第8話 待機

 ソメイヨシノの開花宣言を、偶然観たニュース番組のキャスターが告げている。


 新年度を迎えていた。

 進級してクラスが変わったというのに、その実感はまるでない。


 僕はリハビリテーション室でその始業を両親から聞かされたけど、素っ気のない返事だけして、平行棒を支えにしながら二足歩行の練習を黙々と行なっていた。


 右脚の厳重な固定具が外れ、サポーターや包帯を装着しつつ経過観察の段階に入り、程なくして通常の歩行を再び獲得するためのリハビリも開始された。


 しかし約半年も固定したままの右脚のブランクは想定以上のものがある。


 両脚の筋力差もあるけど、事故当初の患部を目撃しているだけに、あのような状態から本当に歩けるようになるのか、内心の何処かで恐れて、すくんでいる。


「う……」


 右脚に負担がいかないように倒れ込む。

 すぐさま看護師さんが駆け寄ってくれて、慎重に身体を起こして車椅子に乗せてくれた。


 既に車椅子が必要ないくらいに右脚は回復しているらしい。けれどここに座ると、今日の精神的な負担が軽減されるように感じて、未だに結局欠かせないでいる。


「今日はここまでにしようか?」

「……はい」


 いつものその言葉に安堵あんど焦燥しょうそう相容あいいれない感情が混ざる。


 僕は駐車ブレーキを外して、ハンドリムを操縦して車輪を回転させる。


 そのままリハビリテーション室を出て、自身の病室に戻ろうとする。


「あ、笹伸くん。今帰り?」

「はい……こっちに来るなんて珍しいですね? またシズですか?」


 田宮さんが前方から早歩きをして、誰かを探すように見渡している途中で、僕を発見した様子だ。


「ううん、いつもは大体そうなんだけどね。

 ちょっと整形外科の先生に用事があったんだけど……笹伸くん見てない?」

「そうですね。リハビリテーション室に来たときは居たんですけど、出る頃にはいなくなってましたね」


 おぼろげな記憶だけど、僕が平行棒のリハビリを行なっている途中で、別の看護師さんに呼ばれてリハビリテーション室を後にしていた。


 それ以降は分からない。


「そっか……。じゃあ別の所探してみるね。

 ありがとう笹伸くん」

「いえ、何も出来ずに」


 そうやって僕が謙遜していると、田宮さんが溜息を吐いていた。


 そして背筋を伸ばしつつ、指摘する。


「笹伸くんはいつも大人びた話し方をするよね。でも、もう少し笹伸くんが喋りやすいようにしても良いからね?」

「は、はあ……」


 腑に落ちないまま曖昧に頷いた。

 田宮さんは僕と同じ目線になるようにしゃがんで、僕が乗る車椅子に手を置いて語った。


「ふふっ。笹伸くんはシズとは真逆な子に見えるけど、もし小児科にいたら同じくらい手を焼いてた子になってただろうね」

「そう、なんですかね?」


 寧ろ、ただただ時間が過ぎるのを待つだけの面白味のない子ども扱いされていそうだ。


「予想だけどね。意外とシズみたいな子と相性が良さそうだもん。だからある日結託して、私たちの想定を超えてくるような事をするんじゃないかなって」

「しませんよ。ただ僕がシズに付いていくだけですから」

「うーん、そういうところなんだけどなー」


 僕を揶揄からかうように笑っている田宮さんが、何かを思い出したように手を叩いた後、僕に訊ねる。


「そうだ。この前、笹伸くんのご両親とシズのご両親が何やらお話しをしていたけど、もしかして知り合いとか?」

「いえ。そもそも僕、シズのご両親にお会いしたこともないので」

「そうなの? んー、じゃああれは偶然だったのかな?」


 腕を組みながら田宮さんが項垂うなだれている。

 そのまましばらく熟考していた。

 当初の予定を忘れていないか心配だ。


「それよりも整形外科の先生を探さなくて良いんですか?」

「え? あっ!」


 田宮さんは思わず声を上げて、ここが病院ということに配慮してか、すぐに口元を押さえて後方を確認する。


「そうだった……ありがとね笹伸くん。まだ話の途中だけどごめんね、今度ね」

「はい。先生、見つかると良いですね」

「うん。じゃあまたね」


 そう言って振り返った矢先、再び僕の方へと向き直した。


「……あ、もしかしたら笹伸くんの病室にシズが来てるかもしれないから、居たら今日は六時までに帰って来るように伝えて貰えるかな?」

「分かりました。僕の言うことを聞いてくれるかは自信ないですけど」


 そもそも伝言自体が、ほとんど経験がない。


「それは大丈夫じゃないかな? シズはああ見えて物分かりが凄く良いだから」

「……そうでしたね」


 そのまま田宮さんは僕に手を振りながら曲がり角を左折し、僕の病室ある方角とは逆の部屋を探しに行った。


 表情には出ていないけど、僕が田宮さんを見掛けるときは何かと奔走ほんそうしているような印象を受ける。


 これだけの入院期間でようやくく、看護師さんは僕が思っている以上に激務なのだと痛感する。


「……戻るか」


 双方のハンドリムを握る。

 車輪が回転するときに発生する発条ぜんまいを巻いたような乾いた音が僕好みだ。


 速度を落として、片方のハンドリムを回しながら曲がり角を右折したあとに直進。

 エレベーターに乗って病室のある階層で降りて僕の病室へと向かう。


 開放されているスライド扉から覗き見る。


 こうして、部屋を空けた間に誰か入室していないか確認するのが習慣になっていた。


 大体がベッド直しをしている看護師さんか、両親か、はたまたその両方が視界に入る。


 ちなみにシズの名前が挙がらなかったのは、僕が居ないとまともな形で病室に入ることがないからだ。


 扉の前で待っていたり、近くの患者さんと話をしていたり、病室に居ても隠れていたり、変装していたり、田宮さんに確保されていたりで本当に退屈しない遭遇ばかりだ。


「今日は誰も居ないみたいだね」


 両親は用事があると帰宅したし、整形外科の看護師さんも別の患者さんの面倒を見なければいけないみたいだった。

 田宮さんは言わずもがな忙しい。


 となると残りはシズくらいだったんだけど、装いも隠れもしていないみたいだ。


 一応。通路を右左と見渡したけれど、それらしき人物はどこにもなかった。


「……適当に本でも読んでようか」


 軽薄に息を吐いてから僕のベッドまでゆっくりと駆動させる。


 すると車輪の回転音の休止符に、毛糸と床が擦れるような雑音が混じっている。


 それに気が付いた僕は、思わず口角をほころばせて、後ろを振り返る必要もなく断定した。


「バレてるよ、シズ」


 するとどうしてと言わんばかりの声が、僕の真後ろから響く。


「あれ? なんで分かったの? せっかくスリッパも脱いでたのに」


 どこからか定かではないけど、シズは僕が操縦する車椅子の尾行をしていたみたいだ。

 今日はこういうパターンかと苦笑いする。


「足音を隠すのは良い考えだけど、摩擦も忘れちゃダメだよ。違和感あるから」

「うーん、スケートの要領でなら気付かれないと思ったんだけど……抜き足差し足忍び足の道は険しいでござる」

「その口調、本当に使っている忍者はいないと思うけど?」

「雰囲気があるからいいの!」


 そう言いながらシズは僕の顔を覗く。

 今日は青紫あおむらさき頭巾ずきん顎下がくかで結んで、頭部を覆っている。


 忍者とも、悪く言えば泥棒とも受け取れるその格好はなんというか。無駄に形から入っているせいでたじろいでしまったけど、素直に似合っていると思う。


「まさか装いまで寄せてきてるとは思わなかったよ」

「これもいいでしょ! 今くらいの髪の長さだと頭巾が丁度いいからね!」

「……そっか」


 僕は感慨深く頷いた。


「うん! それじゃあ皆本、今日はお庭で囲碁大会をしているみたいから、そこに混ぜてもらって五目並べをしよう!」

「……普通に囲碁じゃないんだ?」

「だってルール難しいんだもん。皆本は出来るの?」

「いや、出来ない」


 けれど一人で本を読むよりは楽しそうだ。

 そうして僕はシズの案に頷き、またシズの運転で庭園へと向かう。


 正直。今となっては僕一人の操作でも問題ないけど、やはりシズが居てくれると気がやわらぐ。


「あのさ、シズ」

「ん? なに?」

「……田宮さんが六時までには帰って来なさい、って伝言を預かってた」

「うん、了解です!」


 シズは頭巾のまま、警察官のように敬礼をしていると思う。捕まる側が捕まえる側か、ややこしくなっているに違いない。


 それよりもここで一つ、僕は決意する。

 言い逃れしないように瞳を閉じて深呼吸をする。そして改まって、シズに伝えた。


 「あとさ……僕。そろそろ車椅子を卒業してみようかなって思ってるんだけど、大丈夫かな?」


 僕がそのように述べると、たちまち車椅子が停止する。

 何事かと狼狽うろたえると、またシズが僕のことを覗き見ていた。


「嘘っ! もうそこまで回復したの! 凄いねー皆本、成長期だね!」

「いや成長期かどうかは分からないけど、シズ的にはどうかなって」


 僕が伺いながらシズに訊ねると、淀みの欠片もなく明快に答えてくれた。


「私は皆本が歩いている姿が見たいな。だってまだ一度も見たことないから」


 車輪が回転する音色は心地良い。

 自身の脚を使うことにも抵抗がある。

 けれどいつかは、それを僕はだっさないとけない。


「そのあとにねー、私は皆本といろいろ探検がしたいの。最初はこの病院、その次は近くのお山、ショッピングモールや商店街もいいなー。海や川に潜るのも探検だよね!

 それから洞窟で財宝を見つけたり、言葉が全く通じない所にも行きたいねー。

 いっそ行き当たりばったりでも面白いかも」


 シズが指折り数えて、僕に様々な展望を恵んでくれる。


 これを全て叶えるのは正直困難だ。

 けれど不思議とその想像が脳裏のうりよぎった。


 シズが先導していて、不甲斐ふがいない僕がいつもその背中を追いかけている。


 そこにいる僕は歩くどころか、シズの真横に居たいがために全速力で駆けている。


 気付けば歩くための理由の、遥か先を僕は欲しがっていた。


「シズ」

「なーに?」

「僕はシズの隣を歩けるようになるから。もう少し待ってて」


 五体満足の他人からすれば、ただ歩くなんて取るに足らないかもしれない。


 けれど僕が一番求めているのは、どうしようもなくそんなことだった。


 シズは僕の話を聞くと何を思ったか、先程さきほどまで身に付けていた頭巾を解いて、僕の太腿ふとももに乗せる。


「じゃあ、待ってるね」

「……」


 愛想良く微笑むと自らの髪の毛をさする。


 僕はシズの地毛をちゃんと見る。


 僕以上に短い髪で、汗水が美しく映える。

 何らかのスポーツにでも興じていたら、僕はシズを片隅かたすみで応援しているような気がする。


 とにかく、シズの快活かいかつさと良く合っている髪型だと思った。


「皆本は長い方が好きだよね? だから、こっちの方も待って貰えると嬉しいかな?」

「……うん」


 複雑な総意が渦巻く。

 僕とシズは、お互いを待たせ合っている。

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