エピソード10 前編

 それから二日後の休日。

 早いもので、もうゴールデンウィークも終わりに近づいていた。


 そんな俺に朗報、と言わんばかりに珍しく携帯が鳴った。それも朝八時というタイミングに、それも天使様から。


「はい」

『ごめんこんな朝早くに。まだ寝てた?』

「いや、七時に起きてた」

『よかったぁ。今日用事とかある?』

「まったくやることがない」

『ホント? じゃあさ、映画行かない?』


 映画と聞いて嫌な思い出がよみがえる。

 これまたアホの妹との一件だ。

 中学になりたての俺はひとつ下の妹に誘われてアニメ映画を見に行くことになった。その時小学校で流行りだと聞かされたギャグアニメなのだが、内容は確かによかった。わき腹がつるほど笑ったことをよく覚えている。観客も同様だった。


 ただひとりを除いては――。


 うちの妹、アホのせいで笑うタイミングが少しズレるのだ。おそらく意味を理解するまで時間を要するからだろう。

 そうなると、つまりはだ。

 誰も笑っていない静まり返った映画館に、妹の高笑いのみが響くのだ。

 当然みんなが凝視する。

 アホだけじゃなく、隣の俺をもだ。


 それ以来、若干トラウマになっていてここ最近行っていない。


「ちなみに、どんな映画だ?」

『恋愛モノ。実写の』


 ギャグ系じゃなければ笑うこともないだろうし、知的なたちばなならうちの妹とは違うだろう。


「わかった。何時にどこ集合だ?」

『駅前噴水前に一時。お昼はポップコーンとかチュロスってことで』

「了解だ。せっかくだ、チケットは俺が買おう」

『その心配はナッシング。お姉ちゃんからの貰い物だから』

「そう、なのか……」


 何か嫌な予感がするのは気のせいだろうか。

 その恋愛モノというのは全年齢対象なのだろうか。

 まあ昼の一時台に上映なら大丈夫だろう。


『ほいじゃ、お待ちしてまーす』


 それを最後に電話は切られた。




 出掛ける間際、妹が「誰と会うの?」としつこく聞いてきたために少しだけ遅くなった。これでは十五分前行動ではなく十分前行動になりそうだ。


 噴水広場の椅子に、これから水浴びをせんとばかりにたたずむミロのヴィーナスらしき女子が見える。少しだぼついたクリーム色の長袖セーターの下からスラリと伸びたおみ足が映える。まるで下を着用していないかようだ。


「すまん、遅れた」

「やった。ついに先を越せましたな」


 座りながらブイサインを向けてくる橘。

 雪のように白い足にばかり目がいってしまう。


「えっち」

「な!? み、見てないぞ!」

「見てもよろしいのだよ? そのために着てきたんだから」


 立ち上がって手を広げたその姿、神々しい。

 立ってみて分かったが、ちゃんと下には赤の短パンが穿かれていた。丈が短いので上着で隠れていただけだったのだ。

 しかし、何故俺とふたりで会う時は派手スタイルで、単独行動の時には清楚スタイルなのか……。


「と、とにかく、映画館に行こう」

「あ、はぐらかした。ねえ見たいんだよね?」


 セーターの裾をヒラヒラさせてくる橘。袖の丈が長く、手の先が半分隠れていてキュートだ。

 まるでお人形のようなその姿を、気づけば盗み見ていた。


「それじゃ行こっか」

「え!?」


 見てもいいというから眺め始めるとお預けを食らう。


「ここからのご視聴は有料になります」

「い、いくらだっ!? 手持ちが……」

「必死かっ!? も、もう! みんな見てるから行くよ!」


 ポケットから財布を取り出したところで強制終了させられた。気付けば周りは野次馬だらけだった。

 恥ずかしくなった俺は橘のあとを追った。




 チケット持参のためカウンターに並ぶ必要はなく、俺たちはすぐに売店へ移動した。


「なにする?」

「チ、チュロスでポッキーゲーム、とか?」

「……ねえ、最近委員長の理性くん休憩し過ぎだよね? さすがに館内ではご遠慮ください」

「す、すまん……っ」


 言われた通りだった。

 橘と出会う前の俺ならこんなこと言うはずないのに。

 どうして橘を前にすると暴走してしまうのだろうか。

 カラオケ店でも、あんなに叫んでキスを請うだなんて。


「あーすみません、ポップコーンLとチュロス二本ください」

「ええぇっ!?」


 諭してきた橘がチュロスを注文している。

 ただ、二本注文しているところを見ればゲームをするわけではないのだろう。

 それに続いてアイスオレをふたつ頼んだ。


 トレイを俺が運び、橘とふたりゲートに移動する。


「カップル様ですね? どうぞお楽しみください」


 えっ!? カップル!?


 チケットを切る女性店員からそう言われ、焦って橘を見るも向こうは平然としていた。

 通路を進みながら聞いてみる。


「おい、さっきの……」

「あぁ。コレだよ。カップル割のチケットなんだって」

「い、いいのか!? 俺たちカップルじゃないが」

「いいの、いいの。深く確認なんてしないし。とまあ、そうお姉ちゃんが言ってたんだけどね」


 仕方なく納得して上映室に入った。

 カップルも多いが、圧倒的女性率。

 この瞬間、俺は安堵した。こんなに多くの女性が年齢制限モノなんて見に来ないからだ。


 俺たちはど真ん中辺りの好位置に腰を据えて上映を待つ。


「よくこんな席取れたな」

「わたしたちがスタバで会ったときあるじゃん。なんかさあ、あの日、家帰ってすぐネットで連打してたんだって」

「なんでそこまで」

「いや、さあ、『私が用事に付き合わせなければカレと休日を過ごせたのに、ごめんなさい』とか言っちゃって、謝罪の品だって」

「よ、よくわからんが……」


 やはり元生徒会長の思考はよくわからない。

 俺は橘の彼氏でもなんでもないのに。

 あの時の『よろしくお願いします』はよき友人としてという意味だろうに。


「それにしても良いタイトルだよねえ、『素顔の君に恋してる』だって」

「俺は恋愛映画なんて見たことないからわからんのだが」

「濡れ場もあるかもよ?」

「俳優の濡れ場を見てもなあ……。橘のなら大歓迎だが――あいたっ」


 軽くぺチンと太ももを叩かれた。


「そういう話題はふたりきりの時にしてください」

「すまん」


 その口振りだと、ふたりきりの時はOKということか。


「お、始まる始まる」


 橘がそういうと消灯して上映が開始された。


 序盤、性悪の男に翻弄される清楚ちゃんが描かれる。


『また悪さしてる』

『うっせえ! どっか行けよ!』


 煙草を咥えた高校生、口も悪く、お世辞にもいい人間とは言えない。


 そんなやり取りがしばらく続いた終盤。

 輩に絡まれている清楚ちゃんに遭遇する男。


『い、いやッ!? 放して……っ、くださぃ……』


 そのひとりを無言で殴った男と、輩三人のバトルが始まった。

 一瞬にして勝敗は決し、輩三人が捨て台詞を吐きながら走り去る。


 というか、この男強すぎじゃないのか?

 俺なら瞬殺されるぞ。


『ありがとう……。あ、待って! 行かないで!』

『放せ! てめえのためにやったんじゃねえ! ただむしゃくしゃしてただけだ!』


 袖を引っ張っていた清楚ちゃんが、その言葉に意を決したのか、男の背中に抱きついた。


『君はいつもそうッ!! どうして見せてくれないのッ!! わたし、知りたいよ……。君の本当の――素顔が知りたいの』


 その言葉に少し戸惑った男だが、結局振り解いて行ってしまう。

 いや、この男最低だな。


 そんな時だった、濡れ場でもないのに艶っぽい声が近くで聞こえてきたのは。


 それは俺の右――橘側からではなく、左からだった。

 画面の灯かりに照らされて見えたのは、膝丈ほどの白ワンピースを着ている女性と、その太もも辺りに置かれたゴツゴツした手だった。


 こんなところでイチャイチャか、と最初は思った。

 だが、その女性が必死に手を退かそうとして、その度にゴツゴツした手が勢いを増してスカートの中に入れようとしていた。


「(あの、お知り合いですか?)」


 俺は小さく語り掛ける。


「(し、知らない方です……っ)」


 これは痴漢だ。れっきとした犯罪だ。


 断じて許すまじと思った俺はゴツゴツした手の甲を強くつねる。


「イデっ!?」


 野太い声が響いた。

 身を乗り出して見てみると、スーツを着た中年男性だった。

 恋愛映画を観ていてムラムラしたのかもしれない。


「(ちょっと! やめてくださいよ! 彼女、嫌がってるじゃないですか!)」


 そう言うと、チッ、と軽く舌打ちをしながら男は出口の方へ逃げていった。


 そして流れるエンドロール。

 あああああああああ! 見過ごしたんだがぁぁぁああああ!

 中年男めっ、許すまじ!

 いったい結末はどうなったんだ?


 電気が点き、隣を見ると橘が泣いていた。

 そんなに感動するのか!

 くそっ、ちゃんと見たかったのに……。


「あのぉ、先程はどうも」


 その声に左を見ると、白ワンピ姿の女性が座っていた。丸い大きな瞳を、ウェーブ混じりの栗色の長髪が少し隠している。少し年上に見える。


「あ、あぁ、無事で何よりです」


 俺のラストシーンは無事ではなかったが。


「これだから世間知らずはいけませんわね。珍しくひとりで行動してみればこれですもの」


 話口調やたたずまいからしてお嬢様にしか見えない。持っている黒バッグも高級そうだ。


「いや、さっきの男性が悪いんですよ。あなたに非はありません」

「あのぉ、それで……お礼をしたくございまして、もしよろしければこのあと……」

「それは無理です」

「え」


 俺は隣を示して告げる。


「俺の時間はすべて彼女に投資するので」

「あ、御一緒……。雰囲気がちょっと、てっきりおひとりかと」


 この反応には慣れている。

 ガリ勉大将のような俺と、クールなギャル天使。不釣り合いで当然だ。


 お嬢様っぽい女性は「それでは」と慌てがちにお辞儀をして去っていった。


「どしたの?」

「あぁ、上映中に痴漢が発生したんだ」

「なんですと!?」

「中年男がさっきのひとの太ももを触ってたからとがめたんだ。逃げていったようだが」

「へえ、委員長お手柄じゃん」


 にこやかに微笑んでくれた橘を見て、人助けをした自分を少し褒めたくなった。


 ラストシーンについては事情を知った橘が丁寧に教えてくれた。

 泣いて当然と思える最後だった。

 それだけに見られなくて残念である。


「それにしてもあの女優さん、綺麗だったねえ」


 ヒロインの清楚ちゃんのことを言っているらしい。


「そうか? 橘の方がはるかに綺麗だが」

「――――ッ!!」


 再び靴を脱いで椅子に体育座りをする橘。いつものように背中を向ける反応だ。


「おい、なんで脱ぐんだ! もう終わったんだから行くぞ」

「…………Cパートにキュン死にました」

「いやCパートなんてなかっただろ! エンドロールからはちゃんと見てたぞ!」

「いま始まったのです」

「戦いはこれからだ、みたいな言い方するんじゃない! ほら、行くぞ!」


 しばらく動かぬ橘を、俺は必死に説得した。

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