2-5


「勘の良い子供だった、と前回の面接でおっしゃっていましたね」


 次回の面接の日時を須見に確認する前に、喬之介は聞いておきたいことがあった。

 ソファに座った須見が、身体を落ち着けるのを見計らって喬之介が一人掛けの椅子に腰を掛けながら尋ねたのは、初回時の面接で須見の語った生育歴の中の、小さい頃から勘が良かったという部分である。


「……ええ、そうです」

「良かったら、どのようなことか具体的にお話を願えますか」


 束の間、虚を衝かれたような顔を喬之介に向けていた須見だったが、具体的にという言葉を何回か転がすように口の中で唱えた後、一度きゅっと唇を引き結んでから話し始めた。

「ええと例えば、家に電話が架かって来るとしますよね?」

 首を傾げながら話す須見の言葉に、喬之介は頷き、先を促す。

「その電話が鳴る少し前に、誰々さんから、もうすぐ電話が来るよと母の元まで走って行きよく教えていました」

「……誰々さん? 架けて来る相手の名前まで、分かったのですか?」

「そうですね。まあ、こう言ったら何ですが、電話を架けて来る人は限られていましたから。それでもピタリと当てるので、あんたは気持ちが悪いくらいに勘が良いって母にはよく驚かれてました」

「なるほど。電話だけですか?」

「来客も分かりましたけど、電話ほどは当たりませんでした。これから来そうだな、あるいは明日辺り来るな、と思っていても何日かズレたり。それに……家に来る人は誰でも分かったのかと言われれば違って、荷物の配達とか訪問販売とかは、それこそ全く分からなかったですね。大人になった今、考えてみると……近しい人達にしか勘は働かなかったのかもしれません」

「その他には、何かありますか?」

「うーん。後は、そんなに特別なことじゃないと思うんですけど……」

 口籠る須見を、喬之介は黙って見つめる。

「トランプのババ抜きは強いですね。誰がジョーカーを持っているのか、すぐに分かるんです。あとUNOとかも得意でした。左右の掌のどちらに物が入っているのかを当てるのとかも得意です」

「そうですか。でしたら神経衰弱とかは、どうですか? それも得意?」

「いや、そういえば神経衰弱は、これまでに得意と感じたことはありませんね……なので、ごく普通なんじゃないかと思います」

「それらは今も変わりなく?」

「トランプをすることは、そうそうないので分かりませんが……電話は、今は全く。実家暮らしに変わりはないのですが、何なんでしょうね? 昔ほど家に電話が架かって来ないからでしょうか。それとも子供の頃は母親の気を惹こうと……いや、驚かせたかったからなのか……」

「気を惹こうとしていた? 驚かせたかった? どちらにせよ、お母さんから注目されたかったということに違いはないですか?」

「そう聞かれると……まあ、そうなんでしょうね。母は働いていて不在が多かったものですから。しかし……気を惹こうとして、というのは、なんて言うか……少し違うかもしれません。それだと、注目されたいがために言ってるみたいで。驚かせたかった、の方が近いですかね」

「なるほど……分かってしまったことを披露したい、ということに近いのでしょうか」

「そうです。分かってしまう、だから言いたくなるのかも知れません。凄いね、と言って貰いたかったのかも」

「どんなふうに、分かるものなんですか?」

「どんな……そう……ですね。何かをしていても、ふっと急に相手の顔が浮かぶ、といったのが感覚的に正しいかもしれない」

「家の電話では、今はないとおっしゃっていますが自分のスマホ宛ての電話やメッセージとかは、どうですか? それは分かりませんか?」

「ああ、それなら時々あります」

「相手はやはり、友人とかの近しい人ですか?」

「いや……その、近しいとは言い切れないですね。仕事の関係が多いんです。それも、ミスやクレーム関係の……これがまた、分かっていても出ないわけにはいかないですからね。実にストレスでしたよ」


 だがストレスを感じていたとしながらも、その表情は変わることなく、淡々と話をする須見を見て喬之介は軽く頷くだけに留めた。

 また、頷きながら時計を見れば、面接の時間を五分以上過ぎてしまっている。


「それでは今日はこの辺で。次回、同じ曜日の同じ時間で大丈夫ですか? その時また箱庭の製作と振り返りをしましょう」


 本日の面接の終了を須見に告げながら、来週の約束を確認するその一方で喬之介は、このこともまた一種の共時性シンクロニシティのひとつなのではないかと考えていた。

 従来から使われている『虫の知らせ』『夢枕に立つ』という言葉からも分かるように、不意に頭に浮かんだ人物や、思いを馳せていた人物から、電話が架かってきたり、メッセージを受け取るような不思議な巡り合わせに出会うことは、誰しもが経験するところである。

 つまり子供の頃の須見は、他者と母親の共時性を深層意識を介して、それと知らず受け取っていたのかもしれない。

 と、するならば……。

 いや、それはあまりにも飛躍し過ぎだと、喬之介は脳裏に浮かんだ考えを咄嗟に押し留めるように、ぐっと一瞬、両眼を閉じた。



「……ありがとうございました」


 須見のその声と共にソファから腰を上げる気配が、思考の海を彷徨っていた喬之介を我に返す。

 扉に向かって歩いていた須見が、何を思ったか、ふと立ち止まり喬之介を振り返った。

 

「先生は、煙草を吸いますか?」

「……? いいえ」

「これまで、一度も?」

「ええ、そうですね。それが、何か?」

「じゃあ、アレは先生じゃないのか……」

「須見さん……?」

「気にしないでください。おそらく私のです」


 ――それをとするのは、実際の風景であるのか頭の中の映像であるのかを、喬之介が須見に尋ねる前にカウンセリングルームの扉は音を立てて閉まってしまった。

 果たして須見が見たのは、何だろう。

 追いかけてまで問うべき事だろうか。

 翳る部屋に一人残された喬之介は、つと窓の方へと視線を送る。


 暗い筈だ。

 いつの間にか、雨が降りはじめていた。

 

 そのとき不意に目隠しを外されたように、現実世界が、雨音と共に、どっと喬之介に押し寄せた。

 突然、放り出された自身を持て余す不安定な足元の感覚。何重にもぶれる自身の輪郭をひとつにしようと、その長い一瞬、瞬き繰り返した。

 再び、自分が重なる。

 足元の感覚が戻る。

 喬之介は、思わず目頭に指先を当てた。

 頭を左右に振る。


 気を取り直して、須見の製作した箱庭を記録に収めようとデスクまで歩きカメラを手にしたところで、泉田がカウンセリングルームに顔を覗かせた。

 どうしたのかと目で問う喬之介に、泉田は、次の面接者が待合室に姿を見せないことから、連絡を入れたことを告げに来たのである。


「クライエントは、何だって言ってるの?」

「雨が降っているので、家から出たくないそうです。先生には来週の同じ時間に行くから、そう伝えて欲しいって言ってます」

 どうしますか? と問う泉田に「分かった、それで構わないと言ってるとクライエントに返事をしておいてくれるかな」と喬之介は答えたあと、手にしたカメラを抱えるようにして作業部屋に向かった。

 

 予定よりも早く降り出した、雨。


 梅雨入りは、間近だった。

 来週もまた家から出られないとなると、このクライエントは、このまま治療から離れてしまうことも考えられた。

 天気を味方につけることすら叶わないクライエントの回復への道のりは、遠く、酷く困難になる。

 どうしてかといえば、不思議なことに、回復へと向かうクライエントは、クライエント本人や治療者である喬之介がそれとまだ分からないうちであっても、行きたくない場所へ行くときに、それが病院であれ学校であれ、会社であれどこであっても、どれほど行きたくないと思い何かに邪魔されないかと願うものの、幸か不幸か、どのようなものにも邪魔されない。それどころか雨の予報が外れ、晴れ間が覗いたり、台風は温帯低気圧に変わり、目的地までの途中、信号が全て青だったりとする。


 ――行きたくないのに、どんな理由も見当たらないんです。

 


 一方で、どんなにカウンセリングを重ね、自身と向き合う努力をしていても回復から遠いクライエントは、行きたくない場所へさあ行こうと覚悟を決め出かけるその瞬間に、玄関の鍵を失くしたり、雨が降ったり、電車が止まったりしてしまうことがあるのだ。

 その違いは、どこにあるのか。

 考えれば考えるほど、導き出される答えはひとつしかないように喬之介は思う。

 『運』だ。

 そして悩みや問題を抱えている人は得てして、話を聞くと、運の悪いときに運の悪いことが生じているのだった。そしてそれはドミノ倒しのように、最初のひとつが倒れたとき、その不運の始まりにあってさえ、本人の責任はあまり問えない場合が多かったりもする。

 喬之介は、あるクライエントを思い出した。誰だって、家を出るときに傘を持って行くのを忘れたことが、まさか、この先の不運の始まりとなる最初のひとつであるとは思いもしないだろう。


 そのクライエントは普段から謹厳実直を旨とし、それまでを生きてきた。

 その日、朝から雨模様の空だった。折り畳み傘を持って家を出たつもりが、持っていないことに気づく。

 雨が、降り出した。

 不運の連鎖の最初となるドミノの駒が、倒されたのは、この瞬間。

 傘を持っていなかったから、コンビニで傘を買うことにしたから、会計の前の人が宝くじを買っていて興味を持ったから、今まで買ったことはないのに何故か買ってみたくなったから、高額当選してしまったから、仕事が馬鹿らしく続けられなくなったから、時間を持て余すようになったから、賭け事を勧められたから、人が集まるようになったから、金が底をついたから、借金を重ねるようになったから、人を騙すことに慣れたから、気づいたら何もなかったから、これまでの自分とこれからの自分が分からなくなって、そこで謹厳実直を旨としていた筈の自分は、偽りの自分であったのだと知る。

 そうでなければ、仕事を辞めたりなどしないし、賭け事に嵌ることもない。金が底をついたとして借金をすることもない。

 だが最初の駒は、倒れてしまった。そのあとも、ドミノの駒は速度や大きさを増し、どんどんと倒れてゆく。

 気づけば瓦解したドミノの駒の中で、呆然と立ち尽くす自分がいるのだ。


 こうして何もかもを喪ったクライエントは、精神を病むことになる。


 その原因を遡ってよくよく聴いてみれば、物事の発端が、出掛ける時に傘を持っていなかったことにあるとは本人でさえ思いもよらないことだったであろう。

 このように個人とは全くの関係ない天候さえも、何かと結びつく『偶然』となり非常に大きな意味を持つ巡り合わせとなることがある。

 これとはまた別に、偶然にしてはあまりにも意味の深い偶然と考えられる現象を、クライエントを通して度々目の当たりにするからこそ喬之介は、物事とは、あらかじめそうなるかのように決められているのではないかと訝しく思うことすらあるのだった。

 物事とは、まるで誰かの見えざる手で手配され、動かされているかのように進む。偶然という形を伴って現れる。

 偽りのない自分を求め、深く自己を見つめることになるきっかけが、偶々たまたま、傘を持っていなかったことにあるように。


 須見が喬之介のクリニックに現れたのは、やはり『意味のある偶然』であったのだ。

 それは、須見にとって意味があるものであるように、喬之介にとってもまた意味があるに違いないのだ。


 須見の箱庭を見下ろす。

 須見の頭の中に視えるようになった映像の、その偶然の始まりがどこにあるのか、それを知るきっかけとなるものが、この箱庭の中に、それと気づかないだけで既にあるだろうか。

 前回と同じように、正面にカメラを構え画面を覗き込む。

 赤児を背負った人形は、新しく置かれた橋と直線を結ぶ位置にあった。

 村の中にあって、大人の人形はどれも皆、相変わらず赤児を背負った人形からは背を向けている。

 あの橋は、どのような変化を齎し、何を結ぶというのだろう。

 シャッターを押し、カメラを下ろす。

 デスクに戻って窓を開けた。

 雨の匂いに混じりメンソール煙草の匂いがする。誰かが近くで雨を見ながら煙草でも燻らせているのだろうか。

 懐かしいその匂いは喬之介に、昔の記憶を呼び覚ますのだった。





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