3-4


 須見との箱庭療法も三回目を迎える。


 この日、これまでと同様に予約の時間に余裕をもって現れた須見は、名前が呼ばれ待合室からカウンセリングルームに入り、ソファに腰を下ろすや否や、箱庭を創りたいと自ら申し出た。喬之介は少し驚くも、須見が望むまま箱庭の製作に取り掛からせることにする。

 そうやって窓のない小部屋へと案内した後で喬之介は、入り口の前に立ち、箱庭の前に立つ須見の背中を見るともなしに見ながら、泉田の『考えようによっては、クリニックもまた海の中』という言葉を思い出していた。


 というのもこれまでの喬之介は、クリニックの役割とは、夜の嵐の中の灯台のようなものであるべきだと考えていたからだ。

 正しい方向へと導く光である為に、その灯りがどんなに小さくとも、嵐の夜に迷えるクライエントから見えるよう決して僅かな光だろうとも絶やしてはならないと、肩肘を張っていた喬之介にとって、海の中にあるとする泉田の言葉は思いも寄らないものだった。

 だが、一方でクライエントにとっての知らない世界を、それまで知り得なかった自身の内界とするのならば、確かにクリニックは海の中にあると言えるのかもしれないと、泉田の言葉が持つ意味を考えていたのである。

 

 思想に耽る喬之介の前で須見は、スムーズに村と人の配置を終えると、続いて造型物の置かれた棚から白い真綿を取り出して箱庭の中に敷き詰めていく。森を表現した樹々や建物の屋根の上も、丁寧に砂を掘り、せっかくこしらえた川の上にも同様に、たっぷりと載せた。

 箱庭を覗き込むように少し前屈みの姿勢で、迷う仕草を見せたあと、棚に取って返し小さな黄色いバケツを手に戻ると、子守人形の右手側の地面に置いて、その中にちぎった綿を詰める。

 再び棚の前に戻ると、今度は灰色の狼の造型物を取り出し、朱い祠の近くに置いた。そうした後で須見の手は、迷いなく茅葺き屋根の家の脇に置かれていた鶏の造型物を、箱庭の外に出したのである。

 須見はここにきてようやく箱庭から離れて全体を見渡し、灰色の狼の造型物の位置を祠の近くから真正面にずらした後、喬之介の方に向き直った。

 満足そうな顔で、ひとつ頷いたあと


「冬になりました」

 

 喬之介が話しかけるより先に須見はそう言うと、返答を聞かぬうちにまた、やり残したことを思い出したとばかりに唐突に背中を向け、年寄りの男女の人形とスーツを着た男性の人形を箱庭の外に取り出した。その後で、左手に持っていた残りの綿を右手に持ち替え、田んぼとしている人工芝の上に、そっと載せたのだった。


 箱庭の中は、前回の秋から須見の言うように、見事な冬景色へと変わっていた。

 そう冬、だ。

 春のあと夏はなく、秋が来てのち『冬』が訪れたのである。順序としては間違ってはいないが、季節の中で夏だけが失われているのだということが、ここに来て明白となった。


「それは、どうして外に?」


 両腕を組んだままの喬之介が、それ、と箱庭の外へ出した三体の人形を示しながらの問いに須見は、ああ、と頷く。

「ここに置くのは、おかしいと思ったんです。冬には田んぼの仕事は出来ませんから」

 ここに、と言いながら須見は白い真綿で隠された人工芝のある箇所に視線を送った。


「だとしたら、いま須見さんによって箱庭の外に置かれた人形達はどこに居て、何をしているんだろう?」

「家の中で、暖かくしていると思います」

「そう。では家の外にいる人形達は、何をしているのかな?」


 今度は喬之介が、背中に赤児を背負い込んだ着物を着た子守人形に視線を向けた。次に家の前で手縫いを被ってしゃがみ込む人形へと視線を移動させる。

 

「家事と子守ですよ」

 須見の声には、何を当たり前のことを聞くのだ、という響きがあった。

「外は積もる雪があるのに? 雪は止んでいるから外に出ているとかですか?」

「いえ、雪は降っています。それに家事や子守に天候は関係ないですからね」


 そうでしょう? と言わんばかりに須見は喬之介を見返す。

「なるほど。この人形達は、どんなことを考えているのかな?」

 一拍置いた後、須見は、うっすらと奇妙な笑みを浮かべる。

「寒いし、家の中に入りたい。じゃないですかね? それに、ほら」

 朱い祠の前に置いた、灰色の狼の造型物を指差した。

「狼が出るんです。外は危ないから、家の中に入りたい。でも、やらなくてはいけないことがあるから、入れない。可哀想ですけど仕事というものは、得てしてそういうものですからね。どんな理由があろうと、割り当てられたことは、きちんとやり遂げなくてはなりません」

「この狼は、怖がられているんだね?」

「狼は獲物を見つけたら襲いますからね。鶏を食べ……あ、もう食べた後だった。鶏は、食べられてしまったんです。ほら、箱庭の外に出してあるでしょう?」

「うん。本当だ。鶏は外に置いてありますね。狼は鶏を食べた。獲物は、もうない。それで狼はどこへ帰るのかな?」

 喬之介は、須見を正面から見据える。

 やや、上気した頬で須見は答えた。


「獲物は、まだありますよ」

「え?」


 須見の視線が動き、赤ん坊を背負う子守人形と家の前で手縫いを被ってしゃがみ込む人形を捉えた。 


「そうなんだ。そもそもこの狼は、どこから来たんだろう?」

「この森ですよ」

「じゃあ、森へ帰ったりとか」

「森へ帰る? まさか」

「帰らないの?」

「帰りません」


 実のところ箱庭を創る時には、誤魔化そうと思えばそれも可能だ。だが、当たり障りのないものを、悟られぬように誤魔化して創っているつもりで、造型物を箱の中に置くうちに、知らずその人本来の内側にあるものが出現してしまうのが箱庭なのである。

 また、誤魔化そうとする意図を持つ者は、正常な感覚を持つ者だけではない。夜の嵐の海へ出ていると認めたくない者の中にも、存在する。

 いちばん最初に須見が創ったものは、典型的な中年男性が選ぶ風景だった。日本風の木造建物、箱庭の隅に作られた森、森の中の朱い祠。箱庭の中に流れる小川。

 誰しもが懐かしさの感情を伴う田舎の原風景は、自身の内側にあるものを悟られぬようにするための最適な隠れ蓑となる。

 自身を偽ることに長けている人ほど、却ってありきたりな風景を作りがちだった。


 二回目に箱庭を創らせた時も、同じ風景を選んだ須見は、意図的にせよそうでないにせよ、誤魔化そうとしているもの、秘めておきたいものがあることを、喬之介は見て取ったのだった。そして出来上がった秋の季節を迎えた箱庭を前に、夏はないと須見がきっぱりと言い切ったとき初めて、厚い布で覆い隠されていた内界の一端が捲れ上がり、僅かに顔を覗かせたのを喬之介は感じたのである。

 その後も繰り返し同じ風景を創らせることにしたのは、須見の内界を覆う布をやがて取り払うべく意識を深く掘り下げさせる、その為だった。

 どんなに取り繕い誤魔化そうとしても、細部を変え、同じ風景を繰り返し製作させるうちに、やがて自身の奥深くにあるものが、ぞろりと顔を覗かせる。秘められた深い世界、そこにある自身にとって隠しておきたい面が顕になってくるのだ。

 須見の奥深くにある非日常的なものが、ここにきてようやく姿を現し始めた。それこそが、喬之介の待っていたものであった。

 少し質問を変えてみる。


「狼が、この位置にあるのはどうして?」


 朱い祠。

 須見の心の深層部である鬱蒼とした森の入り口に置かれた、村を守り御利益を齎すとされる祠は、現実世界に於いて彼自身に何らかの精神的守りがあるということを表している造型物であるのだが、その朱い祠は今は雪を被り姿を半分ほど隠している。

 その祠の前に、森へとする灰色の狼が配置されていることの意味をどのように捉えるべきなのだろうか。


「どうして……ですか? ここにあるのが、しっくりくるといいますか……うーん。ああ、そうだ。もしかしたら狼は、この森の中から出て来たからですかね」

「出て来たから? 森から出て来たからここに置かれているの?」

「そうですよ。森に隠れようと思えば、ここならすぐですから」

「隠れる?」

「見つかったら駆除されますからね。害があるんですから当然ですよ」

「そうなんだ。狼は空腹が満たされたあとは、どうするの?」

「満たされたら? どうするとは、どういうことですか?」

「お腹がいっぱいになったら、森へ帰るとか」


 何を言っているのだという顔で須見は、喬之介を見る。


「先ほども言いましたが、帰りません。せっかく出て来たんですから、帰るわけがないでしょう? 村の方が食べ物には困りませんし、それに今はお腹がいっぱいでも、また空きますよね」

「せっかく? また、お腹が空く? だとするなら、狼は……」

「ええ、ずっと村にいます。誰かが狼を駆除しない限りは、ずっと」

「森へ帰りはしないけど、逃げるってこと?」

「狼の方にすれば、駆除されたくないですからね。見つかれば逃げるでしょうし、森にだって隠れますよ」

「それでも森の中には、帰らない」

「そうです」


 狼は、森の奥から出て来てしまった。

 逃げることはあっても、もう森へは、帰らない。

 村に住み着くというのだ。


 須見は喬之介から目を逸らすことなく、上気した頬もそのままに唇には薄く笑みを浮かべていた。

 唐突に訪れた耳の奥が痛くなるほどの静寂が、狭い部屋に満ち、喬之介は膨れ上がる見えないものに押し潰されそうになる。

 

「……狼は……狼は、なのかな?」


 まだ聞くべき時宜ではないと分かっていたが、気づいたときには声に出していた。


「誰? 狼は、狼ですよ。それ以上でも以下でもありません」


 途端に興味をなくしたように、ふいっと顔を背けた須見を見て、質問に失敗したことを喬之介は痛感する。


 踏み込むには、早過ぎたのだ。

 

 

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