0x04 初めてのパワーオン

 ついに迎えた十九日金曜日の放課後。

 僕たちは、祈るような目で画面を見つめる砂橋さんの元に集まっていた。普段は製造室で活動している狼谷さんまで、食い入るように画面を見つめている。

「そわそわ……」

 道香ちゃんも落ち着かない様子だ。その道香ちゃんは一足先にサブストレートの設計を終わらせていて、もう製造へと入っている。

 砂橋さん自身も不安らしく、手持ち無沙汰にマウスをぐりぐりと動かしていた。

 今実行しているシミュレーションが終わり次第、そのまま第三回の開発会議を行うことになっている。つまりは、このシミュレーションの結果次第で今日製造を開始できるかどうかが決まる訳だ。

 今週の蒼は、僕の先生をしながら再び論理設計ツールと向き合っていた。この間教えてもらった、さらに性能の出るはずだという自作のコアの設計を進めているのだという。

 設計の過程の中で一番初めに終わってないといけないのは論理設計だ。時間が空いているうちに進められるだけ進めてしまいたいということなんだろう。

 みんなで固唾を呑んで見守ること数分。下のテキストが何行か流れて、シミュレーションが終わったことを告げた。

 砂橋さんはそれを見た瞬間、飛びつくようにして色々な画面に切り替えながら、吐き出された結果を確認していく。

「タイミング違反なし、クロックスキューも基準値内、クリティカルパス0.55ナノ秒、パワープレーンも接続漏れ……なし、アサインも……合ってる、……よっし!」

 チェックした結果も問題なかったようで、砂橋さんはがたんっと音を立てて立ち上がると、天井へ拳を突き上げた。勝利したボクサーのようなポーズだ。ほほえましい見た目だけど、その裏の努力を知っているから自然と拍手が出た。

「お疲れ様」

「お疲れ、砂橋さん」

「お疲れさまでしたっ、砂橋先輩っ」

「はー緊張した、やっぱり最後いけるかどうかのシミュレーションは緊張するねえ」

 皆で声を掛けて労う。砂橋さんの笑顔には安堵がありありと出ていた。

「お疲れ様結凪、十分あればざっくり結果まとめられる?」

「もちろん、任せて」

「氷湖も、大丈夫?」

「準備できてる」

「それじゃあ十分後に会議室集合ってことにするわ。遅れないように」

 そう言い残して、一足先に蒼は会議室へ向かう。さあ、いよいよ製造開始のかかった開発会議の時間だ。

 僕も手伝うために蒼の後を追って会議室Aへと向かう。

「準備手伝うよ」

「ありがと。じゃあプロジェクタの準備お願いしちゃうわね」

 ホワイトボードに付いたスクリーンを下ろし、プロジェクタの電源を入れた。スクリーンの近くの電気を消したところで皆もやってくる。

 最後に、蒼が人数分の紙パックのお茶とおやつを持って入ってきて、これで全員。

 いつの間にか、大小問わずミーティングの時には各々がおやつを持ってくるのが恒例になっていた。お腹が空いた状態だといい議論なんて出来ないよね、という砂橋さんの意見が採用された結果だ。

「相変わらずおやつって呼んでいいのかな、それは」

「すっごい良い匂いがします……わたしももっと色々おやつ持って来ればよかったなあ……」

「ごめん。すぐ食べるから、許して」

 狼谷さんはおやつと称してカップ麺を啜っている。狼谷さんが……控えめに言って、よく食べるということは、みんなでご飯を食べたりした時に見つけた彼女の一つの姿だった。

「みんな揃ったわね、第三回開発会議を始めるわよ……って、良い匂いね」

「ん、ごめん」

「いいから、早く食べちゃいなさい」

 最初は少し震え気味な蒼の声だったけど、無表情でカップ麺を啜る狼谷さんとそこから漂う香りで良い感じに気が抜けたらしい。

 狼谷さんを待つ間はみんなも思い思いにお茶をする時間となって、それから。

「じゃあまず、製造プロセスに関して。氷湖、お願い」

「わかった。ちょっと待って」

 狼谷さんが自分のノートパソコンをからプロジェクタに繋ぐと、資料が映し出される。

「おおっ」

「へぇ」

「わあっ……!」

 そこに表示されていた数字は、僕たちが思わず息を呑むものだった。今週頭に見たものとは全く違っていたからだ。

「私の知ってる情報を元に、資料として残っていたプロセスを再改良した。これを90nmプラス、って便宜的に呼ぶ」

 狼谷さんの話し方は普段通り平坦だけど、その声は心なしか明るい。自信があるものが出来たんだろう。

「マスクは同じものを使ってSRAMチップのテスト製造をウエハー十枚行った。プロセス周りの情報は調整したけど、材料もこの部で持ってるものだけ」

「マスクも同じってことは、デザインルールも変更なしでいいんだよね?」

「もちろん。まず歩留まりは、ウエハーレベルでは百パーセント。チップレベルでも八十七パーセントを達成した」

 良品率、イールドと書かれた数字の隣には、八十七パーセントという数字が輝かし気に踊っている。前が一パーセント未満だったことを考えると、とてつもなく大きな進歩だ。

「凄い、同じ機材で作ったとは思えないわ……」

 蒼があり得ない、といった声で漏らす。そう思うのも当然だろう。何しろ、去年から散々苦しめられていた良品率を一発で改善させたのだから。

「化学研磨の精度が酷かったのと、設備のメンテナンスと調整が主。精度が重要な光学系ですら酷い有様だった。それを全部再整備して、あとはいろんなパラメータや工程を私の知ってるものに合わせた」

「それだけでこんなに変わるんだな……って、当然か」

 何しろ、相手にしているものは髪の毛の千分の一のサイズ。微妙な狂いすら製造に大きく影響してしまうのは間違いないだろう。

「製造装置も大事な道具。ナノメートル単位の適切なメンテナンスと調整をしなければ、目標には達しない。次に、最高動作周波数は一番素性のいいチップで1.2Vで2.8GHz、1.4Vで3.1GHz。詳しくはプロファイルを見て」

「もはや商用クラスのプロセスだね……」

 砂橋さんも言葉が出ないようだ。どれくらい凄いのかは分からないけど、商用クラスということはかなり優秀な結果なんだろう。

 他の皆は画面に投影されたプロファイル、と書かれたグラフを見てうなっている。

「というわけで、製造前工程のPEとしてシリコン技術にGOを出したい」

「わかったわ、情報ありがとう。次に結凪、コアの方はどう?」

「ん、じゃあこっちも画面出すね」

 狼谷さんからケーブルを譲り受けた砂橋さんが、同じようにノートパソコンに繋ぐ。

「ん、映ったね」

「へぇ、さすがね結凪」

 映し出された数字を見た蒼は満足そうに頷いた。砂橋さんも、にひひと笑い返す。

「んじゃ、Sand Rapidsプロセッサの物理設計の結果ね。まずは皆お待ちかね、最高駆動周波数のシミュレーション結果から。最新の氷湖が調整した後のプロセスのデータは反映されてないけど、少なくとも去年のプロセスでもクリティカルパスは0.55ナノ秒を達成したよ」

 クリティカルパスというのは組み合わせ回路、つまりは一クロックの間に終わらせなきゃいけない処理のうち、もっとも長いものが完了するまでに必要な時間。

 それが0.55ナノ秒ということは、その逆数が最高の駆動周波数になる。ってことは、1割る0.55で……えーっと?

「1.81GHz、くらいでしょうか? 十分に高いかと」

 暗算に苦しんでいる間に、道香ちゃんがあっさりと答えを導き出していた。さすがは主席だ。

「ええ、そうね。十分でしょう」

「そのほかの検証結果も大丈夫そう。電源プレーンの接続、信号の引き出し、その他諸々確認したけどオッケーだったから設計は大丈夫。電源投入手順もIPのボードに合わせたから、物理設計PEとしてこの設計にGOを出したいでーす」

 物理設計もオッケー、となれば次は論理設計。みんなの視線が蒼に集まる。

「最後に論理設計だけど、前も言った通り、1GHz動作でLINPACKを走らせた時の予想は大体850MFLOPSの性能になるはずよ」

 それを聞いた砂橋さんは楽しげににやりと笑った。出来にはかなり自信があるみたいだ。

「それに緩く見積もって一・五掛けくらいはできるかな? 動作周波数で」

「1GFLOPSも、余裕」

「大体三倍、ですか」

 周波数がシミュレーションの一・八倍まで伸びそうだから、机上の空論とはいえ1GFLOPSの達成は余裕ってことになる。目標の数字をあっさりと達成してしまった。

「かなり、良さそう」

「論理設計に関しても、一応シミュレーションと『FPGA』での検証は通ってるし、結凪の方でも見てもらってるから酷いバグは無いはずよ。というわけで、論理設計もGO」

「よーっし」

「最後に、サブストレートはどう? 道香」

「はいっ、無事設計は終わって昨日の夜に業者さんに発注を掛けてますっ。着荷は来週水曜日の予定で、周波数特性、インピーダンス等も確認したので、えーっと……ごー、です!」

 最後に道香ちゃんのゴーも出て、製造に必要な要素は全て揃ったことになる。

 ついにこの時がやってきたのだ。

 二週間前まで廃部寸前だったのに、ここまでチップが形になっているのはひとえにここにいる皆が凄いからで。

 その中に僕がいるのが、我ながら少し不思議だった。

「問題なさそうね。じゃあ、Sand RapidsのAステッピング、製造に入るわよっ!」

「「「「「おおーっ!」」」」」

 無事に一つ目のチップ、Sand Rapidsは製造開始――『テープイン』を迎える。 もちろん、製造が始まって設計がひと段落したとはいえ暇になる訳では無い。

「氷湖は製造を頼んだわ」

「任せて」

「道香ちゃん、パワーオンに向けたボードとヒートシンク、それに計測機器類の準備お願いね。結凪はBIOSの準備をお願い」

「はいっ、ラボの準備しておきますっ」

「あいよー、毎回これが面倒くさいんだよねえ……専門じゃないし」

 蒼からの指示を受けて、再びみんなが動き始める。掛け声の熱量を、まるで部室中へと改めて伝搬していくかのように。

 それだけで、テンションも少しづつ上がっていくような気がした。

「さて、どうするかな……」

 みんなが出て行ったあとの会議室を片付けながら、そう言葉が漏れた。

 今出来ることは、雑用を引き受けてみんなが作業に集中できるようにしながら勉強することくらい。それしか出来ないことに少しもどかしさを感じると同時に、自分に驚きもあった。

「皆の力になりたい、か……」

 そんなことを思うなんていつ以来だろう。あの日から前向きさを失った僕だけど、いつの間にかそんな考えがもう一度出来るようになってたんだな。

「鷲流、くん」

「うおっ」

 後ろから突然声を掛けられる。皆作業に戻ったと思って気を抜いていたから、思わず飛び上がり掛けてしまった。

 振り返ると、そこにいたのは狼谷さんだ。

「どうした狼谷さん、ファブに入ったんじゃなかったの?」

 これから製造開始という話だったし、てっきりもう入っているものだと思ってたんだけど。

「ん、これから入る。鷲流くんは、ここのファブに入ったこと、ある?」

「いや、外から見ただけだったな。今までは勉強で忙しかったし」

「見学、する?」

 表情の起伏は相変わらず見えづらいが、ほんの少しだけ何かを期待するような表情に見えた。

 もちろん断る理由はないし、製造工程を見ておきたい気持ちもある。どうやって作っているのか興味が出たのは、ここ一週間の勉強の成果だ。

「いいのか? できるならもちろんしたいが」

「もちろん。製造担当PEの裁量で許可」

 狼谷さんは、そう言うとほんの少しだけ笑顔になった気がした。

「じゃあ、宜しく頼むよ」

「付いてきて」

 狼谷さんに付いて廊下を進み、オレンジ色の部屋の隣にある扉へとやってきた。金属製の重たそうな扉だ。

「ん、んん……」

 かなり重たそうだし、狼谷さんの隣に手を掛けて一緒にドアを引くと、確かにそれなりの重量があった。蒼や道香ちゃんならともかく、小柄な狼谷さんや砂橋さんでは大変に違いない。

「ありがとう」

「ここは、ロッカー?」

 その重い扉の先に広がっていたのは、荷物を置くロッカーが並んだロッカー室だった。

「そう、控室。全部の荷物を置いて行って。制服のジャケットも脱いで、靴も脱ぐ」

「ど、どうして?」

「思い出して。これから私たちが作るもののサイズは?」

「50ナノメートル、だよな? あ、そういうことか」

 ジャケットや手荷物、靴なんかは目に見える見えないを問わず埃が一杯付いている。見えないサイズの埃や塵でも、髪の毛のウン千分の一の世界では巨大なゴミになっちゃうんだった。言われた通りに荷物を置いて、学ランも脱いでロッカーへとしまう。

 狼谷さんは正解、というように頷くと、ロッカーに荷物を置いて、スカートの下に長ズボンを履いた。冬の中学生みたいな見た目だ。

 さらに、狼谷さんはそのままスカートを落とす。着替え中みたいな感じがして、ちょっとドキドキしてしまったとは言えない。

 とはいえ、これで着替えは終わったみたいだ。上は制服、下はジャージの長ズボンという姿でパソコンを手にする。

「スカートも駄目なのか?」

「これは、単純に邪魔なだけ。次の部屋でわかる」

 気になって聞いてみたけど、帰ってきたのはそれだけ。不思議に思いながらメモ帳とシャーペンだけを胸ポケットに突っ込んで狼谷さんのもとへ行くと、狼谷さんは首を振った。

「そのメモ帳とシャーペンも置いて行って」

「何でだ? 取れるところはメモを取ろうと思ったんだが」

「紙は、半導体の敵」

「ど、どういうこと?」

 最近はタブレットとかがあるから、紙はライバルってことか?

 そんな考えが伝わったのか、狼谷さんの表情にほんの少し笑みが混じった気がした。

「紙は、何かをするたびに小さな埃をまき散らす。だから、半導体製造の敵」

「そういうことか」

 言われてみれば紙も繊維の塊だ、書いたり消したりするたびに塵や繊維が出てしまう。

 そういうことならば仕方ない。紙とシャーペンをロッカーに仕舞うと、狼谷さんの元へ再び戻った。

「よし、これで大丈夫だな」

「ん。じゃあ、私が出たらここに入って」

「わかった」

 そう言い残すと、狼谷さんは小部屋へと入る。その先にもドアがあるが、さらに先にも別の部屋があるようだ。

 控室側のドアが閉まって数秒、こっちの部屋でもうるさいほどもの凄い音が響いた。聞いたことがある、エアシャワー、って奴だ。

 中を見ると、狼谷さんはその細い体に強風を浴びている。この強い風で体中の埃を落とす、って仕組みだったはず。

 だいたい一分ほどで風の音は止んだ。狼谷さんが奥の扉へと消えていった事を確認すると、僕も入って強風を全身に浴びる。

 風が止まってから次の扉を開けると、そこもさっきと同じようなロッカー室だった。

「ここが、前室。既にここはある程度のクリーンルームになってる」

「へえ、ここもそうなのか。もう製造室になるのかと思った」

「まだまだ、わたしたちは汚いまま。まずは手を洗って。それからゴム手袋を付ける」

「これだけやってもまだ、なのか」

「そう。人体がこぼす皮膚の欠片は半導体にとってとても有害」

「半導体の中の配線に比べれば大きいもんなあ」

「それだけじゃない。たとえば、垢はナトリウムを含む」

「あー、まあ汗とかしょっぱいしな。でも、そんなんが悪さするのか?」

「ウエハーを素手で触ると、触った場所近辺のトランジスタが全滅する」

「ま、マジか」

「ナトリウム汚染、と言われる。トランジスタがONになる電圧を大きく変えてしまう」

「大きく変わって……その結果、どうなるんだ?」

「トランジスタが制御不可能になる」

「そいつはまずいな」

 確かに、全ての根幹を担うトランジスタがおかしくなるのはまずい。手で触れてしまった範囲だけでも相当な数のトランジスタを殺してしまうのに、その近辺となれば大変な話だ。

 人間の手の破壊力を再認識した僕は、言われるがままに手を入念に洗って、乾燥させてからゴム手袋を付けた。

 それから狼谷さんに渡された通り、見様見真似でマスクを付け、フードを被り、クリーンスーツを着て、専用の靴を履く。ぱっと見でもわかる重装備だ。

 ここで、ようやく狼谷さんがスカートからジャージに履き替えていた理由が判った。

「なるほど、クリーンスーツは普通にズボンみたいなんだな。確かにスカートのままじゃ無理だ」

「そういうこと」

 専用の白い服を着たら何だかこれから向かう場所が特別な場所な感じがしてくる。いや、もちろん特別な場所なんだけど。

 手袋の上からもう一度手を洗い、乾燥させると準備完了だ。最後に、言われた通りお互いにフードの裾やクリーンスーツのチャックなどの点検をしていく。どんなに着こんでいても、そこから肌や中に着ている服の裾が出ていたらそれだけで一発アウトだもんな。

「ん、鷲流くんはOK」

「狼谷さんも、言われた場所は大丈夫そうに見えるな」

「二人だと、早い」

「一人の時はどうしてるんだ?」

「鏡を見ながら確認してる」

「そりゃ、確かに大変そうだ」

「準備完了。行くよ」

 それから、最後の仕上げとばかりにもう一度エアシャワーを浴びる。しかもさっきよりも長い時間。

 そうして、そのドアの先に広がっていたのは。

「お、おおおっ……!!」

 窓から見ていた景色そのものが目の前に広がっていた。オレンジ色の照明が室内を照らしている、不思議な空間だ。普通の光であれば白く見えるであろう、巨大な装置が床に大量に並んでいる。

 まだ機械は動き始めてはいないけど、少なくとも僕が初めて見た時の死んでいるような静寂は無かった。

「ここが、コン部のファブ。揃ってる装置は悪くない」

「砂橋さんもそう言ってたな」

「今から、Sand Rapidsの製造を開始する。付いてきて」

 前も後ろも判らないから、親を追いかける子鴨のようにとにかく狼谷さんに付いていくしかない。広い工場の中を歩いて辿り着いたのは、隅の方にある一台のパソコンだった。

 そのパソコンで砂橋さんから届いたレチクルのデータをソフトに読み込ませると、指さし確認をしながら確認をしていく。

「データ形式、よし、プロセス、90ナノメートルプラス、WCMP863。メタルレイヤー八層、製造順序、よし。予定時間、九十五時間四十八分、よし。自動後工程オフ、マスク自動製造オン、自動運搬を許可」

 これだけ繊細な半導体製造だ、きっと何か一つでも間違えると全てが台無しになってしまうのだろう。製造時間は九十六時間近く、一つのミスで丸四日消し飛んでしまうことになる。

 そして、一通りの確認を終えたのか一息ふうっ、とついてから。

「鷲流くん」

「何だ?」

「エンターキー、押して。それで製造が始まる」

「そんな重要なこと、やっていいの?」

 画面には、この設定で製造を開始してよろしいですか? と表示されている。このボタンを押したらいよいよ製造が始まるんだろう。

 ちょっと怖気づいていると、狼谷さんは背中を押すように声を掛けてくれた。

「安心して、ただ押すだけ。それまでの設定とかは私がチェックしているから、大丈夫」

「それなら安心だな」

 マスクもフードも着けているから、僕から見えるのは目だけ。だけど狼谷さんは、小さく笑った気がした。

「じゃあ、行くぞ」

「よろしく」

 少し緊張に震える指先でエンターキーを押し込む。すると――

「お、おおっ、何か間違ったか?」

 大音量のブザーが室内に鳴り響く。もしかして、何か異常があったのだろうか。やっちまった、ってことか?

「安心して、見てて」

 でも、狼谷さんは涼しい顔だ。

 数秒でブザーが鳴りやむと。

「おおおっ……!」

 様々な機械がさらにうなりを上げ始めた。それと同時に、今まで飾りのように天井にぶら下がっていた機械が天井に縦横無尽に張り巡らされたレールを走り始める。

「これで、後は待つだけ」

「す、すげえ……」

 部屋の中は、様々な装置の立てる音に満ちた。機械には色とりどりのランプが灯り、天井の機械もあちこちへ動き回っていく。

「これが、半導体製造工場……」

 そう呟くと、さっきと同じ目をした狼谷さんが静かに頷いた。

「天井を動き回っているのが『AHMS』。自動素材運搬システムの略で、下にぶら下がってるフープを必要な時に、必要な場所へ無人で高速に移動できる」

「フープ、ってのはどれのこと?」

 そう聞くと、狼谷さんは一台のAHMSを指さした。そのロボットの下には、何か箱のようなものがぶら下がっている。

「あのプラスチックのケースのこと。Front Open Unified Podの頭文字を取ってFOUP、『フープ』。中には半導体のウエハと、極限まで綺麗にされた空気が入ってる」

「ここも同じ空気じゃないのか?」

「違う。人が入った時点で、もう不適切」

「そんなにか?」

「あのフープの中には、アメリカの基準でクラス一以上、日本の規格だとクラス三以上の清浄度が保たれた空気が入ってる」

「それって、どれくらい綺麗なんだ?」

「東京ドームをフープの中の空気で満たしたとき、0.0005ミリ以上の粒子、いわゆるチリの数が四千三百万個以下。普通の空気の一千万分の一くらいしか、チリが存在しない」

「じゃあ、この空間は?」

「その百倍くらい。アメリカの規格だとクラス百、日本の規格だとクラス五」

「そう考えると、確かに汚いのか……」

「とはいえ、この空間も普通の外の空気と比べると十万倍綺麗」

 ナノメートル単位でモノを作ると、気を配ることがかなり多くて大変だな。語られる数字のが全て何万分の一だ。

 この空間があのフープとやらの百倍チリが多いって言ったって、外の空気と比べたらその量は十万分の一くらいだ。しばらく掃除をしなくてもうっすら埃を被るような事態には間違いなくならないな。

「でも、この空間をアメリカ基準のクラス一にしようとすると相当大変。人なんか入れたくなくなるくらいだし、相当なコストも掛かる」

「まあ、そうだろうな」

「だから、超高純度な空気を使うのは装置の中とフープの中だけにしている。それなら、外の空気が若干汚くても許容できる」

「そうやってコストを抑えながら綺麗な空間を保ってたのか……」

「装置内のクラス一を維持していてくれたのは助かった。これが普通の外の空気に触れていたら、それを綺麗にするだけで数週間必要だった」

 そういえば、蒼も使っていないながら必要最低限の装置は動かしていると言っていたな。それは、この部屋や装置、フープの中の清浄な空気を保つ装置だったんだろう。

「このウエハー自体もとても重要。これ自身が超高純度な、シリコンの単結晶」

「ケイ素って言ってたよな」

「そう。実は窓ガラスとこの半導体は、元は同じ」

「ガラスと?」

 狼谷さんのその言葉に、思わず聞き返してしまう。窓ガラスと半導体が同じ素材で出来ているとは思えないけど、冗談を言っているような感じには見えない。

「そう。元は同じ珪砂という砂で、元素記号で表すとSiO2。これから酸素を取り除いて、さらに不純物を極限まで取り除いて極限まで純粋なケイ素に製錬したのがこのウエハー」

 ケイ素の元素記号はSiだから、珪砂から酸素を上手に除けたら残るのはケイ素だけだ。正直信じられないけど、言われてみればその通りだから理解が追いつかない。

「このウエハーもウチで作ってるのか?」

「それは無理。あまりにも繊細な技術が要求されるから、JCRA経由で買ってる」

「そうなのか。ってことは、相当なんだな」

「イレブン・ナイン、と言われる」

「いれぶんないん?」

 イレブン・ナインって、聞いたことがあるような、ないような。その後に狼谷さんの口から紡がれたのは恐ろしい数字だった。

「99.999999999%以上の超高純度単結晶シリコンの塊を切り出して作るのが、シリコンウエハー」

「きゅうじゅうきゅうてん、きゅうきゅうきゅう……幾つだ?」

 指を折りながら数えてみるが、そもそも全く具体的な想像が付かない。

「九が十一個並ぶから、イレブン・ナイン。ほぼ百%、綺麗な一つの結晶になったシリコンを使わないと、半導体は作れない」

「一つの結晶……ああ、単結晶、ってやつか」

「そう。例えば、理科の実験で使うミョウバン。種になる結晶を濃いミョウバン水溶液にぶら下げて放っておくと、綺麗な正八面体の結晶ができる」

「中学の理科の教科書に載ってるアレだよな」

 透明で大きな結晶の写真は見たことがある。狼谷さんは大きく頷いた。

「あれが、大きな単結晶。同じことをシリコンでやる」

「そうなのか、それは大変そうだな」

「製法は確立してるとはいえ、私たちが作るのは不可能。なぜなら、その結晶を直径二十か三十センチ、長さも約一メートルくらいにしないといけない」

「い、一メートルだって?」

「るつぼでケイ素を溶かしながら、一つの結晶になるように緻密に引き上げていく」

 一つの結晶を大きくするのはかなりの手間と時間が掛かるのは、理科の実験でもわかる。常温で蒸発する液体を使ってもその手間が掛かるのだ、ずっと加熱し続けて溶かす必要のある物質で単結晶となると、その難しさは想像もできない。

 さらには、それを横三十センチ、長さ一メートルなんて巨大な塊にするには正気の沙汰ではないほどの精度と技術が必要になるのは簡単に理解できた。

「そう。その巨大な単結晶の円柱を薄くスライスしたのがシリコンウエハー」

「そんなものを加工してたのか……単結晶があるってことは、多結晶もあるんだよな?」

「ある。原子がいろんな方向を向いてる多結晶のウエハーも半導体に使わないわけじゃないけど、少なくとも計算機には使わない。使われるのは、太陽光発電パネルとか」

「そうか、ソーラーパネルも半導体の仲間か……」

「今上空を搬送されてるフープの中には、そのウエハーが入ってる」

 上を見ると、縦横無尽にフープをどこかへと運んでいくロボット。それが運んでいるのは、超高純度の空気と超高純度のシリコン、ケイ素の塊という訳だ。

「それにしても、同じような装置が一杯あるんだな」

 改めて全体を眺めまわすと、同じに見える機械が何台も見える。一台でも良さそうに思えるんだが、どうやらそうではないらしい。

「半導体は、ひたすら反復作業。重ねては削り、重ねては削りの繰り返し」

 狼谷さんはそう言うと、一つのファイルを開いた。そこには一枚の金属板が描かれている。きっとただの金属板ではなく、シリコンウエハーのことだろう。

「特に、レジストというフィルムのような薬剤を塗って、露光して、現像して、余計な部分を洗い流して。レジストがついていない場所を削ったり金属を打ち込んだりという工程は何度も何度も繰り返し行う」

「前半は聞いたことあるぞ。フォトリソグラフィー、だったよな」

「そう。そこで貼り付けられるのはあくまでも設計図。それを使って削ったり、金属を付けたりして半導体は作られる」

「それを層数分やるんだろ?」

「層数分ではない。一つの金属層を作るだけでも数十工程が必要、その度にリソグラフィを行って必要な場所だけを加工できるようにする必要がある」

「ってことは……数百工程になるってことか」

「そう。一台だけだと明らかに時間が足りないから、よく使う装置は複数台ある」

「なるほど。一つしかないと、すぐに埋まっちゃうもんな」

「そう。多く使われるものほど、多くあった方がいい」

 あまりにも一般人からは現実離れしすぎた光景。

 ほぼ無人で、全ての機械が連動して動いているその光景を見て、何というか……綺麗だな、って思った。

「ここまでが、前工程」

「あーそうか、まだ完成じゃないんだもんな」

「そう。これをチェックして、切り分けて、サブストレートの上に乗せて、ヒートスプレッダを固定する後工程がある」

「本当に凄い手間なんだな……」

「ただ、一度手法が確立されたらあとは全部自動。何か機械の故障とかが起きない限りは、来週の水曜日にはチップが出来ている」

「故障したらどうするんだ?」

「何か異常が起きたら、私の携帯に通知が来るようになってる。それに、この学校の部活に所属してる製造系PE資格を持ってる人は二十四時間いつでも部室に入れる」

「そ、そんな特権があったのか」

 静かに頷く狼谷さん。その特権は、あくまでも何かあった時にすぐに機械の点検、そして初動を行えるようにするためのものだ。電工研の時から担ってきたその責任と仕事の重さに、思わず声が出なくなってしまった。

「これで、問題が出なければ前工程の終わりまで勝手に進む。ウエハーテストだけは手動だけど、そこから先も自動」

「基本は手が掛からない、ってわけか」

「そう。……どう?」

「どう、っていうと?」

「半導体が実際に作られていく様子を見てみた感想」

 正直、動き始めた半導体製造工程はとにかく圧巻だった。

 頭上には、今もどこかの工程へと向かっているであろうAHMSが飛び交うようにフープを抱えて走っている。

 そのフープの中のウエハーを加工する機械は、様々な音を立てながら、寸分どころかナノ分も違わぬ加工を一つのウエハーの上に行っていく。

 その様子は、まるで神様がありとあらゆる機械を操っているようにさえ感じた。

「ああ、……今までも十分すごいなって思ってきたけど、実際に作ってるところをみるとやっぱり人の技術とは思えないよな」

 それを聞いて、その機械たちを操る本当の「神様」はわずかに目を緩ませる。

「半導体の技術は、神様がくれたものなんかじゃない。今まで関わってきた人間の知恵の結晶」

 短くて、実感のこもったその言葉。それは僕をはっとさせた。

 この最先端で繊細な技術は、決して神様が偶然持ってきてくれるものではない。

 原子数十個単位を操る技術は、世界の中でも有数の天才的な人たちが血のにじむような努力をして生み出し、改良してきたものだ。

 そして、血のにじむような努力をしている天才の一人が狼谷さんだ。人の技術とは思えない、なんて言い方はあまり良くなかったな。

「ごめん、人の技術とは思えないなんて言って。そうだよな、それを作ってるのは人なんだもんな」

「気にしてない。鷲流くんに言わせるなら、私も神様のはしくれ」

「はは、違いない」

「実際、目に見えないものを超高精度で大量に作っている。知らなければ、神の御業」

「そっか、ありがとう」

 狼谷さんにいじられて、ちょっとだけ驚いた。あまり感情を表に出さないから気付かなかったけど、冗談とかも普通に言うんだな。

「ううん。私は、これからテスト工程の準備をする。鷲流くんはどうする?」

「じゃあ、せっかくだし見せてもらおうかな」

 折角の機会だし、見れるところは見ておきたい。それに、あれだけの手順を踏んでここまで来る機会も、プロセス技術を本格的に学ぶ時までないだろう。

 だから、誘われるがままに狼谷さんが流れるように作業するのを観察することにした。当然判らないことだらけだけど、短く簡潔ながら判りやすく教えてくれる狼谷さんの解説を聞いてるとあっという間に時間が過ぎる。

「氷湖、シュウ、そろそろ出ないと最終下校時間に間に合わないわよ。残るなら届けを出してちょうだい」

 前工程が終わったウエハーのテストを行うテスターの設定をしていると、突然大きな蒼の声が製造室内に響いた。

「うおっ、何事だっ!?」

 窓の方を見てみると、オレンジの窓の向こうで蒼が手を振っている。

 ファブのガラスの向こう側から時刻を伝えている時計を見ると、確かにもう十九時半だった。部活の下校時刻が近いな、出るときも同じ手順を踏むと考えたらそろそろ出る準備をしないといけないだろう。

「あとは明日で間に合う。今日は帰ったほうがいい」

 後ろからやってきた狼谷さんも考えは同じようだ。壁に備え付けられた電話みたいなものを取って一言二言話すと、僕の元へと戻ってくる。

「さ、出よ」

「その機械は何だ?」

「これは、ちょっと特殊なインターホン。電話機を取らないと、向こうの声はスピーカーから流れる。こちらが受話器を取ると、受話器に声が流れる。今は、蒼に今から帰ると伝えた」

「そうか、だからさっきの蒼の声はスピーカーから流れたんだな」

「ここには携帯も持ち込みたくないから、こういう原始的な機械になる。もしくは、パソコンのチャット」

「制約が多くて大変なんだな」

「ナノメートルの世界と戦うから、仕方ない。今日は終わり、帰ろ」

「ん、そうだな」

 狼谷さんの言葉に頷くと、今日の部活は終わりだ。二人揃って厳格な手順をもう一度踏むと、クリーンルームを後にした。



 時は四月の二十五日、製造開始からちょうど七日目にあたる日の放課後。

「ふあーぁ、ようやく終わったかぁ。弘治ー、宏ー、帰ろうぜ」

「悪い、今日は部活で急ぐんだ! じゃあな!」

 今日は、いよいよ最初のチップが出来上がる予定だ。だから寝ぼけた悠の誘いを一瞬で断ると、すぐに教室を飛び出した。

 階段を降りていると、前をゆく蒼とばったり出会う。

「よ、急いでるな」

「シュウだってそうじゃない」

「もう出来てるかな?」

「ええ、多分。問題が起きていなければ」

 走りながら短い言葉を交わす。お昼休みの段階で、チップ製造は最後のヒートスプレッダを固定する工程に入っていた。

 砂橋さん曰く、放課後すぐには出来てるんじゃないかとのことだったけど――

 あと少しで部室、というところまで辿り着いた時に携帯が震えた。ポケットから引っ張り出して見ると、WINEのメッセージだ。

「Sand Rapidsプロセッサの最初のチップが完成した」

 短くそっけない狼谷さんからの一文を確認すると、ポケットに携帯をしまいつつ走る速度をさらに上げた。

 部室に飛び込むと二重のドアを超えて、製造ラインを色付きガラス越しに見る。

 製造自体はひと段落しているはずだけど、また何かテストチップを作っているのかAHMSは相変わらず忙しそうに天井を走り回っていた。

 そしてそこには、既に狼谷さんの姿もある。

 クリーンルームに入るためには、先週体感した通りかなりの時間が必要だ。そんなクリーンルームに、授業が終わってすぐに走ってきた僕たちより先に来ているという事実が意味することは一つ。

「あの子、最後の授業サボったわね」

 蒼もその姿を認めると苦笑いを見せた。そこまでいろんな意味での行動力がある印象はなかったんだけど、逆に言えばそこまで気にかけてくれていたということ。

「氷湖ー、どう? 出来たかしら」

 蒼が壁の受話器を取って、壁向こうの狼谷さんに話しかける。聞こえたのであろう狼谷さんはそのまま近くにあったPCに向かうと、何かを打ち始めた。数秒後、僕と蒼のスマホが震える。

――今最後のチェックをしているから、あと十五分待って

「了解、ボードの準備して待ってます、っと……」

 返信し終わったのを確認してから、一緒に二階のラボへと向かう。

 ラボの中では静電気を防止するためのコートを着るか電気を逃がすバンドを手首と机にくくりつけ、さらに静電気が飛ばないよう絶縁シューズも履く必要がある。

 これだけの対策をするのはある意味当然。静電気は半導体の大敵だからだ。

 静電気が持つ数万ボルトという高い電圧は一瞬でCPUの中、半導体の回路を破壊できてしまう。細いところでは数十ナノメートルという配線は、場合によっては爆発するように蒸発してしまうと聞いたら、嫌でも気を付けざるを得ない。

 特に、まだ時期柄乾燥は続いている。夏ならまた違うんだろうけど。

「さて、ボードはこれね。道香ちゃんが検証してくれてたはずだから動くとは思うけど、試しておきましょうか」

 箱を引っ張り出してきた蒼。指示に従ってボードを緑の絶縁ゴムマットの上に置くと、最低限動作に必要な部品を取り付けていく。

「電源とメモリー、だっけ」

「最初はそうね。シリアルで見ちゃうからディスプレイはいらないわ。チップが出てくるまでは動作検証ってことで、IPのCPUを載せましょ」

「おうっ」

 ラボの中の棚からIP、つまりは既製品のCPUを取り出すと、剣山のようなピンを曲げないように気を付けながらゆっくりと差し込んでレバーを下ろす。

 上に載せた冷却装置、『CPUクーラー』のレバーを倒して固定すれば電源投入の準備は完了だ。

「じゃ、これを繋げて、っと……」

 蒼は自分のノートパソコンのUSBとボードをあまり見かけない謎のケーブルで接続した。前に聞いたら、シリアルケーブルというシロモノらしい。最近のパソコンにはほぼ付いてないけど、昔はメジャーだったのだという。

「ボーレートよし、っと。シュウ、電源入れて」

「わかった、いくぞ」

 声を掛けてからコンセントにプラグを差し込むと、すぐにボード上には色とりどりのLEDが点灯し、何種類もの電圧を出力する電源系が無事であることを伝える。

 それから数瞬、CPUクーラーのファンが回り始めると同時に、蒼のパソコンの黒い画面の中をもの凄いスピードで文字が流れ始めた。

「よし、ボードは大丈夫そうね」

「それ、何を見てるんだ?」

「これ? これは起動処理よ。『BIOS』、基本入出力システムっていう、コンピュータの起動を司るソフトウェアのログを見ているの」

「……すげー速度で流れてるけど、判るのか?」

 その画面は、一秒間に何千文字にもなるんじゃないかと思うほどの勢いで文字を吐き出して残像が見えそうな速度で流れている。そんな質問に対して蒼はあっけらかんと答えた。

「止まらなければ正常ってことよ」

「そんなもんか」

「そ。もちろん、何かおかしなところがあれば今流れてる情報を漁らないといけないから記録はしてるわ」

 それから数十秒で、蒼のPCの黒に白地の画面は白地に青い文字が表示されているメニュー画面へと変わった。何やら文字が色々書いてあるが、どうやらそのボードに載っているチップの情報を表示しているようだ。

「これがBIOSのセットアップ画面。ここまで来れば、起動はほぼ正常に終わったも同然よ」

「そうなのか。じゃあ今日は電源を入れてここまで動けばいいんだな」

「ちっちっち、甘いわよ。出来るならOSを入れて、実際に本番で使うソフトが動くかまで見ちゃいたいわ」

オペレーティングシステム、つまりは僕たちが普段使っているWindoxやLinusまで動かしたいということだ。素人目に見ても結構複雑だと思うんだけど、ちゃんと動くものなんだなあ。

「へえ、そこまで出来ちゃうのか」

「ちゃんと動いてくれればね。そうねえ、本番ではLinusが必要だから入れるのもLinusね。規定のディストリビューションは確かArk Linusだったかしら」

 そんな蒼とテスト項目をざっくり確認していると、突然ラボの扉がばたんと勢いよく開いた。

「Sand Rapidsはどう!? 動いた!?」

 その犯人は、息をはあはあ上げながら勢いよく飛び込んできた砂橋さんだった。こちらもこちらでかなり気にしていたみたいだ。きっと、本校舎からあのとてとてとした走りで頑張って走ってきたんだろう。

「まだ届いてないわ。製造工程最後の検証中」

「よかったー……最後の授業が伸びちゃってさ」

 へなへなとラボの椅子に座り込む砂橋さん。ドアが閉まりかけた瞬間、まるでリプレイのようにドアがもう一度勢いよく開いた。

「Sand Rapidsはどうなりました!?」

 次の弾丸は道香ちゃんだった。こちらも息を上げて飛び込んできている。

「まだ来てないってさー」

「はぁ、はあ……良かったです」

「ってかあんたたち、ちゃんとラボの服装しなさいよ……」

「ぜぇ……はぁ……わ、わかりました……」

 道香ちゃんも椅子に座りこんで、部員全員が揃った。あとは狼谷さんを待つだけだ。

「検証用CPUは外しておきましょうか」

「じゃ、Sand Rapids用のBIOS書いたROM持ってくるね」

「それ無かったら起動できないじゃない。結凪がいないと電源入れられなかったわね」

 当然、IPのCPUと僕たちが作ったCPUでは色々な細かい設定が違う。その設定情報が書かれたBIOSを貰ってなかった。蒼が言うように、もしチップが完成してたとしてもお預けを喰らう羽目になってたな。

「じゃあその間に、わたしはオシロを……」

 蒼に教わりながら、CPUクーラーとCPUを取り外す。その間に道香ちゃんはオシロスコープという電気の伝わる波形を見るための機械をボードに繋ぎ、砂橋さんはボードの上のICチップを持ってきたものと差し替えた。

「よっし、これで準備は万端!」

「後は氷湖先輩を待つだけ、ですねっ」

「いよいよ、だな」

 ついにすることが無くなって、ラボはぴりっとした緊張感に満ちる。

「やば、マジで緊張する……」

「ちょっと、結凪あんた声が震えてるわよ」

「そういう蒼だって」

「うう、大丈夫でしょうか……」

 そして、我らがエンジニア陣は緊張に震えていた。みんな顔色があまり良くないのもそのせいだろう。自分たちが作ったものがきちんと動作するか、期待と不安の入り混じった感情が渦巻いている。

「蒼と砂橋さんは経験があるんじゃないのか?」

「無い訳じゃないけど……去年は先輩方がメインで設計したものだから、アタシが全部やったのは初めてだし」

「私も、自分でプロジェクトを主導して作ったのは初めて。シュウや道香ちゃんと一緒よ」

 そう言う蒼の表情は、どこか苦い表情だった。

 魔の八月、この時に何かがあったんだろう。そう思いはしたけれど、聞くのは今じゃないよな。この期待と不安が入り混じった空気を、不安側に倒してしまうのは嫌だ。

「じゃあ、全員一緒だな」

 だからその表情を見なかったことにして、無難な返事をする。

「そうね、こればっかりは」

「ま、でも緊張しててもしゃーないか。もうなるようにしかならないわけだし」

 砂橋さんの言葉で、皆の緊張が少し緩む。ちょうどその時、ドアの開く音が響いた。

「お待たせ。Sand Rapidsのファーストシリコン、出来た」

 当然、入ってきたのは最後の部員である狼谷さん。手にはプラスチック製の、ちょうどCPUがすっぽり収まる穴の開いたトレーを何枚か重ねて持っている。チップ自体は見えないけど、プラスチックのトレーとトレーの間に挟まっているんだろう。

 ちなみにこのトレーもIPだ。今回はIPのボードに装着できるCPUを作らないといけない以上、形や大きさもIPのCPUと同じに合わせてある。その副次的な効果で、余計な手間を掛けずにこういう小物も流用が利く、というわけだ。

 一旦トレーを机の上に置くと、僕たちと同じ白い静電防止の白衣を纏い戻ってくる狼谷さん。やはり緊張しているのか、若干動きがいつもより硬い。

 それから、上になっているプラスチックのトレーをゆっくりとどけた。

「おおっ……!」

 そこに佇んでいたのは、僕たちの作った電子の頭脳。

 まさに電子計算機のチップ、CPUだった。

 見た目は、当然IPの物と同じ。だけど、そのヒートスプレッダに刻まれたSand Rapids A‒0の文字は、このチップを作ったのが僕たちであることを証明している。

「さて、じゃあやりましょうか。シュウ、取付よろしく頼むわ」

「ぼ、僕でいいのか?」

「ええ、折角だしやってみたらいいわ」

「よ、よし。わかった」

 思わぬ大役を仰せつかってしまった。さすがにちょっと緊張するな。

 でもその不要な緊張を抑えながら、まずはCPUを取り付けるためのCPUソケット、そのロックを外すためにレバーを九十度起こす。

 それから、経った今狼谷さんが持ってきたトレーからCPUをそっと取り出した。下向きに生えているピンに触れないようにCPUを持ち上げると、向きを確かめてゆっくりと差し込む。

 レバーを戻してそのCPUを固定すると、慎重にCPUクーラーをばちん、と取り付けた。

「よし、できた」

 すぐ近くで見ていた蒼も頷いているから大丈夫だろう。全員が固唾を呑んで見守る中。

「じゃあ、電源を入れる」

 狼谷さんが電源プラグを差し込んだ。一瞬のうちにボードのLEDが再び灯り、電源回路が正常に動いていることを伝えてくる。

 数瞬の沈黙。

「……来たっ!」

 部室に響いた砂橋さんの声とほぼ同時、繋いでいた蒼のパソコンの画面にさっき同様高速でテキストが流れ始めた。

 それと同時。

「コールドブート・シーケンス開始、内部トポロジーグリーン、基幹レジスタ初期化……正常完了、マイクロコード読み込み完了、メモリ初期化開始、EQオートネゴ開始……完了、CE、UE共になし。いい感じですね」

 画面を見ながら何かを高速で読み上げ始める道香ちゃん。それを聞きながら、小さく砂橋さんがガッツポーズを繰り返している。

 相変わらず何が起きているのかはわからないけど、少なくともさっき同様止まることはなく動き続けているみたいだ。

 その状態が続いて何分ほど経っただろうか、少なくとも普通のパソコンの二倍ほどは待った気がする。

 ようやく、その時はやってきた。

「よしっ、ここまで来れば……!」

 砂橋さんがそう言った瞬間、読み上げがぴたりと止んだ。

「きましたっ」

「よしっ」

 道香ちゃんが感慨深そうに短く告げる。さらには、あの狼谷さんが満足げに声を上げた。

 画面に表示されているのは、そっけない白字に青の文字で構成された設定画面。

 だが、そこには自分たちで作った電子計算機――CPUが処理を行い、表示した文字だ。

 さっきは別の名前が表示されていたシステム情報のようなところに「Sand Rapids」の文字を認めると、ようやく実感が湧いてきた。

「これで動いたんだなっ!?」

「ええ、紛れもなく……」

「やったぞ蒼っ」

 ぱちん、と軽くハイタッチを交わす。やってきたのは手伝いくらいとはいえ、今まで自分たちで何かを作り上げたことなんて無かったから、新鮮な驚きと嬉しさがこみ上げてくる。

 そうか、これが物を作るってことなのか。

 ……そう認識した瞬間、ちくりと感情の針が胸を刺した。

 これが、親父を釘づけにしてしまった気持ち――

 その呪いの効果は絶大だった。胸を刺した痛みは、歓喜に湧いていた僕の心を一瞬で冷やす。さっきまでの気持ちはどこへ行ったのか、体の芯から冷たくなっていくような錯覚さえ覚える。背中を、冷や汗がつうっ、と伝うのを感じた。

「……シュウ?」

「センパイ……?」

 その錯覚を打ち破ってくれたのは、蒼と道香ちゃんの心配そうな声。永遠にも感じた金縛りのような一瞬から解放された僕は、隠すように無理やり笑顔を作った。僕のせいでこの空気を壊してしまうのは嫌だ。

 でも、どうやら間に合わなかったらしい。不安げな顔で二人とも僕を見ていて、心配させてしまったことに胸が痛んだ。

「あ、ああ。大丈夫だよ。ごめん、ぼーっとしちゃってた」

「そう? ならいいんだけど……。無事起動したことだし早速色々とテストをしていくわよ、動くチップはいくつ出来たのかしら?」

 蒼は、それから何事も無かったかのように話を進めてくれる。これはこれで気を使ってくれたんだろう、申し訳ないと思ったし、同時にすごく有難いとも思う。

「十は作ってある。ダイシング後のダイもまだ残ってるから作り足すことも可能」

「とりあえず十分かしら。じゃあ、検証を始めて行きましょうか」

 それからは、全員で分担して様々な検証を進めていくことになった。初心者の僕すら動員して、動かす事の出来る動作周波数の上限、下限。それに消費電力のような物理的な動作を片っ端からチェックしていく。

 もちろん、それだけではない。

 Linusというオペレーティングシステムを入れて、ちゃんと動くかの確認。

 さらにその上でプログラムを走らせて命令を正しく解釈して処理できるかの確認や、本番でも使うLIMPACKというプログラムを走らせて正常に走るかどうかなど、いわゆるソフトウェアが動くかのチェックまで行っていく。

「っし、Linusまで一発じゃん! やるね、蒼」

「ようやく肩の荷が降りたわ」

「す、すごい……本当に、Linusが動いてます……」

「本当に、よかった……」

 Linusがちゃんと起動した時には、安堵と感動の声がみんなからも上がった。ここまで動くのにも、本来ならかなり高いハードルがあるんだろうな。

 とはいえ、正常に動作しないところもある。いくらコア以外はIPだからとはいえ、CPUは複雑なチップなのだから仕方ない。

「げ、この命令動かしたらアプリ落ちちゃった。確認してー」

「どの命令かしら?」

「今情報送るね」

 さらには、シミュレーションで予測こそ出来るものの、実際に作って動かしてみないと正解が出てこない消費電力やクロックの情報も出てくる。

「氷湖センパイ、こっちの石はクロックが上がるには上がるんですが……消費電力のピークが多分このボードの電源回路だとギリギリですね」

「こっちでもそうだな。ここの電流が確か限界で一〇二・五アンペアまでだったよな?」

「そうですっ。実測で一〇一・六アンペアなので余裕はほぼ無いですね」

「わかった。タイミング的には余裕がありそうだから、消費電力を落とす方に振った方が良いかもしれない」

 そして、その会話の中で出てきた問題点を片っ端からホワイトボードに書き留めていった。これは、動作確認がひと段落してから本番用チップを作成するときに修正するのだという。

「げっ、完全下校まであと十五分じゃない!」

 動かす周波数を若干上げては起動するかどうかを確かめるという動作周波数の上限の確認を行っていた僕は、ラボに響いた蒼の声で顔を上げた。

 時計を見ると蒼が言った通り十九時四十五分。二十時の完全下校に間に合うよう部室を出ないといけないから、もうタイムリミットだ。

「氷湖、結凪、そっちの様子はどう? こっちは基本的なソフト周りのチェックを片付けたけど大丈夫そうよ」

「アタシのとこは、いくつかチップのロジックミスがありそうな挙動があったから確認中。ただ、数は多くないから一週間あれば間に合うと思う」

「こちらも、製造技術的には問題ない。ただ、思ったよりもクロックを上げると消費電力が上がる。速度をできるだけ維持したまま消費電力を落とす方向に振ってみる」

「私が見た範囲でもいくつかロジックが怪しいところがありそうだけど、そんなに数は多くないわ」

「ってことは、無事なんとかなりそうってことだな」

「スケジュール厳しいからね、最初のチップでここまで動いてくれて助かったよ」

「明日からはその修正を行うことにするわ。シュウ、道香ちゃんは引き続き検証を続けてもらってもいいかしら? 私たちは修正作業に専念させて」

「アタシたちも終わり次第手伝うから、よろしくっ」

「わかった、任せろ」

「お任せくださいっ」

「よし、じゃあ今日の部活は解散っ! 一秒でも早く帰るわよ、門が閉まる前に」

 こうして今日の部活は解散になる。全員で慌てて荷物をまとめると、閉門ギリギリに駆けこんで学校を後にした。

「じゃあねー」

「お疲れ様」

「お疲れ様ですっ!」

「お疲れ様、結凪、氷湖」

「またなー」

 寮の狼谷さんと自転車通学の砂橋さんと別れ、さらに列車の中で道香ちゃんと別れ。

 蒼と二人で歩く駅からの帰り道。今日は雲が出ていて、綺麗な星は臨めない。まだ少し肌寒い風を感じながらぼんやりと歩いていると、ぽつり、と蒼がこぼした。

「ねえ、シュウ。大丈夫?」

「何がだ?」

「さっき、一瞬……すごく、怖い顔してた」

 やっぱり、幼馴染には隠し事が出来ないんだな。ハイタッチをした直後のあの心の動きは、さすがに言い逃れが出来ない。

 だから、少し恥ずかしくはあったけど……ゆっくりと、自分で言葉にしていく。

「本当に嬉しかったんだ。自分の仲間たちが作ったモノが初めて動いたって体験が」

「うん」

「小さい頃はともかく、それこそ学校に入ってからなんてそんな体験なかったし。だから、蒼とハイタッチしたときの喜びは本当なんだ」

「……よかった」

「でも、その後こう考えちゃったんだよ。これが、親父をあの時も釘付けにした恐ろしい気持ちなのか、って」

「そう、なのね」

「そしたらさ、動けなくなっちゃって」

 自分でも解ってはいる。それは親父との問題なだけで、その気持ち自体は尊ぶべきだ。その喜び自体は、技術を進歩させる原動力になる気持ちなんだと。

 でも、動けなくなってしまったのもまた事実。

 それを乗り越えなくちゃいけない。……そう、頭では理解しているんだけど。

「……やっぱり、辛い、わよね」

 蒼は自分のせいだと思ったのか、まるで自分のことのように唇を噛んだ。違う、そんな辛そうな表情をさせたい訳じゃないのに。

 みんなで一つの所を目指して部活をするなんてこと、楽しくない訳が無いはずなんだ。

「僕はさ、憧れてたんだよ。こうやって仲間たちと部活をして、何かに向かって努力をするってことを。でも、怖かった。きっかけがなくて出来なかった」

 だから、とっさに蒼の手を取っていた。目をあわせて、伝わってくれと願いながら言葉を選ぶ。

「それに向き合っていこうって思えたのは、蒼が誘ってくれたからだよ。お前に誘われなかったら、今でも悠や宏とゲームするだけの日々だったと思う。参加するって決めた時にはこれくらいの痛みは覚悟のうちだから、頼むからそんな顔しないでくれ」

「ご、ごめん……」

 弱々しく言葉を零す蒼。ちょっとは良くなったとはいえ、未だに泣きそうな表情を見せている。

 だから、まるで壊れかけのテレビを直すが如く軽いチョップを頭に叩き込んだ。

「いたっ、何するのよっ」

 急なチョップに蒼は頭を抑えると、涙目で見上げてくる。よし、いつもの感じが戻ってきたな。伝家の宝刀、幼馴染だから許される荒療治だ。

「じゃ、今日感じた辛さはこれでおあいこってことにしといてよ」

「……馬鹿」

 それを聞いた蒼は、言いたいことが伝わってくれたんだろう。少し俯いてはいたけれど、小さく笑ってくれた。

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