44.Wimper

 フードの女が動いてからの、イトの行動は早かった。

 コンマ1秒の後、気づけば銃声が辺りに響く。

 硬く、爆ぜる音。

 けれど銃弾はそいつじゃなく、そいつがいた場所のコンクリートを抉るのみだった。

 瞬間、凄まじい速度で、そいつはイトとの距離を詰めた。

 そいつの懐から、何かが飛び出した。


「ッ! クソ――」


 金属が削られるような、甲高い音。

 イトとそいつの間に、火花が飛び散ったのが見えた。


「ハハ、ハハ」


 鍔迫り合いになった状態で、そいつはどこか無機質な、けれど幼い声で辿々しく笑う。それがどうにも人の発するものに聞こえなくて、俺は息を呑んだ。

 

「なに、笑っ、てんだ!」


 イトがそう言って、そいつを思い切り蹴る。耐えれなかったのか、はたまた避けるためのわざとなのか、そいつは蹴られた方向そのままに吹っ飛んで、再び両者は距離を取った。

 そこで初めて、俺はそいつが持ってるものをみることができた。


「丸鋸……?」


 俺は思わずうそぶいた。それは工事現場で使われるような、電動で動く丸鋸、ヤツはそれを両手に一つずつ携えていた。普通の丸鋸と違うところは、安全用のカバーが外れていること、刃がはるかに肉厚であること。

 ……そして、血の痕がべったりついていることだ。


「まーた刃物かよ、どいつもこいつも……」


 イトが辟易としたように悪態をつくのを見て、そいつは被っているフードの下で肩を震わせ、笑って、そしてイトと俺を交互に見た。

 気づけば、遠くから悲鳴が聞こえるのみで、辺りに人はいなくなっていた。

 そいつは言った。


「ハハ、ハ….…いいだろ、なあコレ。包丁、包丁とかより……ハハ使いやすい、な?」


 フードを被ったそいつは、さっきに比べて明らかに呂律が回ってなかった。機械みたいな声のせいでよくわからないが、恐らく極度の興奮状態なのだろう。


「お前!」


 いきなり、ぐりんと首を回して俺に向け、そいつは大きな声で俺に叫んだ。

 かなり驚くのも束の間、そいつは矢継ぎ早に言葉を続ける。


「お前、お前動くなよ、イトと遊んでるの邪魔したら、切るぞ? 切るなって言われたけど切る、ハハハハ」


 そいつはフラフラしながらそう言って、俺に丸鋸を向けた。


「……ヤバ」


 フードを被ったままだが、それでも向けられたその目が、相当イってることがわかった。


「……余所見してナンパたぁ余裕だなおい、変態野郎」


 イトがそう言うと、そいつは彼女の方に向き直した。イっちゃった目と表情のセットはそのままだ。


「ハハ、ハハ、いいだろ、いいだろハハつれない……もっと、凄いこと、できるんだ。見せる。見せる」


「びっくり人間コンテストならよぉ、テレビ局行けよ。それとも続けるか!?」


「続ける……? それで? それで?」


「あ……ッ!?」


 その問答で、イトと俺は気づいた。

 彼女のリボルバーが、惨たらしいほどひしゃげてしまっていた。銃本来の機能を果たさないことが、容易に想像できるほど。

 あの時だ、フードの女と鍔迫り合いになった時、イトはあの銃で受けた。


「余所見、余裕」


 そいつは凄まじい力で地面を蹴って、加速した。まずい!


「避け……!」


 イトに向けたその言葉は、その言葉は、しかし間に合わなかった。


 そいつは彼女を、その十全な速度で思い切り蹴った。


 酷く、鈍い音がした。


「ッ……!」


 皮膚が裂ける。

 肉が抉れる。

 骨が砕ける。


 それを想起させるのに十分なほどの鈍重な音と共に、イトは吹き飛んだ。

 吹き飛んだ先にあった看板や空びんが、派手な音を立てて砕け散る。

 いや、そうじゃない。

 そんなこと言ってる場合じゃない。


「ッ……ク、ソッ……!」


「イト!」


 イトは……生きてる。だが怪我がひどい。腹の部分が大きく、赤黒く染まっている。

 あいつはなんだ? 強すぎる。あのイトが、手も足も出ないままやられた。あいつは何者なんだ?


「……終わり、終わり? 嘘だろ?」


 フードを被った女は、ゆっくりとイトに近づく。その手にある丸鋸はけたたましい機械音を響かせながら、ブレードを高速で回転させていた。


「……びっくり人間が」


 イトの弱々しい悪態も、ブレードの回転音にかき消される。

 あいつは何者か?

 違う、そんなことは今どうでもいい。


 このままじゃ、イトが死ぬ。


「……もう少し、もう少しできると思ってたのに。残念、残念だ」


 フードの女は言いながら、イトの目の前で止まる。彼女を見下ろし、さっきより無気力気味に、丸鋸を持った腕を上げる。


「Aランクじゃ、やっぱ無理」


 ブレードのがなるような回転音は、きっと聞こえてるはずだろう。

 イトは、けれど、動けなかった。



 気づけば、俺の足は動いていた。



「んお!?」


 全身を使って、がむしゃらに体当たりをかました。

 想定外の出来事だったのか、女はそんな声を出してバランスを崩し、俺と一緒に地面に倒れた。

 女とぶつかった衝撃、身体がコンクリートに擦れる痛み、殺される恐怖。

 全てがゼロ距離にあるのに、全てが今はどうでもいいことのように思えた。


「バカ……ハリ……やめッ……」


 イトの声が聞こえた気がした。けれどそれを気にかける余裕は、今の俺の脳にはなかった。


 こいつを殺さなくては。


 俺の頭はその言葉に支配されていた。気づけば俺はフードの女に馬乗りになって、その首に手をかけていた。

 手に力を入れて、首を絞める。


 殺さなきゃいけない。


 殺さなきゃ、イトが死ぬ。

 殺さなきゃ、間接的にイトを殺すことになる。


 だから殺せ、殺すんだ。

 そうだ、もっと手に力を入れろ。

 首を絞めろ。骨を折るくらい絞めろ。

 早く殺せ、早く殺せ。


 早く!




「ゲホッ」




 フードの女は咳をした。

 それだけだ、それだけのことなのに。

 それをきっかけに、一瞬絞めた首から、体温と脈を感じた。

 感じてしまった。


 もし誰かが俺の死体を見て、ことの顛末を知ったら、『こいつはなんて底無しに腰抜けなのだろうか』なんて思うことだろう。


 俺は一瞬、絞める力を緩めてしまった。




「甘い、甘い」




 腹に、鈍痛が走った。


「ガッ……!?」


 膝で蹴られたのだ、という状況を把握する暇もなく、俺はコンクリートに放られた。

 フードの女はゆっくりと立って、俺を見下ろしながら言った。


「今日、今日は、ガッカリばっかり」


 無機質な幼い声を発しながら、そいつは俺の眼の前でしゃがみ込んで、続けた。


「頭、頭でいくらイキってても、魂、魂が弱くちゃ、意味ない。だから、だから成せない、動けない、殺せない」


 責めるでもない、嘲るでもない、ただただ事実を羅列するようなその口調は、しかし何より俺の不出来さを抉るものだった。

 俺は女を睨んだ。それしかできなかった。負け犬の遠吠え以下の行為だが、それでもそうしなければいけない気がした。女はどこか、壊れかけのおもちゃを見るような目を俺に向けていた。


「……ん~」


 女は俺を見て、まるで品定めでもするみたいに唸っている。何を考えているかはわからない。それを考える余力は、今の俺にはなかった。


「……まぁ、まぁ、いい。あんまり遊ぶと、怒られる」


 女はそんなことを言った後、ゆっくりと立ち上がって、ゆっくりとイトの方に歩いてゆく。

 イトを見る。生きてはいるが、気を失っているようだった。

 


「なに……する……きだ……」


「安心、安心。殺さない、今のとこ」


 女は振り向かないまま、ただそう答えた。

 女は歩を進める。

 周りには、俺たち以外もう誰もいない。





「いやぁ、殺るなら早めがいいよぉ、そいつ」





 瞬間、声、影。

 ブレード


「!?」


 女が振り向く。

 金属、激突音、火花。

 見慣れた、ロングのブロンド。



「ラミー……!?」


 ラミーだ。一体どうしてここに?


「は!? うっそぉ!?」


 ラミーはそう叫んだ瞬間、後ろに飛びのいた。あの丸鋸にやられたのであろう、ぼろぼろに刃こぼれした自分の日本刀を見て、わなわなと震えていた。


「これお手入れしたばっかなんだけどぉ! あー、最悪ぅ!」


「……増援、増援?」


 いきなり現れた第三者に、フードの女は怪訝な顔をしていた。が、当の本人は気にした様子もなく、俺に振り向いた。

 相変わらず、黄金のようなブロンドとルビーのような瞳が、その獰猛さを表現していた。


「おっすーハリくん、だいじょぶぅ? ……じゃないっぽいね」


「ラミー……」


「家でも外でも血に事欠かないねぇキミ。ま、私的にはそっちのが捗るからいいけどぉ」


「さてさてぇ」ラミーはそう言いながら、女の方に向き直る。


「悪いけどぉ、うちの男は持ち帰りやってないんだよねぇ。帰って一人でマスタベってなよぉキャハハハハ!」


 刀を女に向け、挑発するように彼女は言った。


「……お前、お前、下品」


「うっせぇし! そんなゲテモノみてぇな武器振り回してる女に言われたくないし!」


「品性、品性、ゼロ」


「何お前ぇ、ムカつくんだけど、殺すよ? ムカつかなくても殺すけど」


「……残念、残念、お前と遊ぶ時間、ない」


 すると女は、イトを肩に担いだ。


「イト、イト、持ってかなきゃ」


「なん……!?」


 俺は思わずそんな声を発した。どういうことだ? 初めから俺じゃなく、イトが目的? でも、何のために?

 いや、そんなことより、まずい。


「ちょいちょぉい、逃がすと思ってんのぉ? 勝てなくて尻尾巻くってぇ?」


 ラミーが挑発するようにそう言う。

 だが、女はそれに対して、ただただフードの下からにやけた顔を見せるだけだった。


「逃がす、逃がす、違う、追いつけない」


「は?」


 ラミーが言った、その瞬間、地面に大きな衝撃と、爆風が走った。


「「!?」」


 俺とラミーがそれに驚いた、一秒にも満たない時間。

 目の前から、イトと女が消えていた。


「……え、どゆこと?」


 ラミーもさすがに困惑しているようだ。

 見ると、彼女らのいた場所が、大砲でも直撃したみたいに抉れていた。


「……飛んだ、のか?」


 俺は思わずそう言った。信じられないが、状況証拠と、あの人の理から逸脱したような強さを目の当たりにした後では、あながち冗談ともいえないだろう。

 ……いや、そんな話をしたいんじゃない。

 今は、もっと考えなきゃいけないことがある。


「イト……」


 イトが連れ去られた。

 何の目的で、誰の手引きで、どこに。

 一秒でも早く、情報を見つけなくては。

 彼女が何かされる前に、一刻も早く。


「クッソ……!」


「ちょいちょぉい、無理しないの。いったん帰って立て直さなきゃ」


 ラミーがそう言いながら、俺に肩を貸してくれた。

 蹴られた腹部の痛みを感じながら、俺はあの女に言われたことを思いだした。



『魂が弱くちゃ、意味ない。だから成せない、動けない、殺せない』



「……でも、ホントにベルの言った通りだったねぇ」


「ベル……さん?」


 ラミーの言ったことに、俺は思わずそう聞いた。すると彼女は不思議そうに俺を見て答える。


「え? うん、『なんか嫌な予感がするから見て来てくれたまえ』って。どう、似てるぅ?」


「……そうか」


「どったの?」


 彼女の問いの答えになるような違和感が、あった。でも、今言うべきじゃないと思い、俺はただ首を横に振った。


「いや、何でもない。そうか、ありがとう」


「さぁ、一旦アジトに戻ろぉ。パトカーも来てるしぃ」


 俺たちはそのまま、人気のない裏道を通って帰路についた。


 ……散々見てきたはずだった。そうしなきゃいけない理由もあった。

 なのに。

 何故、あんなときに限って、一瞬でも。


 命なんてものを、思い出させるのか。


 弱い魂。

 その短い言葉が、俺の中をいつまでもグルグルと回っていた。

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