第6話 「千秋さんの方が背が高いから」

 気だるさと暑さに目を覚まし、扇風機のスイッチを入れた。

 火照った身体が冷めてくると、玄関の野菜が気になって一度は起きるが、カレーの匂いに再び二度寝を決めた。

 うとうとし始めた頃、息苦しさに目を開けると、キス魔の男に口を塞がれていた。

「いつまで寝てるんだ」

「死ぬかと思った……人殺し予備軍め……!」

「飯食おう。腹減った」

「先食べてていいですよ……いやいや起きる起きる」

 再びベッドが軋んだので、大地は飛び起きて布団を蹴った。

 目覚めのキスを受け入れると、カレーの味がした。

「……ちょ、……ふふ」

 アキが吹き出して笑い、頭をごつんとぶつける。

「そんな積極的なキスは初めてだ」

「だってお腹空いてるし。カレーの味がする」

「俺よりカレーか」

「今はアキさんよりカレーです。早く行きましょうよ」

 鍋には大量のカレーだ。二人分にしては、多すぎる。

「つい癖で作りすぎた。残ったのは明日以降食べてくれ」

「サラダもある。このレタスって、冷蔵庫でへにょってしてたやつ?」

「ああ、死んでいたから生き返らせた」

「僧侶みたい」

「水につけただけだ」

「それだけでこんなにシャキシャキになるんですか?」

「しまった。僧侶ってことにしておけば良かった」

 インターホンが鳴った。普段は居留守を使う大地だが、スプーンを置いて立ち上がる。

 腕を掴んで座っていろと促すと、アキは玄関へ向かう。

 男性の話声が聞こえた。野太いこもった声だ。続いてアキの声も聞こえ、大地は気になってスプーンを置いた。

 玄関にいる男性は、水族館というワードを口にした。まったく見知らぬ男性がだ。

 アキはポケットから何かを取り出し、男性の前に差し出す。男性は何かとアキの顔を交互に見つめる。

 男性たちが帰っていくと、アキは再び鍵を閉めて座り直した。

「警察だった。事件だとよ」

 大地が口にするより先に、結論を述べる。

「水族館って聞こえたけど……」

「俺らが見つけた子供がいただろ? 家も帰り方も分からないんだそうだ」

「ええ? そんなことありえるんですか?」

「さあな。子供が嘘ついてる可能性もあるし、まったく見知らぬ地域へ置き去りもゼロじゃない」

「なんで僕のアパート分かったんだろ……」

「どうとでも探せる。警察だからな」

「都会の警察ってすごいんですね。田舎で事件が起こっても、三十分経っても来ないときあるし」

「確かに」

「確かに? アキさんって田舎の出身なんですか?」

 アキは答えなかった。

「アキさんのこと、もっと知りたいのにいつも距離を置こうとする。名前も出身もまったく知らない」

「よく知らない男を部屋に上げようと思ったな」

「それを言うならアキさんだって、SNSで知り合ってよく会おうと思いましたね」

「俺は大人だからいい。責任は自分で取るし、どうとでもなる。他の男は上げたりするなよ」

「しませんよ。アキさんが初めてですし。親だって来たことないのに」

 カレーは甘口で、大地好みだった。美味しくて二杯目をよそっていると、アキは缶ビールを開けている。

「……千秋」

「ちあき?」

「名前。千秋」

 ほんのりと頬を染めたアキは、缶ビールを傾けた。

「千秋、さん」

「ああ」

「どうしよう、めちゃくちゃ嬉しい」

「名前知っただけでか」

「なんでも知りたいです。好きな食べ物とか、嫌いな食べ物とか」

「カレーとハンバーグ」

「子供みたい」

「だから言いたくなかったんだ」

 赤みがかった顔が、さらに深みを増す。

「好きな飲み物は?」

「ビール」

「嫌いな食べ物は?」

「……………………」

「嫌いな食べ物は?」

「あれだ。チャーハンなんかに入ってる緑の豆粒」

「グリーンピース?」

「それ。あれ入れなくても支障はない。あとはピーマン。苦い」

「子供すぎる。ゴーヤは?」

「チャンプルーにして酒のつまみにすると美味い」

「ピーマンだってつまみにしたらいいじゃないですか」

「子供の頃、畑にいっぱいあって無理やり食わされたんだよ」

 今日のアキは饒舌だ。酒の力もあるのだろう。

「千秋、さん」

「ん?」

 あまりに愛おしげな顔を傾けるものだから、大地は吸い込まれるように顔を近づける。

 唇を食むと、アルコールの香りがいっそう強くなる。舌でつつくと唇が開き、赤い舌が侵入してくる。それも一瞬で、すぐに顔が離れていった。

「お前からキスするのは初めてだな」

「千秋さんの方が背が高いから」

 今度は千秋が唇を乗せる。カレーの味がする、とぼやき、再び音を立てて何度も啄む。

 彼を知れた高揚感のせいで、いつも以上にキスを求めた。

「ずっと、このままならいいのに」

 小さい声で大きな我儘を口にするが、千秋は答えなかった。

 その代わり、背中を撫でる手はいつまでも止まらなかった。

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