、籠を無理矢理に抉じ開けるでもなく、柔らかな風を運び続ける高秋を通し、青い空があることを思い出したに違いない。

 いつからか籠の扉が閉まらなくなっていることに気づいた父親は、知らず失ってしまう恐怖に耐えられなかったのだろう。

 喬之介があの日、自ら火を付けたのと同じ。いつ訪れるか分からない終焉を怯えて待つくらいならば、自らの手で終わりにすればよいと、父親も考えたに違いなかった。

 

「アキ叔父さんが、お母さんを好きだっていつバレちゃったの?」

「さあ……いつだろう。振り返ってみれば、最初からバレてたんじゃないかって思うけどな。まだ子供だったってのもあるけど、隠したり、嘘を吐くのは苦手なんだ。いや、苦手とは違うな。嘘が嘘を呼ぶのが、嫌なんだ。

 それなのに気持ちを押し殺すことで、結果的に自分にも周りにも嘘を吐くことになったのは、義姉さんの……そう、彼女の傍に居る口実が欲しかったからだ。

 誰も傷つけないようにする為の嘘なら、構わないんじゃないかって。

 それが、誰のためなんかじゃなく、全部自分の為の嘘だったんだって気づいたのは、情け無くもあの日だった。

 兄貴は、彼女の言葉を信じることが出来なくなっていた。彼女を庇って言った俺の言葉は、全部裏目に出たよ。俺が何を言ったところで嘘にしか聞こえないのは、当たり前だ」

 

 掛け違えてしまったボタンは、戻ることはなかった。


「ごめんな」

「……え?」

「幸せってのは形がなくて、目に見えなくて、直ぐに分からなくなってしまう。それでも喬之介の幸せは、温かな彼女の体温を伴って傍にあったのにな。あの日まで、お前は手を伸ばせば確かにそれに、触れることが出来たのに結果として」


 俺が、奪った――


 テーブルに肘を突き、額に組んだ両手を当て、顔を俯けた高秋の背中は、こんなにも小さかっただろうか。

 喬之介は、その背中に、静かに柔らかく触れるように声を落とした。


 ――そんなことはないよ。


「それに、僕の方こそ……」


 日々の幸せを脅かす恐怖とは、様々な形となって、いつらに傍に現れる。

 それと分かっているからこそ、人は誰しも未だ見ぬ恐怖に怯えるあまり、心のうちに不安というすすを集めてしまう。やがて真っ黒に膨れ上がった煤は、形を成し、怪物となるのだ。その心の裡に棲む怪物に、飲み込まれてしまった父親。飲み込まれそうになった喬之介が、してしまったこと。

 高秋が、喬之介に向けた祈りの言葉を思い出す。想い願いを込めた、高秋の優しさを。

 喬之介がしたことは、決して忘れてはいけないことだった。同時に、忘れなければ生きてはゆけぬことでもあった。

 そうやってずっと、怪物から喬之介を守ってくれていたのは、他でもない、高秋なのである。


 

「……アキ叔父さん、今までありがとう」






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