第8話

 どうでもいい。くだらない。

 わかってはいても、外も心の中にも小雨が降り続けている。客に面と向かって罵倒された時や、気がついたら血まみれになっていて、膣内縫合手術を受ける羽目になった時もつらかったけれど、今もなぜか同じくらいつらい。

 どうしてつらいのかわかっていても、そのくだらなさがわかっていても、つらさはなくならない。つらさをなくすには、心自体を満たさなくてはいけない。

 ハイルは、オンライン講義で聞いた先生の声を思い出していた。

 心は水だ。水が波立ち、心の壁にぶつかることで、人はいろいろなことに悩み、苦しんでしまう。それをなくすためには、水を増やして、隙間なく満たせばいい。そうすれば、もう波は立たない。歓喜の波もなければ、苦悩の波もない。歓喜なんて、なくていい。苦悩がなければ、安楽が訪れるから。それが本当の幸せなのだ。

 幸せを求めることは、環境を求めることではない。温かい家、十分な食事、素晴らしい人間関係、その他もろもろ、たくさんの人々が、幸せになるために必要だと考えているもの、それは大切なものではあるけれど、必要不可欠ではない。幸せは自分の外にあるのではなく、中にあるものだから。

 だから、環境を整えることとはまったく別のアプローチが必要なのだ。心という水を増やす。必要なのはそれだけ。

 昔は、それには大変な修行が必要とされていたらしい。でも、新しい方法が発見された。

 水は、記憶によって増える。記憶というのは薄れるもの。しかし、その法則を乗り越えて、様々な人の、時に相反する様々な経験を強制的に脳に植えつけることで、考え方の偏りがなくなり、欲求が相殺され、凪が訪れる。

 その方法は、偶然に発見されたらしい。たくさんの記憶を得れば得るほど、心が平坦になっていくことは、科学的に証明されている。

 考えてみれば、納得できることだ。経験が人をつくる。しかし、まったく異なる経験を無数にすることができたとしたら。その記憶に影響されれば、精神はどんどんフラットになっていくだろう。

 それが静杯会の教えだった。それが、ハイルが幼い頃から信じさせられていることだった。

 傘を差し、雨の町をとぼとぼと帰る。電光掲示板に、『記憶売買規制法案、規制後は記憶売買企業に支援金案』とテロップが出ていた。映っているのは、細基首相。

 支援金とは確か、助けるためのお金という意味だったはず。エピークのような人たちを国がお金で助けるということだろうか。そうすると、エピークは法案への反対をやめるかもしれないな、と思った。規制される予定なのは、すべての記憶ではなく、陳述記憶だけだし。

 その時、白い傘とベージュのワンピースとブロンドが目に飛び込んできた。

 フレジャイルだ。その前には、中年の男。男はフレジャイルの腕を取って引いている。

「お嬢ちゃん、遊ぼうよ」

「遊ばないよ。あたしは自由なんだよ」

 フレジャイルはきっぱりと言う。しかし、男は手を離さない。

「ちょっとくらいいいだろう」

 普通なら、アンドロイドに自由だと言われたら、そこでかかわるのをやめるはずだ。自由アンドロイドに損傷を負わせたら、所有者から訴訟を起こされるかもしれない。企業に所有されている、自由ではないアンドロイドを傷つけることももちろん犯罪であり、賠償義務があるが、民事訴訟されることはまずない。しかし、自由アンドロイドの場合は、所有者の考え方と権力によっては、民事でとんでもない賠償額を合法的に吹っかけられることもあり得るのだ。

 ハイルには法律の知識はないが、自由アンドロイドに絡むとは、正常な判断力がかけているらしいということはわかった。

 助けに行ったほうがいいだろうか。でも、自分一人で、酒か薬物でおかしくなっているかもしれない男に毅然と対応できるだろうか。

 数メートルの距離を保って、ハイルがおろおろしていると、どこからともなく、大柄な男性が二人現れた。

 喚く男をフレジャイルから引き離し、二人で黙ってフレジャイルを抱え、路地を走っていく。フレジャイルは、されるがままになっていた。

 フレジャイルを助けてくれたんだよね?とハイルはしばらく考えてしまった。あまりに迅速な動きだったので、周りの人々は、ほとんど気づきもしなかったようだ。

 やはり、フレジャイルは、すごくいいところのお嬢様で、あの男たちは護衛だったのかもしれない、と思った。アンドロイドであっても、そういうこともあり得る。


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